第7話 その日

「ねえベルキー。私のいいところって、どこ?」


 数日後。いつものように鍵盤の蓋に頬を置いて足をぶらぶらさせながら、私は酔っ払いのようにベルキーに絡んでいた。

 十月も中旬に差し掛かろうという時期なのに、日差しはまだ強い。ブラインド越しの夏が未練がましく、練習室の窓枠に引っかかっている。


「ねえねえ、ベルキー。どこよ、私のいいところ」

 足をばたつかせてペダルの上を軽く蹴ると、ようやくベルキーが重い声を発してくれた。


『……いま考え中だというに』

「なによ。そんなに考えないと出てこないわけ?」

『ううむ。いや、いろいろ考えたんだが、結局はこれだな。オレと話せるところだ』

「なんだ。ピアノに聞いた私が馬鹿だったわ」

『仕方ないだろう。オレにとってはそれが一番なんだから』


 がっかりした声を出しながらも、私は内心、くすぐったいほど嬉しかった。

 自分と話せること。ベルキーがそれを、ちゃんと喜んでいてくれたなんて。


『それにしても、どうしていきなりそんなことを言い出す? また恋か?』

「違うわよ。このあいだお姉ちゃんと話してから、いろいろ考えてね」


 お姉ちゃんが完璧な自分を、懸命にこなしているのだということ。

 そんな自分と比べて、自由に生きている私を、羨ましく思っているのだということ。

 でも私は、自分が言うほど自由でも、羨ましい人間でもないということを知っている。私にとってはやっぱり、お姉ちゃんこそが羨ましい人だ。なんの努力もしないで人を妬んでいるだけの私とは違って、お姉ちゃんはちゃんと頑張れる人だから。


 だから私も、ちょっと頑張ってみようかなと思った。

 お姉ちゃんと並んでも胸を張れる、お姉ちゃんとは違った魅力を持つ人になるために。


「いいところがあるなら、そこを伸ばそうかと思ってさ」

『それならオレじゃなくて、人間に訊いた方がいいぞ』

「ん……でも、ベルキーが言ってくれたいいところも、伸ばすよ」

 私は蓋の上にお行儀悪く肘をつき、黒い表面に映る自分の顔に微笑みかけた。


「これからもたーっくさん、話してあげるからね! そうすればベルキーのお姉ちゃんびいきも、ちょっとはマシになるだろうし。自分を磨いていけばいつか久壁君も、私に気付いてくれるかもしれないし……」

『ちょっと待て。ひいきって、オレがか?』

「他にベルキーがいると思ってんの?」

『そうじゃなく……』


 何か言いかけてベルキーは、急に変な沈黙に陥った。少し待ったけれどそれきり何も言わないので、私は時計を見上げて、少し練習するかなあという気分で蓋に手をかける。


『さほり、腹の具合が変だ』

 突然、ベルキーが妙なことを言い出した。

「腹? 何そんな、人間みたいなこと言って……」

『いいから、ちょっと見てくれ』

 よくわからないけど、さっきからの妙な沈黙は、そのせいだったのかもしれない。


「虫にでも喰われたの?」

 ピアノ椅子からずり落ち、私は膝で這ってベルキーの下に潜り込んだ。

「どのへん?」

『さほり、おまえはしほりとは違う。うまく言えないが、違う魅力を持っている』

 訊いているのに、ベルキーは全然違う話を始めた。


『オレは人間のことはよくわからないが、ヒサカベもそれを知っているはずだ』

「何よ、突然」

 久壁君の名前を出され、不意打ちに面食らって私は頬を赤らめた。こんなときにからかおうって言うの? お腹の具合はどうしちゃったのよ。


『ヒサカベの演奏を聞いたな』

「聞いたよ。おまけに余計なこと言った」

『それが答えだ』

「はあ?」

 思わず立ち上がろうとして、木がむき出しのベルキーのお腹に頭をぶつけてしまう。


『オレは確かにしほりの演奏を正確だと言った。だがそれは別に、おまえより優れているという意味じゃない。単なる事実だ』

 尻餅をついて頭をさすりながらベルキーの声を聞いていると、急に床が揺れた。


 表の通りをダンプでも走っているのかと思ったけれど、そうじゃない。小刻みだった揺れがあっという間に大きくなり、気付けば激しい振動が家全体を襲っていた。

 地震だ。かなり大きい。


「大変、ベルキー」

『そこから出るなよ』


 経験したことのない激しい揺れだった。ベルキーのお腹に手を突っ張って自分の体を支えるのが精一杯だ。本棚に収まっていた楽譜や辞典が崩れ落ち、さらに置時計や陶器の人形や本棚自体が、さっきまで私が座っていた場所に倒れるのがわかった。

 ガアンッと鍵盤が激しく鳴り、本が雪崩のようにこちらへ滑り込んでくる。


「やだっ、大丈夫!?」

『さほり、おまえは耳がいい。オレの体の不調に気付くのは、いつもおまえだった』

 こんなときだというのにベルキーは、落ち着き払った調子で話を続けている。


『しほりが気付かないようなユニゾンのずれも、おまえなら気が付く。少しの狂いも放っておかない。オレにはそれが心地良かった。おまえの長所はたぶん、そういうところだ』


 長所? そんなの今はどうだっていい。それよりベルキー、早く逃げないと!


 相手が重いピアノなのだということも忘れて、私はそんなことを考えていた。現実にはパニック状態だ。揺れがひどくて、実際の行動は何も起こせない。


 パリンッと何かが割れ、メリメリとどこかが音を立て、部屋中が暗くなった。私は怖くて悲しくて大声で悲鳴を上げ、ベルキーのペダルの柱に全力でしがみついた。


「ベルキー!!」

『大丈夫。そこにいれば安全だ』


 私はもうわけがわからなくて、小さい子みたいに泣きじゃくっていた。この世の終わりだと思った。このまま死ぬのだと思った。


「一緒にいて! 一人にしないで!」

『ああ。一緒にいよう』


 そのいつも通りの受け答えに安心して、緊張の糸が切れたのかもしれない。

 それきり目の前が真っ暗になり、何もわからなくなった。

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