第6話 お姉ちゃん
日がとっぷり暮れ、そろそろ夕飯が食卓に並び始める時刻になってから、私はようやく家に戻った。お父さんは会社から、お母さんはパートからそれぞれ帰っていた。
お姉ちゃんがどう処理したのかは知らないが、両親は昼間の出来事を何一つ知らないみたいだ。むっつりと不機嫌な私をちらちら横目で窺っては、顔を見合わせている。
お姉ちゃんの物言いたげな視線を無視して、豚カツとお味噌汁とキャベツとトマトをご飯と一緒くたにかき込んで、私は早々に席を立つと、ベルキーのいる練習室にこもった。
これ自体はいつもの習慣のようなものなので、別段変わったことではない。
『ようやく帰ってきたか』
人間のように余計な感情を込めないベルキーの声を聞くと、なんだかほっとする。
「あのあと久壁君、何か言ってた?」
『いや。出されたクッキーを食べて、また少し弾いて、すぐ帰った』
「お姉ちゃん、私のことなんて?」
『急用で出かけたと言っていたが。本当は何かあったのか? 大きな音がしたが』
「別に……」
私は誤魔化そうとしてやめた。ベルキーに嘘をついても仕方がない。
「お姉ちゃん、あんまり無神経なんだもん。だから怒ったの」
『しほりが何かしたのか』
「しそうになったの。私が久壁君を好きだからって、二人っきりにさせようとしてさ。バッカみたい。久壁君の気持ちには気付かないんだよ。そんな漫画みたいなことして、うまくいくとでも思ってんのかね」
『しほりなりに気を遣ったんだろう』
「それが無神経だって言ってんの。なんでもできる人ってああなのかね? 失敗したことないから、他の人も自分の思い通りに行くと思ってるんだよ。やだやだ」
『しほりはそんなに、なんでもできるのか』
「できるじゃない。ベルキーだって、しほりは正確に弾くって、いつも言ってるでしょ」
『正確に弾くからといって、なんでもできるとは限らない』
「だから、それは一例なんだって。他のことも大抵正確だし、完璧なのよ、あの人は」
『完璧とはいいことなのか』
「当たり前でしょ。完璧じゃない方がいいっていうの?」
ケンカ腰になって言うと、ベルキーはちょっと黙ってから答えた。
『だが今回、しほりは失敗した』
「はあ?」
意外な言葉にびっくりして、思わず声が裏返ってしまう。
『お前に協力しようとしたのに、できなかった。こういうのは失敗だろう』
「まあ、そうだけど」
言われて気付く。本当だ。お姉ちゃん、今回は失敗したんだ。
『しほりは、なんでもできるわけじゃない。大抵のことは正確だが、失敗もする』
機械が自分の使用法を説明するような、やけに平坦な口調で言われて、私は思わず素直に頷いていた。本当だ。お姉ちゃん、こういう失敗もするんだ。
そんな状態だったから、練習室の外からお姉ちゃんが呼びかけてきて、「私の部屋でちょっと話さない?」と言ったとき、私は素直にふらふらと立ち上がっていた。
自分で自分に驚く。まさかこんなに早々と、和解工作に乗ってあげるなんて。
お姉ちゃんの後について階段を昇り、お姉ちゃんの部屋に入る。私の部屋とは大違いの、実に女の子らしい清潔な部屋だ。花か何かのいい香りがして、ちょっと居心地が悪い。
「さほりちゃん、今日はごめんね」
お姉ちゃんがそう切り出したとき、私はついてきてしまったことを半分以上後悔していたのだけれど、仕方がないのでむっつりと頷いてみせた。
「もう余計なことしないでよ」
「うん、もうしない。あのね、私、ああいうのに憧れていたの」
謝罪だけで用事は済んだと思ったのに、話はまだ終わらないようだ。
「女の子同士ってよく、ああいう恋の協力をしたりするじゃない?」
お姉ちゃんは実に真面目な声と顔で、どこかズレたことを言い始めた。
お、女の子同士が恋の協力? 現実でそんなの、見たことないんですけど。
「それってまさか、少女漫画の影響か何か……?」
「うん、そう。少女漫画でよくあるでしょう? ああいうの」
パッと顔を赤らめ、お姉ちゃんは恥ずかしそうにうつむいた。
「私ね、本当は学校の友達と恋の話をしたり、男の子の噂をしたり、あと少女漫画の話をしたりして、盛り上がりたいの。でも、できなくて」
「なんで? そんなの普通に、すりゃあいいじゃん」
「なんかね、そういうのができない雰囲気になってるの。鈴木さんはそういう話に興味ないよねって、そんな雰囲気。だからグループの友達も、そういうのに興味のないような秀才タイプっていうか、学校と塾と家を往復しているような子たちばかりだし……」
話を聞いているうち、段々とわかってきた。
誰が誰を好きだの、いつ告ってフラれたの、なんの漫画のどのキャラがかっこいいだのという話をするには、お姉ちゃんは確かにちょっと、完璧超人すぎるかもしれない。
「でもそんなの、自分も混ぜてって言えばいいだけじゃん。最初は驚かれてもさ、そのうちお姉ちゃんも盛り上がれるんだって分かれば、楽しくなるんじゃないの?」
「そうだね。そうできればいいんだけど、勇気がなくて……」
しょんぼりと肩を落とすお姉ちゃんの姿を、生まれて初めて目撃した気がする。
「親とか先生とか、あと周りの友達とか、そういう人の視線が気になるんだよね。私はいつでもしっかりしてないとって、なんとなく思っちゃって。今のグループを離れたら絶対、みんなに心配されると思うんだよね。それが怖いの。今までと違う目で見られるのが」
私はお姉ちゃんの顔をまじまじと見つめた。
確かにお姉ちゃんが、恋だのドラマだの漫画の話だので盛り上がっていたら、親ばかりでなく私ですら、大丈夫かと心配してしまうかもしれない。
お姉ちゃんに似合うのはピアノと小説と生徒会の仕事であり、中学生らしからぬ落ち着いた雰囲気だ。それがお姉ちゃんを房森中のアイドルに仕立てている所以であって、それを崩して欲しいと願う人は誰もいないのだ。密かに悩んでいる本人以外は。
「私ね、さほりちゃんが羨ましいんだよね」
そんなことを言われて、私は目を真ん丸にした。
「なんで? どこが? ただのおだてだったら怒るよ」
「ほら、そういうところが」
お姉ちゃんは思わずというように笑った。花が咲いたようだった。
「自分を飾らないで、自由な感じでいいなあと思うの。ほら、ピアノを弾くときだって、さほりちゃんは楽譜を見ないで、好きなところだけ弾くじゃない? あれ、すっごく楽しそうだよね。でも私は、そういうのができないの。最後まで正確に弾くことだけ考えちゃう」
疑り深い私は、本当にそう思っているのかしら? とすぐに疑いを持ったけれど、自由にピアノを弾くと楽しいのは本当だったから、しぶしぶ頷いた。
「でもそれはお姉ちゃんみたいに、ちゃんと弾けないからだよ。ただ諦めてるだけ」
「そうかな? 本当にちゃんと弾きたかったら、さほりちゃんは練習すると思うよ」
それもそうかもしれない。私の考えはすぐにふらふらと移動する。確かに本気でピアノを弾こうと思ったことなんて、今までに一度もないかもしれない。私はピアノが好きだけれど、はっきり言って演奏よりも、会話を好んでいたからだ。
「私が頑張るのはね、完璧じゃないと、自分がいらない気がするからなの」
ちょっぴり沈んだ声で、お姉ちゃんが衝撃的なことを口にした。
「なんでも頑張って完璧にこなさないと、誰も見てくれない気がするからなの」
私は本当にびっくりしてしまって、お姉ちゃんの顔がまともに見られなくなった。
怒りなんてもう宇宙の彼方へ飛び去っていた。あちこちに落ち着きなく視線を彷徨わせた。
そんなこと考えていたの? ちょっとすぐには信じられない。
なんにもできない私と、なんでもできるお姉ちゃんが、同じことを考えていたの?
――しほりは、なんでもできるわけじゃない。
ふいにベルキーの言葉が、脳裏に蘇った。
本当にそうなのだろうか。
――大抵のことは正確だが、失敗もする。
それなのにお姉ちゃんは、完璧な人みたいに、頑張っているのだろうか。
「妹にこんなこと話しちゃ、駄目だよね。情けないって、思ったでしょ」
気付けばお姉ちゃんは顔を上げ、眉尻を下げて笑っていた。
「でも、さほりちゃんに話したら、なんだかすっきりした。聞いてくれて、ありがとうね」
胸の奥がぎゅっと、掴まれたようになった。
こんなおかしなお姉ちゃんは、今日限りだろう。明日からはまた、美人で優しくて頭の良い鈴木しほりに戻るに違いない。それがお姉ちゃんの日常であって、自然なことだから。
でも、お姉ちゃんがもし、そうじゃなかったら?
そうじゃないお姉ちゃんは、誰もいらないんだろうか。
「お姉ちゃん」
気付けば呼びかけていた。
「ん?」
もうすっかり元気になった顔で、お姉ちゃんは小首を傾げた。
自分が何を言うつもりだったのか、急にわからなくなって、私は言葉に詰まる。
「……別に情けなくないよ」
焦った末に口から飛び出たのは、そんな台詞だった。
「お姉ちゃん天然だから。誰も完璧なんて思ってないから。それ、ただの考え過ぎだから」
するとお姉ちゃんはちょっと目を見張って、はにかむような顔をした。
「そっかぁ。自意識過剰だね。なんか、恥ずかしい」
どこまで素直なんだろう、この人は。私はうつむいた。
恥ずかしいのはこっちだ。
勝手に嫌い、勝手に羨み、勝手に嫉妬していた、こっちの方だ。
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