第5話 宝箱
私が小学校に上がる直前、ベルキーは我が家にやって来た。
さあ、何が来たんだろう。これ、なーんだ。
もったいぶるお父さんに向かって、ハイハイと手を挙げ、飛び跳ねながら私は答えた。
ぴあの!
正解。そう言ってお父さんは、興奮する私をひょいと持ち上げた。そして四角いピアノ椅子の上に、一人で座らせてくれた。
黒い、つやつやと光る、触るとひんやりする角の丸い形。
鏡のように映り込んだ自分の顔をまじまじと見つめたり、蓋の上のすべすべ気持ちいい感触を楽しんだり。私はひとしきり、ピアノとの出会いを堪能した。
その後にお父さんが取り出したピアノの鍵の、素敵だったこと。
お城のお姫様が隠し持っているような、細長くてシンプルな銀色の鍵だった。
秘密の小部屋に続く扉にぴったりと合いそうな、家の鍵とは似ても似つかない形の、「これぞ鍵!」という鍵。持つと重くて、ひんやり冷たくて、秘密を握った気分になる。
私はお父さんにせがんで、それを開ける役目を譲ってもらった。
差し込んで回すと、鍵盤の蓋がカチリと音を立てる。
すぅ、と持ち上げられた長細い蓋。その下から現れた黒白の並びの、美しかったこと。
そっと白鍵を押すと、優しい音が黒い箱から飛び出た。それだけで胸がわくわくした。
押せば鳴る。その単純なやりとりの、なんて嬉しいこと。
「あなたの名前はなんていうの?」
尋ねると、ごくごく自然な調子で返事がきた。
『さあ。名前とはたぶん、付けてもらうものだと思うが』
押せば鳴る。そんなふうに。
鈴木家のピアノだから、鈴木ピア男とかピア子でいいんじゃないか? なんてセンスのないことを言っているお父さんは放っておいて、私はお母さんに知恵を借りた。
ベルでいいんじゃない? 鈴木の鈴を英語にして、ベル。
いい案だと思ったけれど、それだと女の子っぽいので、キをつけることにした。だってピアノの喋り方は、どう考えても女の子じゃなかったのだ。
あらいいわね、ベルキー。鈴木の木と鍵盤のキーをかけて、ベルキー。いいじゃない。
自分で考えたことを褒められるなんてあまり無かったから、とても嬉しくって、私は誇らしげにピアノに宣言をした。あんたの名前はベルキーよ。いい名前でしょう。
その日、風邪をひいてお母さんと一緒に病院に行っていたお姉ちゃんは、帰ってきてから私の手の中にある銀色の鍵を見て、とても羨ましがった。
おとぎ話に出てくるようなその鍵を、自分も使ってみたかったのだ。でも私は鍵を手放さなかったし、お姉ちゃんは物分りの良い子なので、それ以上妹と張り合おうとしなかった。
お姉ちゃんに羨ましがられるなんて、初めてに近い体験だったので、ずいぶん気持ちのいい記憶として、私の頭の中に残っている。
鍵の保管は結局、私の役目になった。
今も机の中の「大事な物入れ」に、他の宝物と一緒にしまってある。
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