第4話 フーガ
あった。そして来た。
「鈴木さん、もう一度お邪魔してもいいかな」
と真面目な顔で久壁君に声を掛けられた三日後、彼はベルキーと再会していた。
「この間よりもずっと完成させたので、聞いてください」
やはり緊張気味にそう口上を述べて、お姉ちゃんと私が見守る前で華やかな前奏を弾き始める。お姉ちゃんはベルキーの横に立ち、私は久壁君の真後ろのソファに座っている。
『さほり、今日はちゃんと聞いておけよ』
ベルキーが突然そんなことを言ったので、危うく返事をしそうになってしまった。
言われなくたって……と唇を尖らせながら、演奏に耳を傾ける。
聞きながら、久壁君はやっぱり男の子だなぁ、と感じた。
同じ曲で同じ弾き方をしていても、お姉ちゃんと久壁君とでは、微妙に違って聞こえる。
繊細で柔らかく、すべすべの絹を広げていくようなお姉ちゃんの音に対し、久壁君の音には一つ一つ芯があって、やや硬い部分もあるけれど、歯切れがいい。それにフォルテの重量が全然違う。私やお姉ちゃんの指では出せないしっかりとした力強い音が、ベルキーのお腹から響き出ている。
お姉ちゃんより拙い感じはするけれど、彼の演奏もいいなぁ。
私は素直に感心した。久壁君のことが好きとか嫌いとか関係なく、いい演奏だと思った。
でも、曲が終盤に差し掛かったところで「あれっ」とあることに気付いた。
「うん、すごく上手になってると思う。気持ちのこもったいい演奏だね」
曲が終わってお姉ちゃんがパチパチと手を叩きながらそう評すと、久壁君ははにかんだような笑みを浮かべてぺこりと頭を下げ、こちらを振り向いた。
「鈴木さんも、何かあったら言ってほしいな」
「うん、いい演奏だったよ。でも一つ思ったんだけど、これって伴奏だよね」
私は首を傾げ、頭の中で今の演奏を再現して、少し引っかかった部分を口にした。
「たぶん今のままだと、歌より演奏の方が目立つよ。ソロならわかるけど……」
言いながら久壁君の表情が一瞬固まったのを見て、私はハッとした。
しまった。今のは確実に、ここですべきではない発言だった。
演奏に必要以上の気持ちがこもっていたのは、好きな人の前だからに決まっている。そうでなければ久壁君が、こんな初歩的なミスをするがないのだ。
お姉ちゃんの前では、言ってほしくないことだったに違いない。
久壁君に次いで固まった私の頭上を、お姉ちゃんのよく弾む声が通過する。
「さすがさほりちゃん! 私なんて、ピアノのことしか考えてなかったよ〜」
黙れ。なんて呑気な女なんだ。
久壁君はたぶん、満を持してこのときに臨んだのだろう。お姉ちゃんに自分の努力を認めて欲しくて、好印象を与えたくて。それなのに私が台無しにしてしまった。
誰だって密かな自分の気持ちを、好きな人の前で指摘されたくはない。
しばし虚空を見つめていた私の腕を、お姉ちゃんが急に掴んだ。
「ねえ、ちょっと休憩して、おやつにしようよ。さほりちゃん、手伝って」
あれよという間に連れ去られた。気付いたときには後ろで練習室の扉がバタンと閉まり、再び意識を取り戻したときには、キッチンで二人分のお茶とケーキを用意していた。
「はい。じゃあこれ持っていって、食べてね」
お姉ちゃんにお盆を押し付けられたところで、初めて我に返る。
「……これ、二人分しか無いじゃん」
「いいの。お姉ちゃんはこれからちょっと、出かけてくるから」
うふふ、と楽しげな表情で微笑む彼女を、私は怪訝に見つめる。
「え? だって、レッスンは? 久壁君、待ってるのに」
「だって、もう私が教えられること、何もないじゃない」
弟子に全てを教えつくした空手師範のようなことを、お姉ちゃんはのたまった。
「だから邪魔者は、退散することにしたの。はい、ほら、行った行った」
「な、何言ってんの。なんでお姉ちゃんが邪魔者なのよ」
「だってさほりちゃん、好きなんでしょう?」
肩を覆う細い黒髪をさらりと揺らし、かわいらしく小首を傾げるお姉ちゃんに、私はぎょっとする。お茶が揺れて少しお盆にこぼれた。
「見ててわかっちゃった。さほりちゃん、趣味いいね。いいなあ恋って。頑張ってね!」
フライパンか何かで殴られたかのように、頭がガンとした。
まさか、こんなおっとりした人にバレていたなんて。
久壁君が好きだなんて、私、一言も喋ってない。素振りを見せた覚えもない。
それなのにたった二回同席しただけで、それがわかってしまうなんて。
だったら、久壁君の気持ちに気付いたって、いいんじゃないの?
彼の目的は私じゃない。お姉ちゃんがいなくなったら、がっかりするに決まっている。二人っきりにされたって、何を話したらいいのかなんてわからない。
私と久壁君はお姉ちゃんを通じて、僅かに繋がっているに過ぎないのに。
……それともまさか、わかっていてやっているの?
頑張った末の失恋なら仕方ないよ。全部終わったあとでこの人は、そんなことを言うのだろうか。私の絶望を軽々と越えて自分だけ、素敵な彼を見つけるのだろうか。
勝手な想像が次々と頭に浮かんで、なんだか気持ち悪くなってきた。
今までより数十倍、にこにこ笑うお姉ちゃんが憎らしくなった。
この人はきっと、妹のためを思って恋の舞台をお膳立てしてやったという、物分りの良い素敵なお姉さまを演じたいだけなんだ。
呑気なんて嘘。おっとりしているなんて嘘。本当は全部全部、わかっているくせに。
「やめてよ、こういうの」
勢いよくお盆をつき返すと、湯飲みの中でシーソーのようにお茶が揺れた。
「なんでそういう余計なことするの? 迷惑だよ!」
急に怒り出した私を見て、お姉ちゃんは目をぱちくりさせている。
その顔がまたイラついて、私はもうどうでも良くなって、お盆から手を離した。
ガシャァンッ! 食器が音を立てて飛び跳ね、お茶もケーキも器からはみ出て無残に散らばった。そこにきて初めてお姉ちゃんの白い顔が、さっと青ざめる。
「さほりちゃん、そんなに怒ること?」
「黙れ!」
私はキッチンから駆け出し、そのまま玄関に向かって外へ飛び出した。後ろでお姉ちゃんが何か言っていたけど、聞きたくなかった。
馬鹿じゃないの。馬鹿じゃないの。馬鹿じゃないの!
困った顔でケーキの残骸を片付け、久壁君に事情を説明するお姉ちゃんの姿が目に浮かんだ。驚き、呆れる久壁君の顔も。もうなんでもいい。邪魔者は私だ。
久壁君は二度と私に話しかけないだろう。うちにも来ない。代わりにお姉ちゃんと外で会うようになって、お姉ちゃんが彼のうちに遊びに行くんだ。
きれいなピアノ教師のお母さんに会って、美味しいケーキを一緒に食べて、ピアノを弾いてみせて、まあ上手ね妹さんとは大違い。良かったわねぇしほりさんと仲良くなれて……。
良かったじゃないの。ああ本当に良かったわね! お姉ちゃんが全てを持っているなら、私なんてこの世に必要ない。なのに、どうして生まれちゃったんだろう。
お姉ちゃんになくて私にあるものは、たった一つだけだ。
ベルキーに会いたい。
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