第3話 調律師さん


 ベルキーの体調の変化に気付くのは、いつも私だ。


 コンサートサイズほどの大きさはないものの、歴としたグランドピアノのベルキーは、それなりに立派な図体を持っている。そのくせ、暑さ寒さや練習量の多さなんかに左右されて調子を崩してしまうような、意外に繊細な面を持ち合わせている。


 一週間くらいしてからピアノのお医者さん、つまり調律師がやって来て、いつものようにもったいぶった様子で、ベルキーの診察を始めた。

 調律師という人たちはいつでも、ベルキーをとても大切なお姫様のように扱う。

 ベルキーの声に耳を傾けているかのように、真剣な表情で一つ一つの音を確かめては、そっと頷いたり、首を傾げたりする。会話の調子を段々と合わせていくように、チューニングハンマーを上手に操って、三本ずつの弦のユニゾンを合わせていく。


 私はこの調律の風景を見るのが好きで、静かにしている約束で、いつも見学させてもらっていた。言葉のない会話のようなものが、黒い背広に白いシャツを着た調律師さんと、似たような格好をしたベルキーとの間を流れる時間に、うっとりするのだ。


「もしかして、ピアノとお話できるんですか?」


 小さい頃、まだ若い調律師のお兄さんに聞いたことがある。

 お兄さんは妙な質問をする子どもを邪険にするでもなく、からかうでもなく、生真面目そうな真剣な眼差しで、静かに教えてくれた。


「そうなったらいいと、いつも思ってるよ」


 本当にそうなったらいいのに。私も真剣に思いながら頷いたのを覚えている。

 横でベルキーも、ウムウムと頷いているような気がした。


     *


「あ、そこはね、もっとためた方が、歌が入りやすいと思うの」


 お姉ちゃんのほっそりとした白い指がスラッと動き、表情豊かに音色を奏でる。

 その優雅な動きを眼鏡の奥で、久壁君が真剣に見つめている。

 そんな二人を見守るしかない私は、ベルキーに八つ当たり気味の視線を送っていた。


『なんだ、変な顔して』


 うるさい。

 言葉に出すわけにもいかず、私は頬を膨らませて、プイッと横を向く。

 鈴木しほりによる、久壁君のためのピアノレッスン。そこになぜ、私がいるのか。

 別に練習の邪魔をしようと、自分からのこのこ湧いて出たわけじゃない。練習に参加してくれるよう、久壁君から直々に頼まれてしまったのだ。


「ごめん、悪いんだけど、ほら、鈴木先輩って何かとその……優秀だからさ。二人だけだとたぶん、緊張しちゃうと思うんだよね。それにその、鈴木さんの意見も聞きたいし」


 何度も眼鏡のつるを触りながら、目に見えてそわそわしながら、久壁君はそう言った。

 ほんのり桃色に染まっているように見える彼の頬を眺めながら、私はこのまま気が遠くなればいいのにと、何度も思った。


 なんだね君の、その無駄な緊張っぷりは。


 いくら優秀なスズキセンパイとはいえ、相手は普通の女子中学生だ。いくらなんでもそこまでの緊張をするはずがない。別の思惑が絡まない限りは。

 つまり彼はきっと、そういうことなのだろう。


 ああ久壁よ、おまえもか。


 どうやったら映画でよく見かける貴族の女の子のように気絶できるんだろう。私はフゥとかハァとか、いろいろな気絶っぽい溜息を試してみた。このまま倒れればきっと二人は駆け寄り、早く気付け薬を、とか言って茶色い小瓶を私の鼻にあてがってくれることだろう。


「ごめんね鈴木さん、つき合わせちゃって。気分悪いの?」


 額に手の甲を当てる角度を研究していたら、知らぬ間に久壁君とお姉ちゃんがこちらを見ていた。私は慌てて居住まいを正し、首をぶんぶんと横に振る。


「ううん、大丈夫。ごめんね、あんまり意見言えなくて」

「いや、まだまだ俺も、指がぎこちないからさ」

「前にこの曲弾いたときは、さほりちゃんが参考になる意見を、たくさん言ってくれたの」


 お姉ちゃんがおっとりと、そんな余計なことを言い始めた。


「さほりちゃんはすごく耳がいいの。この曲って、わざと変な和音を使っている部分があるじゃない? そういうところの符号を読み飛ばしていると、そこ変だよって、すかさず教えてくれるの。合わせて歌ってくれたりもしたよね」

「へえ、そうなんですか」

 感心したような顔でこちらを見つめてくる久壁君。


 私はなんだかもう、居ても立ってもいられなくなって、スカートの皺を伸ばしたり増やしたり、忙しかった。

 お姉ちゃんのばか。なんだって彼の前で、そんなことを言うんだ。

 私は別に、お姉ちゃんのためにいろいろ言っていたんじゃない。

 お姉ちゃんの失敗を少しでも見つけたくて、耳を澄ましていただけなのだ。

 結果的にそれがためになったのだとして、私には私なりの、嫌な思惑があったのに。


「いいなあ、きょうだいって。俺一人っ子だから、そういうの憧れるんですよ」

 素直な久壁君の発言に耐え切れず、私は思わず顔をうつむけてしまった。

 ごめんね久壁君。

 私、お姉ちゃんが嫌いなんだよ。


     *


『今日はずいぶんと大人しかったな』


 久壁君が帰ったあと、誰もいなくなった練習室で<トロイメライ>を弾いていると、ベルキーがそんなふうに話しかけてきた。


「あんたこそ。あれから一言も喋らなかったね」

『知らないのがいたからな』

「どうせ聞こえないのに」

『お前には聞こえるだろう』


 ふーん。気遣ってくれたんだろうか。


「久壁君のタッチ、どうだった?」

『悪くない。だが硬すぎる。妙に緊張していたな』

「ああ……そうかもね」

 お姉ちゃんが傍にいたからだ。お姉ちゃんの傍にいると、大抵の男子は緊張する。


『なんだ、溜息なんかついて』

「あんたにはわからない人間の悩みよ、ベルキー」

『ということは、また恋か』

「またって何よ、またって」


 私以外とは喋れないのをいいことに、人に言えない悩みや愚痴なんかの全てを、私はベルキーにぶつけていた。お陰でベルキーは今や、かなりの鈴木さほり通になっている。ピアノというより、お悩み打ち明け箱だ。


『あの男の子が好きなのか』

「悪かったわね」

『悪くはないだろう』

「悪いわよ。久壁君はお姉ちゃんが好きなんだから」

『そうなのか? 本人に聞いたのか?』

「聞いてないけど、態度で分かるでしょ。やっぱりあんたってピアノね、ベルキー」

『ふうん、そうなのか』


 納得したようなしないような、変な相槌を打って、ベルキーは黙り込んだ。

 私が<おねだり>を弾き終えたところで、再び話し始める。


『さほりはヒサカベの演奏を、どう思った?』

 聞かれて私は少し考え、今日の彼の演奏を、ちっとも覚えていないことに気付いた。

「よく覚えてないや。ずっと違うこと考えてた」

『じゃあ、次はよく聞いてみるといい』


 次? 次なんてあるのだろうか。

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