第2話 久壁君
「鈴木さん、ちょっといいかな」
久壁君に話しかけられたのだと理解した瞬間、私の全身がマネキンのように固まった。
黒縁スクエア型の眼鏡を鼻の上でちょっと押さえ、一年C組前の廊下で私を呼び止めた久壁君は、黒味の強い瞳でじっとこちらを見つめていた。
意志の強そうな、真面目そうな目からおずおずと視線を逸らし、薄めの唇が形良く動いているのを見て、またそわそわと目のやり場に困る。白いシャツに包まれた薄い肩とか、とんがり始めの喉ぼとけなんかを目撃しては、なぜか恥ずかしくなる。
「それで今度、鈴木さんちに行ってもいいかな」
突然そんな言葉が耳に飛び込んできて、心臓が飛び出そうになった。
「えっ? な、なんでっ?」
それまでの話をあまり聞いていなかった私は、思いっきり動揺して聞き返してしまう。
「あ、ごめん、聞いてなかった?」
しまった……よりによって相手が久壁君のときに、ひどすぎる失敗だ。
長めの前髪をうるさそうに振り払って、久壁君はすでに一度していたらしい説明を、私のためにもう一度繰り返してくれた。
十一月に行われるクラス対抗の合唱祭で、B組の自由曲伴奏者に彼が選ばれたこと。
その自由曲はピアノ伴奏の難易度が、非常に高いと言われていること。
それと同じ曲を去年、一年生の鈴木しほりが弾き、見事クラスを学年優勝に導いたこと。
鈴木しほりの評価は高く、先生からも彼女にアドバイスを受けるよう、勧められたこと。
しかし合唱部が外部コンクールでまさかの全国大会進出を決めてしまい、放課後の音楽室は専ら彼らの練習に、後の空いた時間も奪うようにして各クラスの練習に用いられている。そうした事情で、鈴木しほりからアドバイスを受ける時間がなかなか設けられない。
「だから、もし迷惑でなければ、鈴木さんちで練習させてもらえないかと思って。うちは母がピアノ教室を開いているから、日中招待するわけにもいかなくて……」
もちろん、久壁君の頼みを私が、断れるわけがなかった。
二つ返事で承諾し、気付けば私は、鈴木しほりとの橋渡し役まで引き受けていた。
*
「我が姉ながら憎いやつ」
『なんだ、やぶからぼうに』
ピアノ椅子をマックスの高さにして腰掛け、鍵盤の蓋に頬をつけて暗くつぶやく私を、ベルキーは少々怪しんでいる。
『どうでもいいが顔を乗せるな。油がつくだろう』
「どうせ私はお姉ちゃんみたいに、さらさらのお肌じゃありませんよ」
『無闇にペダルを踏むな。弱音器をガタガタ動かすな。オレを壊したいのか?』
「どうせ私はお姉ちゃんみたいに、おしとやかじゃありませんよ」
『お前、練習しに来たんじゃないのか』
「どうせ私はお姉ちゃんみたいに、音大目指すほどの腕前じゃないですよ」
『だから練習するんだろう?』
「どうせ不真面目ですよ。どうせ見込みもないですよ。どうせ」
どうせどうせ言うのが途中からちょっと楽しくなり、景気付けにひとつ練習でもするか、という気分になって、私はようやくピアノの蓋を開けた。
玉座へ続くレッドカーペットのような赤紫色の布を取り除くと、きれいに整った白い鍵盤がズラリと現れる。私は無造作に右手の人差し指を置いた。
ポーンと玉のように転がり出た音は、レだ。
それをきっかけにして次の音を探す。考えるより先に指が鍵盤の上を踊る。
ポロポロと音楽を奏で始めた右手を追うようにして、左手が低い和音をそっと見つけ出す。
楽譜がないまま私は、記憶の中にある曲を勝手気ままに弾き始めた。お手本通りになるまで真面目な繰り返し練習をするより、そうやって遊ぶ方がずっと好きなのだ。
『そこ、違う』
『そんな単純な和音じゃない』
『しほりはもっと正確に弾く』
『勝手に転調するな』
『こら、聞いてるのか?』
途中でベルキーがいろいろうるさかったけれど、全部無視。ベルキーはお姉ちゃんでもひいきしていればいいんだ。どうせ楽譜を見たって、私が完璧に弾けるはずないんだから。
いくら言っても無駄だと悟ったのか、途中からベルキーもむっつりと大人しくなってしまった。そうなるとそれはそれで、ちょっと物足りない。
「何よ、怒ったの?」
『そんな無駄なことはしない』
「私の編曲どう?」
「ただの失敗に聞こえる』
「もー、わかってないなあ!」
私は大げさに嘆き、ベルキーが人間だったら眉をしかめて石でも投げそうな編曲を、さらにじゃんじゃん盛り込んでやった。そうするうちにふと気が付く。
「ベルキー、あんた、また風邪ひいたみたいだね」
『そうかもしれないな……どうも声が悪い』
「後で、お母さんに言っとくからね」
『ああ。……うう』
思う存分ベルキーを閉口させた後、私はお母さんに、ベルキー風邪ひきの旨を報告した。
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