丸齧りの恋

薄暗く、湿気た夜だ。すぐ先の景色は霧で覆い隠され、船乗りたちの髭をたちまちに濡らす。ぽちゃり、ぽちゃり、どこからか音がした。


「今の音は?」


 今じゃ古っぽいオールを持たされた若い男が不安げに引き攣る声で言う。


「きっと魚だろう。ここらへんは釣り人には人気のない不味い魚が沢山泳ぐ」

「ええ、そうかも。波の音じゃなかった」


 若い男はすっかり冷えた口内の唾を飲み込んだ。それでもオールを漕ぎ続ける。カビた木板のボートは船乗りたちの母船を遠く離れて岩礁が隆起する狭い狭い海辺へと向かう。

だが、その豆ばかりの手がピタッと止まる。


 オールを漕の横。たった数センチだけ横に、少女がいた。ボートに乗り上げるように夜に浮かぶ小枝みたく細い艶やかな腕の、その白さときたら。息が、止まってしまいそうだった。もしかしたら時は本当に止まっていたのかも。若い男と目が合うと、少女はにっこりと微笑む。青い瞳をしていた。


「君は……」


 止まったオールを不振がった背後の座席に座る船乗りは凛々しく太い眉毛を吊り上げた。「おい、どうした」と声をかける。だがそれさえかき消す麗かな歌声が聞こえてきたのだ。


「なんて、綺麗なんだろう」


 白くて繊細な濡れ色の髪の中で、真っ赤な唇だけが浮き出て見える。心を奪う甘きて、透き通るような……歌声が、その唇の奥から響き若い男を絡めて離さない。いつの間にか手はオールなど握ってはいなかった。


「おい、一体何を見てんだあんた」


 美しい少女の手が頰へと伸ばされる。ひたり。冷たく気持ちがよい感触がした。まるで恋人のような触れ方にうっとりとして、若い男すっかりと夢中になる。その歌に、白い肌に。真っ赤な唇、の、奥に覗く鋭い牙。


「君は……」


 若い男の声はそれ以上は続かなかった。歯茎まで剥き出しにされた口がガブリと温かい首に突き立てられる。火花みたいに血が吹き出した。あっという間に男の体は海の中へと引き摺り込まれる。悲鳴も残らない。ただ一個、飛び抜けた右足分の靴だけコロンと座席に転がって、ぎゃあ! と後ろの船乗りは遅れて声を上げる。


「人魚だ! 気をつけろ!」

「大変だ……! 逃げないと」


 逃げろと言ったってどこへだ。自分たちは今船に乗っていて、すぐ下の海はあいつらの縄張りだというのに。混乱の渦に飲まれる船乗りの一人が慌てて立ち上がる。すると、それを待っていたかのようにまた違う方向から飛び出す人魚によって海へと落ちた。落ちた男は、もう二度と海面へは上がってこない。

 ごとん、ごとん。船底から何かがぶつかる音がする。木の板を爪で引っ掻き傷つける音がする。船は水に投げられたガラス瓶みたいに不安定に揺れていた。


「船の底に……!」


 そのうちバシャンと船が大きく揺れて跳ね上がる。一瞬で転覆した船から放り出された船乗りたちは暗く深い海に体を浸けて、バタバタと手足を動かし空気を求めるのだったが、誰一人として、二度と、息継ぎをしない。



「消えた船乗り。沖を漂う亡霊船の海戦……」


 気楽な服に身を包んだ六夜光は見出しだけを読むとソファに新聞を投げ捨てた。かさりと紙の擦れる音がする。紙屑同然の扱いを受けた可哀想な新聞紙。もう一人、ソファにもたれかかってダルッと脱力していた閑が代わりに拾い上げる。


「フライング・ザ……ダ……ふう。難しい綴りで書かないでほしいよ、これって新聞なのに」


 とにかく亡霊船の発見が、ここ最近の東では相次いでいるらしい。亡霊船とはいっても無人船のことを記事らしく色付けて表現したまでであり、実際に体の透けた幽霊が舵を取っているなんて誰も信じちゃいない。


「六夜光は気にならないの?」

「お化けって信じてないんすよねぇー」

「そう言って。実際に遭遇でもしたら叫び散らすくせにさ」

「閑クンこそ虫を見たら叫ぶでしょ! この部屋にだって一体何匹潜んでることかわかりませんよ!」

「嘘でしょ、お前、掃除くらいしてくれないと! ボクの溜まり場でもあるってことを忘れないで」


 男の一人暮らしほどズボラな生態はない。彼方だって掃除はそぞろ、全部寮の使用人に任せっきりで自分じゃやらない。


「幽霊なんて害虫に比べれば可愛いもんですよ。いたとして、無害ならどっちでもいい。結局ですけど」

「害なら十分出てるじゃない。これ以上商船が襲われたらボクたち無職になっちゃう。それに、消えた船乗りはどこ?」


 閑は新聞を投げ返す。シャツのボタンを一個外すついでに掴んだ六夜光は、うーんと目通しを再開した。これでも六夜光って男は貴族であり、難しい文字も容易く読める。ただ肝心の文章は読めない。知識はあっても馬鹿だから。


「調査の命令されるのは六夜光たち騎士だよきっと。他人事で済まさない方がいいぞぉ」

「……ジツのところ、もう出てます」


 言い分が当たってワッと声を上げて閑は笑う。


「あんま外部に口漏らすと問題なんすけど、今回の事件って魔物の仕業って検討がついてるんすよね」

「魔物、か。上手だな、そういう不恰好でダサい言い方」


 海に出没して船乗りを跡形もなく消し去るなんて芸当のできる魔物は一種しかない。きっと人魚だ。閑はきらっと光る黄色の瞳を期待と興奮に潤ませる。


「ねぇ、それって六夜光も行くのかな。船はご入用じゃなあい? 協力するからボクも立ち会えないかな」

「もう……やめてくださいよぉ!」


 六夜光はお手上げとばかりに手を振り、閑の横で並ぶように腰かけた。


「無理ですよ、それに僕は不参加です! あんまりにも被害が大きすぎるんで、女王様が早々に手を打ちました」

「なら余計に関係ありありだろ。なんでそんな、我関せずなの?」

「だって……もう、絶対に解決するって分かってますもん」


 何その自慢。茶化すようシャツ一枚纏った六夜光の肩を叩く。




 発情期になり子供を産む人魚たちは齧りつくして一片たりとも肉が残らない骨を海底に投げ捨てると長く美しい髪を指ですく。


「ねえお姉ちゃん。私も陸に上がりたい!」


 ボートを襲って帰ってきた大勢の姉妹に、唯一残された末っ子は抗議の声を上げる。どうしてみんなだけ陸に上がれるの。私の顔が歪んでいるから? 声が嗄れて老婆のようだからなの。


「何言ってるのマリッサ。そんな醜い顔で男を食べられるものですか」

「そうよ。まるで岩にこべりついた貝殻みたいよね貴方。陸に上がれば奇形だと思われてしまうわ」


 くすくす指を差されながら嘲る声がする。コツンと飛んできたのは大腿骨だ。太くて、頭に当たるととっても痛い。


 それでもマリッサは諦めなかった。拾った鏡に映る自分の顔の、なんて醜いことか。一秒だって眺めたくない。左右不釣り合いの瞳、丸い鼻。分厚い唇。姉妹たちは揃いも揃ってみんな美人なのに。これじゃあ誰も私が人魚だって思わない。陸に上がった私はじゃあ、一体なんなのだろう。人間は私を見てどんな魔物だと思うだろう。


「うん、そうだね。私にもいつか、王子様が来てくれるはず。お母さんはそう言ってた」


 人魚にはいつか、格好よくて素敵な人間の王子様が目の前に現れるんだって。そうお話がある。伝説で残ってる。私のように醜くてもきっと、こんな場所から救って人間の世界へ……いつか陸へ連れて行ってくれる王子様が現れる。唯一の話し相手であるイソギンチャクに話しかけた。


「うん、うん。……え? 今なんて言った?」


 イソギンチャクはゆらゆら水に揺れながら私に話しかける。地上に行ってみようって。食事以外の理由で、一度だけ。太陽が海の底より遠くに沈んでしまえば、人間には姿を捉えられないだろう。人間って暗がりでは目が見えなくなるんだって。だから灯りと共に生きて、暗闇と共に眠るんだって。ならきっと見つかったりしない。


「うわ、なんて……魅力的。楽しそう」


 そうだ。別に食事じゃないんだから。大勢で陸に向かう必要はない。空気を浴びて、少しだけ人間の家を遠くから眺めるだけ。船が泳いでいく音を聞くだけ。それならきっと大丈夫。


「そうだね。それがいいよ。行って来るね、一度だけ。お姉ちゃんたちの誰にも内緒で」


 行って帰ってくるだけ。そう言い聞かせてぐんぐんと地上へ向かう。左右非対称の泥色をしたヒレを使ってぽちゃんとついに、顔を出した。浴びる空気はふんわりと暖かい。本当に私が水中から上がってる!


「あれってなんだろうね! 光ってる、煙も上がってる」


 返事は何もない。そうだった、イソギンチャクは海底から着いてこれないんだった。


「それに、見て! 小さな船が沢山停まってる。どうして? あれじゃ人間が三人くらいしか乗れないのに」

「教えてやろうか」


 驚きすぎて大粒が跳ねた。人がいる! 岩礁の上に、真っ暗なのに私の姿が見えてる。


「あ、あ、あなた……人間だよね?」

「そうだけど。そんな言い方したら、自分がそれ以外って教えてるようなもんだぞ」


 人魚の目には暗闇なんて関係ない。だからよく見える。真っ直ぐに通った鼻柱は拾った彫刻像みたい。それに珊瑚みたいな髪と瞳。いや、ううん。瞳はそれに真珠もきっと入ってる。


「とってもかっこいい」

「そうか、ありがとう。港に近づけばもっと決まったやつがいるぜ。行ってみないのか?」

「行ったこと……ないから……」

「なら俺が連れて行ってやる」

「だけど私……」


 私は人魚だから行けない。地上へ上がるのにも精一杯の勇気が必要だったのに。陸になんてどうかしてる。男は口角を上げてにっと笑う。そんな姿さえ格好いい。


「人魚なんだろ? 足が生えないなら、おぶってやるよ。これでも力には自信があるんだよな」

「私が……人魚に見えるの?」

「それ以外に見えるかよ」


 とても、とても嬉しい。岩の上から私へと差し出される手。おずおずとそれに捕まった。飛び上がるように海から出ると、鰭は細くない人の足へと変化する。服がないけれど、彼がすかさず私の肩に自分が羽織っていた布を被せてくれた。


「とりあえずは……服が必要だな。それからゆっくり話そうぜ。人間の世界を見せてやるよ、だから、人魚の世界も教えてくれ」

「う、うん。私はマリッサ」


 お母さんの言葉を思い出す。彼が、彼こそが私の王子様なのかもしれない。王子様は人魚を素敵な世界に連れ出してくれる。見たこともないような、広くて綺麗な世界へ。


「俺は、彼方だ。よろしくな」




 人魚に会いたいと願ったのはいつからだったろう。閑は一人しかいない部屋の中でページを捲る。分厚くて、古い童話集は鼻を寄せると落ち着く紙の匂いがする。これがいつも、閑の心を安らげてくれるのだ。


「人間の王子様に恋をした人魚のお姫様は、自分の声と引き換えに、王子様と同じ足を手に入れました」


 物語の中と現実の人魚が違うなんてことわかってる。散々今まで言われてきた。それでも閑は架空の人魚に恋をしたし、もしもギャップがあるというのならこの目で見て、打ちひしがれて、失恋したいと願うのだ。


「だからってこんな……仕打ちは……」


 まるで漁船に捕まった魚のようだ。大きくて頑丈な網に引っかかった大量の人魚が上げる悲鳴のような水飛沫が甲板に広がる。


「一匹逃すと次の年には十匹に増える。増えるためには人間を襲う。残さずに捕らえる必要があるんだよ」


 単調な視線でそれらを眺めていた彼方は、立ち尽くす閑を慰めるように肩に手を置く。形なりの、行儀だとすぐにわかった。


「辛いなら見ない方がいい」


 これから始まるのは鏖殺だ。引き上がった魚を処理する。もし人魚の肉が食べられたなら、売り物にでもできるのにとこれらを眺める他の船乗りは口惜しそうに顰めていた。


「まるでネズミみたいに言わないでよ。彼女たちは……」

「気持ちはわかる。だけど生態はネズミと変わらない」


 彼方は彼女たちが殺されてしまうことなんて少しも気に留めてないんだろう。冷たい言葉の節々から伝わるよ。悲しそうに細まった瞳も、寄せられた無駄に形のよい眉毛も結局は閑への同情のため。友人が悲しそうだから自分も悲しんでる。

 人魚の一人が網から這い出ると、きんと耳に突き刺さる声を出した。ぐらりと他の船乗りたちは姿勢を崩して人魚に手を伸ばす。あぁこれが、魅了の歌声だろうか。


「ちょっと待ってろ」


 彼方だけはいつもと変わらなかった。男に救いを求めるように歌を歌い、絡まる網から解き放たれようとする人魚の側に立つと、その真っ白で細い首に剣を振り下ろす。ゴロンと木の板に重みのある球体が転がるが、木目にざんばらな髪の毛が絡まり静止する。


「騎士王様、ありがとうございます」


 我に帰った船乗りは、船の揺れで転がる生首を見ておえ、と気味悪がる。ここに転がしていては邪魔になると言って、そのうち船の外へぽーんと首を投げ飛ばした。


「無事か?」

「うん。歌声に心は奪われてないみたいだ」

「お前には耐性があるのか? それとも魔法でも使ってんのか」

「どうだろう……。もしかしたら、ボクが亜人だからかもね」


 恋の心地はしなかったが、その代わりあの歌声には心地悪さを感じた。彼方にも通用してなかったように思う。まぁこの男は、誰かに心奪われるような人柄でもないけれど。


「教えてよ彼方。どうやって彼女たちの住処や動きを知ったの?」

「偶然だ、単なる。俺は何もしてない」

「椅子に縛られた少女を知ってる」


 かわいそうに。瞳を汚泥に曇らせて、愛のため、恋のために洗いざらい同族の情報を吐かせられる傀儡の少女。彼女が海に帰ることはもうないし、恋を実らせることもない。永遠に終わらない幻想の中だ。


「閑……」

「わかってる、わかってるよ。ボクが部外者ってことも、現実を見ない幼稚なやつだってことも」

「そんなこと言ってないさ! なら、一匹気に入った人魚を助けていけばいい。それくらいの手助けはさせてくれよ」

「ほんと、わかってない!」


 潮風から身を守る分厚いコートを握り締め、閑は諦観したように笑う。


「彼方が気遣ってくれようとしてるのはわかるよ。ロマンスが不得意だってこともね。だけど今はとにかく、そっとしておいてくれ」


 確かに今日同行したのは間違いだった。

あぁ、失恋ってなんて辛いんだろう! 溢れ出る涙は閑の心に残された、柔く、脆い代替品の感情だ。



「ね、すぐに解決するって言ったでしょ?」


 また六夜光から渡された新聞を、閑は暗い面持ちで見つめる。見出しには大きく幽霊船の正体を看破! と書かれていた。最近沖で大量発生した人魚の真相と共に事件解決のお祝いとしてまた、食祭が開かれるそうだ。出店が多く出てそれはそれは、盛り上がることだろう。


「自慢げな顔を見せないで六夜光。胸焼けしてしまいそう」

「彼方サンなら絶対に解決させられるって信じてましたもん。それで、閑クンも一緒に行かせてもらったんでしょ?」

「そうだよ。もう、人魚に恋はしない」


 船の上で閑が何を見たのか。珈琲を飲む六夜光は惨劇へ青色の瞳を細めて偲ぶ。


「実は……最後の一人が明日の朝に殺されます。長いこと捕縛されて、種族の情報を絞られた子です」


 閑の真っ白な耳がピンと縦に伸びる。


「相手は喉を潰されて脅威を削がれたんで、無防備にも牢屋で放置されてるんですよ。助けに来る仲間や家族ももういませんから……」

「それってつまり」

「あんまりにも閑クンが悲しそうですから。何かあったら騎士王には僕が話をしましょう。覚えてください、明日の朝。一番早い船が港を出るまでの間ですから」


 閑は走り出していた。牢屋は自分が入ることばかりで忍び込んだことなどなかったが、驚くほど見張りがいなくてガラ空きだ。一番手前の檻の中にまだらな茶髪の少女を見つける。一筋差し込む光と共に閑が手を伸ばすと、酷い声で「誰?」と聞かれる。これじゃあ二度と歌は歌えないだろう。


「ここから出してあげる。お前を海まで逃すよ、着いてきてくれ」


 閑は鍵を取り出した。どんな鍵穴にでもピッタリ収まる魔法の鍵。檻が開くと同時に少女を連れ出す。覚束ない下手な足取りで二人は走る。いつか波の音が聞こえてきた。少女は喜ぶだろうと閑は振り返るが、なんだかほんやりしている。無表情なままなのだ。


「ほらお逃げ。もう二度と陸に上がってはいけないよ!」

「でも……彼方は?」

「え?」


 少女は彼方を待っていた。助けに来てくれると信じていた。閑は首を振る。


「人間のことは忘れないと駄目だ」

「だけど……王子様が助けに来てくれるんだよ。そう、聞いたのに」

「王子様なんていないんだってば!」


 信じられない言葉だ。閑は波風と共に口を抑える。自分が言ったとは思えない、酷く、現実的な言葉。少女は尚も瞳に光を灯さない。


「ごめんなさいお姉ちゃん。少しだけ、地上を見たかっただけなの。怒らないでよ、私は悪くない……」


 ヨタヨタと砂に足を引きずりばしゃりと波に身を浸ける。少女は手だけで浅瀬へと向かい、いつか腰元を越えて首が海にさらわれる頃にはバシャバシャと手を水面に叩きつけた。まるで溺れているみたいだ。閑はよく見ると、少女はまだ足がある。人魚の鰭に戻らない。いけない、と思うより早く、上着を脱ぎ捨てると自分も海へと向かった。

 だけど閑も泳げないのだ。自分が死んでしまう恐怖より、少女を助けたい気持ちが強かった。体が徐々に沈んでいく。ただの少女が波にさらわれる。泡が身を覆う。


「閑!」


 シャツの襟を掴まれて、気がつくと両脇を抱える太い腕によって閑は陸に戻されていた。溺れる自分を引き上げてくれたらしい。


「彼方……」


 どうしているのとは聞かなかった。




「もしかしたら話が合ったかも。友達にくらいなれたかもしれなかったよ」

「そうでしたか……」


 打ち明ける言葉は暗いものの、今までほどの後悔はなかった。また新たな魔物の群れが街に近づき被害が出るまでの間、海にはしばらくの平穏が訪れたのだ。ボクも喜ぼうじゃないか。六夜光が何度目かの慰めの言葉を届けた。


「でもそうやって王子様を信じる人魚がいたってことは、昔には本当にいたのかもしれませんね。恋に落ちた人魚と人間が」

「当然だよ。ボクの童話集にもあるんだから。王子様だったかどうかは、わからないけど」


 それでも人魚にとって焦がれた相手であったのは間違いない。優しく、美しく、人間の世界を教えてくれた運命の人。


「出会ったのが彼方でさえなければね」

「そうですとも。彼方サンは女児向けの絵本には出てこないんです。男の子が好む冒険譚でこそ輝くような人ですから!」

「……そうだろうね」


 それが彼方のよいところだ。浮ついた噂一つもなくただ煌々とある騎士王様。ボクとは違う。ただ、その差異までを理解しようと努力をしてくれている。

 

「人魚は泡となって……深く冷たい海の中へと消えてゆきました。おしまい」


 どうか、いつか幸せに。

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短編集 四枚葉っぱ @happa_one

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