蓮の刺繍

光り輝くスポットライト。歌劇場、その中の主舞台に立つ歌手は緩やかに巻く桃色の髪を揺らし歌を歌う。響くソプラノのあぁ、なんて美しいこと。彼女こそ稀代の歌手。素晴らしき歌姫である。


 舞台裏で花束を抱えた時雨は高い足の椅子に無理矢理座り、宙に浮く足をゆらゆらと揺らしていた。割れんばかりの拍手が舞台側から聞こえて来る。早く鳴り止まないかな、と思うと待ち遠しくて、手に力がこもった。


「あれ、時雨? どうしたの」


 華やかな服、花のブローチと化粧に身を包んだ女性が扉を開けて、控え室へと戻ってきた。すると部屋の中にまだ幼く、家に残してきた息子がいたものだから。ツンと尖ったアーモンドの瞳を丸く見開き驚いた。


「お帰りなさい! 受付のおじいちゃんに入れてもらえたよ」

「そう。お礼を言わないとね」


 歌劇場の支配人はかねてからの仲であった。東の王立歌劇場にいた頃から面倒を見てもらっていた。夫と出会った時も、結婚をした時も。そして、葬儀後も。


「このお花はどうしたの?」

「買ったよ。横で売ってたの!」


 正確には花束に出来ない溢れた花たちを纏めて、花売りが安くしてくれたものだ。それでもまだ幼い時雨にとって十分な買い物であったし、茎が曲がろうが、多少葉を虫に食われていようが母は気にしない。にっこり笑ってまだ丸い時雨の頭を撫でてくれる。

 だがすぐにノックの音がしてふっと母が顔を上げる。「ここで待っていてね」と言って熱心なファンが待つ外へと向かう歌姫はお菓子より甘い香水の匂いを漂わせた。それが母の匂いだ。




「オペラを見たことありますか?」


 各々が好きなように過ごす部屋の中。おもむろに六夜光がそう聞いた。


「急になぁに? ちなみに、俺はないよ」

「ボクはある〜! 商談相手と行った」


 せっせとクッキーにジャムを塗っていた閑が続けてそう言うと、ソファに足を投げ出し座っていた六夜光が上半身を起こしてそれなりに、真面目な顔をする。


「実は今度行くことになりまして。親戚の付き添いって形なんすけど」

「へぇ。六夜光こそ行ったことないの? お金持ちはみんな行くもんだと思ってた」

「ありますよ。けど、内容まったく覚えてない。多分寝てたっす」


 うわ、らしい! とケラケラ笑う閑と違い、チクチク刺繍を縫う時雨はむっと口を尖らせた。オペラは仮眠室じゃない。金を払っておいて役者を見ないとか腹が立つ。


「次こそしっかり見ないと。親戚のやつ芸術家気取りがうるさくって。終わった後に感想を話し合おうなんて言うんすよ!?」

「六夜光より頭がいいんだねぇ」


 それっきり興味をなくしてロータスの花びらを塗っていたのだが、オペラの題名を聞いた時に時雨はビクッと肩を揺らして縫い針を止める。


「そのオペラ作品ってデラシネの?」

「あぁ、そうです。ソプラノ歌手が歌う一番の見せ場ですよね。それくらいは知ってます」


 ふぅーっと息が抜けて体が脱力する。趣味用の机にくたっと時雨はもたれかかった。周囲で六夜光と閑は不思議そうに首を傾げる。


 デラシネの歌。かつて、オペラ歌手としてデビューした時雨の母へ、劇作家だった父が贈った歌である。誰よりも声域が広く、難しい高音も出せた母のために作られた専用の音色。当時、まだお金がなく宝石を買えなかった父が用意した音楽の婚約指輪だった。

 その曲が劇中の主題歌として使用されているらしいのだ。なんとも感慨深い。妙な心地だ。


「急にお母さんに会いたくなったかも」

「あぁ、オペラ歌手の……って、そうか。もしかして時雨クン訳知り?」

「そう。俺の父親が作った曲らしいよ、デラシネの歌」


 既に母は歳をとった。かつてのようには歌えない。ソプラノ歌手もやめてしまっている。だが今も各地の劇場で歌を歌っているのだ。今は南の古劇場。大陸で最も古く、かつては神話を劇にして披露するための場所だった舞台でオペラを披露している。


 仕事の休みを取った時雨は南の劇場へ赴く。何故か着いてきたがった六夜光と閑、二人もいるが、舞台裏では一人である。

 手を叩きつけノックする。木の分厚い扉。ドキドキ鳴る心臓を隠すよう、胸の前まで花束を抱えた。


「はい?」

「あ、お母さん。久しぶり」


 扉の先にいる女性は変わらず美しい。皺もある。歳を感じる姿だ。なのにいつまでも水を弾く花のようであった。時雨とは違う色を称える瞳が形を変える。母は表情が薄いが、目元にはよく現れる人なのだ。


「時雨……」

「今日の劇、観たよ。これはプレゼントの花束。まぁまぁ大きいの買ってみた」


 昔は安売りのブーケ。今は、しっかり薔薇と季節の花を纏め、美しく飾られたリボンを伴って母に手渡す。


「こんなに、立派なの。いいのに」

「えー! しっかり選んだんだぞ。いい匂いするでしょ」


 花に顔を近づけ、そうね。と母は笑ってくれた。

 父が病気で亡くなった時、母は泣き崩れ仕事も出来ずにいた。父の遺産があり生活は続けられたが、余裕はない。時雨は自立を余儀なくされた。家を出て、学校に入り。優秀な成績のまま軍医になって。それからはあまり顔を合わせていない。


「どうしてか……昔を思い出したみたい。時雨が花を持ってきてくれた。ファンの真似をして」

「そうだよ。お母さんは花が好きでしょ?」


 くしゃっと顔が歪み、母は瞳を潤ませる。涙が流れては化粧が落ちてしまう。ハンカチでそっと目元を拭い、すん。と一度だけ鼻を鳴らして顔を横に反らす。


「あなたの、お父さんが好きだったから」



 デビューの当時、若き歌姫は誰もの目を惹きつけた。観客が初めて目にする舞台、スポットライトを浴びて他の実力者を押し退けタイトルロールを演じた彼女。その淡い見た目に反して力強い歌声は鮮烈だったのだ。


なんて綺麗。オペラの一等星。舞台は彼女にこそ相応しい。だけど……。


 歌姫はツンと苛烈な性格をしていた。拍手喝采にニッコリともしない。舞台を降りたら途端に不機嫌そうに目を尖らせ、誰とも口を聞かない。それに一つの舞台に留まらず転々と移り行く気ままな性格から、批評家たちは歌姫を「根無草」と呼ぶ。


 ある日、彼女の化粧台に贈り物の箱が置いてあった。ファンからの贈り物は全て断っている歌姫は不審がり、また目をきっと吊り上げ箱を開ける。中からは真っ赤な花のブローチが現れた。メッセージカードと共に。

『舞台の衣装に着けてほしい。貴女の役によく似合う』

 贈呈主の名はない。けれど美しい花だった。歌姫は最初こそ表情一つ変えずに箱ごとポイっと投げ捨てて鑑みはしなかったものの。毎回、出演ごとに届けられる箱に対して、いつか憤りと共に興味を抱くようになったのだ。


 探ればどうやら贈るのは劇作家。歌姫がデビューしたきっかけとなった作品の著者だった。実際に会ってみてもパッとしない男で、歌姫が睨んでやるといつも困ったように笑うのだ。湿っぽい、雨に関する話ばかり好んで書く変わり者。

『僕は貴女のファンなんだ。もし世間が貴女を草だと例えるのなら、僕は音楽によって草を、大陸一有名な花に変えてみせます』

 そうして贈られたのが愛しい歌姫のために作られた曲だ。声域をよく知った者が譜面を書いた、何度も移り気に音色が変わる『デラシネの歌』。

 歌姫はパッと目を見開いて、その形良いアーモンドを崩した。それ以来彼女の胸元にはいつも花のブローチが飾られる。

 根無草は綺麗な花を咲かせたのだ。

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