第3話 手術
用意された器具を次々と持ち替えて、淡々と手術が進んでいく。
多千花は飼い主として病院のドアを叩いた時、まさか自分が自分のペットの手術の手伝いをするなんて思っても見なかっただろう。
しかし、実際に手術を目の当たりにした多千花の心は自分でも驚くほどに冷静で、そして不安というよりも興奮さえしていた。
百山が行ってきた見事な手技や、今目の前に繰り広げられる手術、そして生命の凄さに触れて感動していた。
「凄い……」
お腹を開けて膿が漏れているのには少し驚いたが、すぐに破裂部位を保護し体外に出すと子宮は小さな体からは想像もできないほど大きかった。
「いつもはシーリングを使うんだけど、今は危険だから結紮する。両側を結紮して切れば、完全に外に出せる。大丈夫このあとしっかり洗浄すればまだ大丈夫」
百山のつぶやきが多千花を安心させた。
結紮。結んで切る。結紮、結んで切る。流れるように百山の手が指が動いていく。
まるでダンスみたいだ。多千花は目が離せなかった。
「そこの銀色のトレイを取ってもらえるかな、これを受け取って欲しい、素手では触らないで、そのまま床に置いておいて」
「わかりました」
取り出された子宮はずしりと重く、開放された破裂部位からはドロッとした膿が溢れ出ていた。
流石に少し気分が悪くなったが、指示通りに床に置き手術台に視線を戻した。
「え?」
「どうかした?」
「い、いえ、さっきまで切ったところを縫っていましたよね」
「もう終わった、今から徹底的な洗浄をする」
糸と針を用意して、物を下において戻ったら縫合が終わっている。
まるで手品だった。
そこからはとにかくお腹を洗った。
生理食塩水を入れ、サクションと呼ばれる吸引器で吸い出す。
途中2回ほど多千花は指示に従って吸い取った水の交換をした。
はじめは膿と血が混ざった液体がどんどん透明になっていく。
「飲めるまで綺麗にするって言われるけど、麻酔時間もある。その長い袋を開くように開けて中は触らないようにここに落としてもらえる?」
「は、はい」
「これはドレーン、お腹の中に溜まった液体を外に出してくれる。数日これを入れて腹膜炎が起きないことを確認する」
そして、内部を丁寧に観察し、出血や他の病気がないことを確認してお腹を閉じていく。それもまた、手品のようだった。
百山の手が数度交叉すると結び目が一つできている。
それをスルスルと繰り返すと、あっという間に傷が閉じていく。
圧巻だったのは皮膚の縫合だった。
同じようにスルスルと縫っていくのだが、まるで切っていないかのように皮膚が合わさっていく。
「すごい、傷がないみたい」
「埋没だけで終わらせるときもあるけど、今回は感染する可能性があるから最後に皮膚縫合もするよ」
皮膚縫合した後にはよく想像する傷口の縫合、という感じの糸で縫われた傷、それでも美しいと思わせるのだが、になっていた。
「……後は、きちんと目を覚ましてくれるかだ……はぁ、ありがとう」
「い、いえ、せ、先生こそ、ありがとうございます」
(急に口調が優しくなるのは卑怯だと思う)多千花は心のなかで百山を非難した。
「お、起きたか?」
いくつかの注射をしてしばらくすると横向けにしたリーネがもがき始めた。
すっと気管に入れたチューブを抜いて呼吸の状態を確認する。リーネは百山に抱えられながら小さくクーンクーンと鳴いている。その様子は明らかに術前によりも楽そうに見えた。
「酸素室で休もうね」
リーネを優しく抱きかかえ、点滴の機械を転がしながら入院室へと入っていく。
多千花もそれについていく。
「後はゆっくりと寝るんだぞ」
帽子とマスクを取りながら、優しくリーネを撫でる。
その優しい口調、そして優しい笑顔が多千花の心を撃ち抜いた。
(ひ、卑怯だ、それは卑怯だ!!)
「それでは順序がおかしくなりましたが、あ、マスク、痛っ」
振り返って話し出そうとして、マスクをしてないことに気がついてマスクをしようとしたらゴムが目に直撃した。
「ぶふっ!!」
多千花は思わず吹き出してしまった。
「改めて、診察室で説明します」
ごっ、がっと扉や置いてあるものにぶつかりながら診察室へと向かっていく、さっきまでのあの様子との変わりように多千花はおかしくて仕方がなくなってついに笑いだしてしまう。
「ふふふ、くふ……」
「そろそろ話していいかな?」
「ご、ごめんなさい、あまりにその、ギャップが凄くて……」
「自分がドジなのはわかってます……とにかく! 説明していきます」
「はい、先生」
それから、今回の病気の詳しい説明と行った処置、今後の話などを丁寧に説明された。幸運なことにフィラリアなどの予防可能な感染症にはかかっていないこと、きちんと避妊手術を行っていれば、今回のような危険なことにはならなかったこと、そして将来的に乳腺腫瘍などの疾患の心配が少なくなることなど、正直、今私に言われてもと思うことも多千花としてはあったが、真剣に動物と飼い主のことを思っているその気持が嬉しかった。
「だいたい、費用を気にする人もいるけど、後々病気にしてより高い金を危険な状態にた上で払うっていうのはどういうロジックなのか知りたい」
存外に口が悪いというか、素直すぎるというか、人を逆撫でするというか……
この先生は損をしているなぁ……と多千花は感じずにはいられなかった。
「というわけで、まだしっかりと見ないといけませんので」
「わかりました。ありがとうございます」
「それと、これをどうぞ」
百山はウインドブレイカーを渡してきた。
「これは……?」
「看護師さんが散歩の時に使っていたものですが、その、もう、夜も遅いのでその、あまり魅力的な格好で外を歩くのは危険だと思いますので、寒いですし」
自分のことを思いやる温かい気持ちに触れたのは、いつぶりだろうか……
多千花は心から感謝しながら受け取る。
「大体少し考えればそんな格好で外を歩くより一枚コートなりを羽織ればいいとわかりそうなものです。状態の悪い犬を裸で持ち歩くのも感心しません」
「すみませんね、焦っていたもので……ぷっ、あっはっは!!
あーおかしい!! もう、先生笑わせないでくださいよ!!」
多千花は、もうこれほど心の底から笑ったのは、記憶の中には存在しなかった。
「私は笑わせるようなことは何も……」
全く理解できずにどうすれば良いのかわからない様子が、さらに多千花を笑わせるのだった。
結局、一通り笑い倒した多千花はタクシーで帰宅する。
「……はぁ、なんとかなってよかった……でも、あの人……なんで怒らないでくれたんだろ?」
百山は入院室でしっぽをふるリーネと見つめ合っていた。
「「あ……お金」」
百山も多千花もお互いに金銭的なやり取りを失念していたことを思い出したが、時間も時間なので問題を翌日に持ち越した。
百山は、結局病院で眠りにつくことにした。
看護師が辞めてしまったという問題は、先送りにすることにした。
今は、一匹の動物の命を救えた達成感が彼の心に満ちていた。
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