第2話 緊急事態
「すみません!! 誰か居ませんか!!」
待合室から響く尋常ではない気配に、百山はゴミ箱を倒し椅子を倒しながら受付へと急いだ。扉を開け、肩を強く打った痛みに耐えながら待合室に現れた人物に声をかける。
「獣医師の百山といいますが、どうしましたか?」
そこには奇妙な人物が立っていた。
夜も9時を回っている動物病院に、胸元の大きく開いた、そこからは豊かな双丘が主張している、綺羅びやかなドレスを着ている。
顔立ちは非常に美しく、少し気が強そうな目元とゴージャスな髪、そして素晴らしいスタイルがドレス姿の異様さを隠し、まるでそうあるべき姿のように映していた。
一方百山はよれよれの白衣にボサボサの髪でマスクの端から見えるだらしない無精ひげ、まるで月とスッポンだ。
百山も男であるから、思わず目をそらそうとしたが、その腕に包まれた存在に気が付き、すぐにスイッチが入る。
「すぐ診察室に!」
彼にしては大きめの声だったが、ドレスの女性からすれば非常に小さな声、しかし、女性は躊躇なく診察室へと向かった。
「お名前は? 年齢、性別、予防歴、いつからこうなってます?」
診察室に入り、すぐに腕に抱かれたチワワを優しく受け取ると矢継ぎ早に質問をする百山。
普段であれば、ここで一発。「何言ってるかわからねーよ!」と切れられてしまうような小声と早口の組み合わせなのだが……
「私は多千花 流歌(たちばな るか)、この子はリーネ、女の子で、多分3歳、予防とかは……よくわかりません。こうなったのは今朝からちょっと様子が変でした」
凛と通る綺麗な声で百山の質問に答えていく。
「わからない? 飼い主なのに?」
疑問をそのまま口に出してしまう。普通なら、気分を害するいらぬ一言だが。
「すみません、理由があって引き取ったのが一週間前で、前の飼い主とは連絡が取れないので」
「昨日までに変わったことは? ちょっとだけ抱っこしてもらって良い?」
「昨日までは普通に見えました食事も食べてたし……」
「水を飲む量が多いなぁ、とか、身体が少し温かい、お腹が膨れてきたって感じたりはしなかった?」
「水は……初めからよく飲んでました、身体は……すみません犬はこんなものかと、それにお腹も太っているのかと」
「今血液を抜いたので、そのまま抱っこしていて」
多千花は驚いた。血を採っている気配を感じなかったし、リーネも何も反応しなかったのだ。
「絶対にお腹を強く抑えないでね、今、見せるけど……やっぱり、今映っているのが腹部の超音波で子宮を映しているんですが普通子宮はこんなふうには映らない。超音波でこうやって黒く見えるっていうのは液体が内部に貯留しているから、この子はたぶん避妊手術を行っていないと思う、そしてこの状態と合わせて考えると一番可能性が高いのは子宮蓄膿症、子宮の内部に細菌が入って繁殖してしまい、子宮の内部に大量の膿が溜まっていて、子宮にも強い炎症を起こしている、そして今にも破裂しそうになっている。……と、わかりますか?」
多千花は百山の気持ちの変化に心地よさを覚えていた。
眼の前の獣医師は声は小さく言葉は乱暴だが、まっすぐに自分と動物のことを心配していることが、彼女には理解できるからだ。
「助かるんですか?」
「全身状態を見なければわからないけど、出来る限り早く子宮を摘出したほうが良いんだけど、今うちは、その僕一人だから……」
「キャンっ」
その時、リーネが小さく吠えた。
そして、静まり返った診察室に、ぼふっと僅かな音が聞こえた。
「まさか!」
百山はすぐに超音波をお腹に当てる。
先程まで停滞していた子宮内の液体が、明らかに一箇所動きを見せており、子宮外へと流れ出していた。
「最悪だ、破裂した……」
吠えるという行為は腹圧が高まる。
リーネの子宮はその僅かな変化にも耐えられない状態だった。
「このままじゃ、ショックを起こす……僕一人で……」
百山は、僅かな迷いの後、まっすぐと、髪の毛でよく見えなかったが、多千花の目を見つめた。
「この子を助けるために手伝ってほしい、このままだとこの子は死んでしまう。
他に回している時間もない、お願いだ、この子を助けさせてほしい」
「……わかりました、何をすれば?」
「一瞬待っててくれ」
百山は裏にまわり留置針の準備をしてすぐに戻ってくる。
「腕を前に出して根本を軽く握ってくれ、そう、それでいい」
素人の多千花は言われるがままに抑える。リーネは少し嫌がったが、ほんの一瞬の間に針は血管の中に入り、すでに固定されていた。
状態が悪く、血圧低下状態であった、血管は浮き上がりにくく、さらには抑えているのは素人だ。誰にも分からないが、百山はかなりの困難な状況を乗り越えていた。
「ついてきて」
百山は留置を設置し裏手に回る。
多千花もそれについていく、病院の裏側は、ゴミ箱が倒れ椅子が倒れ、大丈夫かと不安になったが、今は百山を信じるしか無い。
(背、高いんだ)
あまりの急転直下の緊急事態に、多千花はそんなことを考えていた。
眼の前の人物が動物のためだけに必死になっていることを彼女は知っているからだ。
多千花 流歌、昼間はコンビニのバイト、夜は繁華街のクラブのキャストをしている。彼女は24歳。彼女の生い立ちは特殊だった。
両親は所謂毒親というやつで、お互いの欲望のまま浮気をし、彼女と妹を残し、まず父親が蒸発、そして母親も男を作って居なくなった。その時彼女は14歳、妹は9歳だった。当時から14歳とは思えぬ派手な顔立ちとスタイルのせいで学校でいじめられていて、大嫌いな風貌も彼女と妹が生きていくには役に立った。母方の祖母がやっていた小さなスナックで手伝いをしながら、彼女は彼女と妹の生活を支えていく。
彼女には特別な能力があった、人の感情がはっきりと分かるのだ。両親から暴力を振るわれないため、学校である程度以上の酷い目に合わないため、人の顔色を伺い続けてきたせいか、彼女は人が隠している裏の顔も正確に理解できた。
その力を使い、彼女は水商売の世界で成功していく。
年齢を偽り、祖母の店を発展させ、ついには大きなクラブのNo1にまでたどり着いた。祖母はそんな彼女の能力を使い、稼がせるだけ稼がせた上で搾取した。
洗脳にも似た方法で、彼女は祖母の言われるがままに、自分と妹を守るために夜の社会で生きていた。唯一幸運なことは、無理矢理に身体を売られたりそういったことをさせられなかったことだ。高校では完全に浮いていたが、女王のような気配をすでに手に入れていた彼女にとって同級生は子供であり、男女を問わず彼女に近づく人間は居なかった。一方、水商売の世界では、人の裏表に触れすぎ、完全に人間不信に陥っていた。彼女が信じるのはただ一人、妹だけだった。
百山の小声が聞こえるのも、長い水商売で騒がしい室内で客の会話を聞き漏らさないように自然と手に入れていた能力だ。
そして、彼女は感心していた。
今まで、自分の前に立った人間の中で、これほど裏表がなく、ただただ動物への心配と自分への心配を向けられることがなかったからだ。
きれいな言葉を並べながら、裏で反吐が出るようなことを考えている人間の相手ばかりをしてきたせいで、言葉の悪さの裏に、その真っ直ぐな思いをもつ百山に関心を持っていた。そして本当の気持ちを知ることが出来る彼女だけが、百山のするどい言葉に秘められた温かさを理解していた。
気がつけばリーネは手術台に横たわっていた。さらに状態は悪化しているように見える。
「手術前の注射が入って少し意識が薄くなっている、血液も……よくはないけど、やらないと死んでしまう。申し訳ないんだけど、手伝ってほしい、気持ち悪かったら座っていていいから」
「分かりました」
腕から注射が入るとクタッとリーネの意識がなくなる。
仰向けにして喉頭鏡を構えスルッと気管チューブを設置する。
点滴を腕のラインに繋ぎ、いくつかの薬剤を投与していく。
仰向けにされ、毛刈りを行い、消毒をする。
各種モニターがリーネの状態を表示し始める。
百山の全く迷いのない動きは多千花には美しいとさえ思わせた。
バッと手術着を羽織る百山、マスクと帽子をすると、ボサボサの髪がなくなり、鋭い眼光があらわになる。
ギャップ萌え、というものがある。
だらしない風貌で完璧に隠されているが、百山 慧人は……素材のいい顔をしていた。
「んっ……(まつ毛、ながっ)」
不意打ちだった。多千花はごくんと喉がなってしまった。
「それでは、始めます」
そんな彼女の様子に気がつくはずもなく、彼のメスが、鋭くリーネの皮膚を切り始めた。
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