ズルいですよ慧人先生!~コミュ障獣医の成功譚~

穴の空いた靴下

第1話 つぶれかけのアニマルクリニック

「はぁ……はぁ……」


 夜の繁華街を女性が駆けている。


「どこ……どこなの……?」


 明るい繁華街を抜け、古びた建物が並ぶ薄暗い街並みへと変わる。

 よく見れば彼女の腕には小さな動物が抱かれている。

 苦しそうに息をしているチワワ。

 大切そうに抱える女性は、何故か胸元の空いたドレスを身に着けている。

 時期は9月、どう考えてもドレスコードを間違えていた。

 それでも彼女は必死に何かを探していた。


 薄暗い街並みに、煌々と光る建物がある。


「あった!!」


 その看板には掛縁動物診療科と書かれていた。




 時は遡って時間は朝へと巻き戻る。



「なんなんだアイツは!!」


「申し訳ありません申し訳ありません」


 中年の男性が動物病院の受付で怒鳴り散らしている。

 顔を真っ赤にして怒りを抑えられないといった様子だ。

 スタッフと思われる女性がペコペコと頭を下げている。


「何言ってるか聞こえないし、よく聞いたら俺が悪いっていうのか!!

 2度とくるか!!」


「本当に申し訳ございませんでした!!」


 ドスドスと大股で帰っていく中年男性と、静寂を取り戻した院内。

 頭を下げていた女性の小さなつぶやきも、大きく響く。


「もう限界……やってられっか!」


 彼女はこの動物病院で看護師をしていた。

 名前は手嶋 早苗(てしま さなえ)。35歳。

 以前は、この暇な動物病院で決まった薬を出しているだけでよく、楽な仕事だと思っていたが、前の院長がぎっくり腰になって、急遽現れた新しい院長が問題だった。

 今までのやり方に一つ一つケチをつけて、何もかも変えてしまった。

 おかげで仕事は増える一方。

 しかし、そんなことより問題なのは……


 彼女が怒りを沸々と育てていると、病院の奥からガチャンバタンと色々な音をたてながらぬぅっと人が現れた。音の正体は椅子やら扉やらにぶつかり倒した音、その片付けをするのも彼女の増えた仕事の一つだった。

 現れた人物こそがこの動物病院、掛縁動物診療科(かけふちどうぶつしんりょうか)の新しい臨時院長の百山 慧人(びゃくざん けいと)だった。

 180近い長身、だらしなく着られた白衣、目元がよく見えないボサボサの髪、清潔感の無い無精髭。こんなだらしなく頼り甲斐の欠片もない男が新しい院長だった。


「すごい怒鳴り声がしたけど何かあった?」


 か細く消え入りそうな声、手嶋は慣れてきたが、集中しないと聞こえない。早口なのが聞き取りづらさに拍車をかけている。


 何かあった? じゃないですよ!!


 手嶋はそう怒鳴りつけたかった。が、もう、呆れ果ててしまった。


「辞めさせてもらいます、給与はきっちり振り込んでください。お世話になりました」


「え、あの、なんで……」


 その声を無視して更衣室に消えていく。

 百山は呆然と受付に突っ立っているしかなかった。


「おせわになりました!!!」


 バーンと裏の扉が閉められる。


 こうして、百山は、この病院唯一の人間となった。


 彼がこの病院で働くことになったのには色々な偶然が重なった。

 きっかけは2週間前になる。

 もともと彼はそれなりの規模の大きな動物病院で働いていた。

 彼は、とにかく問題の多い男だった。

 動けば何かにぶつかり、何かを壊し、後片付けなどで周りに迷惑をかけた。

 話ても声は小さいし早口で何を言っているのか分かりづらく、そして、辛辣だった。

 相手への配慮なんてまるでない、いや、話している内容は正しい、いや、正しすぎるのだ。

 容赦のない正論は時に耳に煩い。

 獣医医療に対して人並み以上に真面目な彼の言葉は、時に人の急所を容赦なく突き刺してくる。


「そんなことわかってるよ!! もっと言い方ってもんがあるだろ!!」


 彼と話した飼い主、そしてスタッフもこう言い返さずにはいられなかった。

 彼に対するヘイトは日増しに増大し、そしてついに院長である若狭 徹(わかさ とおる)も庇い切れなくなった。


「裏方で仕事をしてもらえば抜群に優秀だが、それでも皆が限界なんだ……

 君のお爺さんにはお世話になったからなんとかしたかったけど、僕には君をこれ以上守り切れない……申し訳ないけど、辞めてほしい……この通りだ!」


 お世話になった院長に頭を下げられてしまえば、百山に断ることはできなかった。

 こうして彼は無職になった……


「これから……どうすれば……」


 彼には血縁者も頼れる人間も友達も少なかった……


「……」


 正直、頼れば助けてくれる当てはあったのだが、過去の記憶がそれを躊躇させた。


「もう、あいつにあんな思いはさせられない」


 気がつけば、自分んが獣医師になったルーツである母方の祖父の動物病院の前に立っていた。

 掛縁動物診療科、昔のままの看板が光っている。

 今では祖父から事業継承した、名前をなんと言ったか、ふくよかな先生が院長をしているはずだった。本来であれば自分が継ぎたかった。

 しかし、祖父は体調を崩し、病院を手放した。

 そして、あっという間に亡くなってしまった。

 獣医師としての成長した姿を見せることもできなかった。

 昔から要領が悪く、両親からとにかく厳しく躾けられていた慧人にとって唯一優しくしてくれてそして尊敬できる人間だった。


「じいちゃん……俺、もう、だめだ……」


 見上げる空は赤く染まっていた。いつの間にかそんな時間になってしまっていたのだ。


「帰るしかないか……」


 彼の家はここから3駅、小さな何も置いていないアパートが彼の唯一の帰り場所になっていた。


 その時、サイレンが遠くから聞こえてきた。

 救急車が近づいてくる。

 そのまま動物病院の前に停車する。バタバタと救急車から人が出て来て病院へと入っていく。

 慧人も何が起きたのか知りたくて病院の中に足を踏み入れた。


 そこには、待合室の椅子の上に寝ている白衣を着た男と、その人に話を聞いている救急車のスタッフ、それに看護師がいた。


「あ、すみません、今日はもう診察できないんですよ」


 看護師は慧人の姿を確認すると声をかけてきた。


「え、あ、いや」


「慧人君! あ、いたったたた……慧斗君だよね」


 その寝そべってる姿を見て慧斗は思い出した。

 丸八 金次(まるはち きんじ)先生。祖父から病院を買った獣医師だ。

 譲渡契約の時に祖父から紹介されていた。そのころすでに獣医の大学に通っていた慧人のことを覚えていたのだった。


「慧斗君、どうしたんだ、今何してるんだ? 獣医師免許は取れたのか?」


「獣医師にはなれましたが、いや、今はその無職で、救急車が……」


「獣医になった!? むしょく!? 無職って言ったよね!! あいたたたたたた……」


「だ、大丈夫ですか?」


「慧斗君、明日からこの病院で働いてくれ!!

 僕が戻るまででいいから!!」


「え、あ、はい?」


「ありがとう!! それじゃあ頼んだよ!!」


 そうしてその太った体を担架に乗せて丸八先生は救急車に乗せられて行ってしまった。


 そうして、慧斗の院長生活は突然始まるのだった。


 引き継いでからも問題は山盛りだった。

 丸八は、獣医師として……無能だった。

 どんな症例にも同じ抗生物質にステロイド、それで治っていかなければ近くにある大規模な病院に行くように伝える。

 そういう獣医師を業界の人間はこう呼んだ。


 バイプレ獣医。


 わかりやすくいうと、ヤブ医者だった。

 真面目な慧斗にそんなことは出来なかった。

 きちんと診察をして必要なら検査をして、治療も丁寧に行う。

 慧斗は動物好きだし、勉強熱心で、真面目だ。

 当たり前のことを当たり前にやっているつもりだった。

 今まで何の啓蒙もされていなかった患者からすれば、突然現れた胡散臭い男が、どうやら獣医師らしいが、突然今までのやり方を全否定して、時に管理の仕方を注意されるのだ。

 今まで獣医師である丸八のいう通りにしていただけの飼い主にとって、到底納得のいく話ではない。多くの患者が頭に来て看護師に当たり散らすことが日常となり、どんどん病院の患者は減っていく……

 看護師さえも彼が余計な仕事を次から次へと増やすことに不満を持っていた。

 不満を言おうものなら、動物のために当たり前にやるべきことだと、真っ当な正論で返されてしまい、何も言い返せなかった。


 そして、本日、看護師である手嶋の限界が訪れるのであった。

 彼女もまた、あまりこの仕事に熱心ではなかったが、丸八のやり方には思うところがあった頃も存在する。しかし、獣医師が言うのだから仕方がない、という逃げ道と、楽で安定した仕事に慣れきっていた。

 そして発作的に退職という選択を選んでしまった。

 途方に暮れていた百山は病院の奥で今後のことに頭を悩ませていた。


「どうすりゃいいんだ……」


 そんな時である。

 バンっと病院の扉が開く音がして、病院に呼び鈴の音が響く。

 この音が、彼に多くの変化と、救いをもたらしてくれるとは、この時誰も想像だにしていなかった……





 







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