私の秘密と、あなたのもの
蛮勇だ。わかっている。祖母が敵わなかった相手だ、負けない自信はあるけれど、勝算はない。
それでも、とヘルミは雲海に潜る。十メートル、二十メートル、三十メートル……深く深く進むほどに分厚い気圧がヘルミの全身を覆い圧迫してくる。百五十メートルを超えると、上空からの光はほとんど届かない。ない、ない、ない。泳いでも泳いでも、宝は見つからない。全て狩り取られてしまっているのだろうか、漂着物さえない。そんなにもこの海は貧しいのか。狩られた海女たちの遺骸は、ちゃんと引き揚げられただけ?
二百メートル。骨が、見えてきた。たくさんの骨が埋まっている。トレジャーハンターも滅多に潜りはしない海域。ああ、これがこの国の海女の末路だと悟る。きっとみんな海に潜って逃げたのだろう。海賊は海の中にまでは来ないから。そのまま力尽きたのか、落ちてきたのがここだったのか。誰にも供養されないまま、ここで。
美しいしゃれこうべを一つ一つ確認する。その数の多さに、ヘルミは呆然とした。十になった頃、流行病による海女たちの死屍累々を起きて見たのと同じ寂寥だった。あの時に私は一人になった。それでも祖母が。まだ。
三百メートルを超えて潜る。ほとんど何も見えない。けれどこの辺りになってくると海の底からの七色の光が鈍く滲んでくる。この雲海の底にはきっと光る世界がある。それを誰よりも深く潜れるヘルミだけが知っている。幼い頃、海底の虹のことを話して信じてくれたのは祖母だけだった。祖母も一度だけ見たことがあると言っていた。祖母も本当は深く潜れる人だったのだ。海賊に追われて追われて、もし逃げ延びるとしたら。私だったら、とヘルミは考える。
ヘルミの祖母は、古い友人と連絡が取れなくなったと言って、『リゲル』に向かって、消息を絶った。ヘルミがまだ十にもならない頃だ。どうすることもできなかった。クレフ王が「この国から海女が絶えて久しい」と言った時、いったいどれくらい前に、と聞きたくてたまらなくて、唇が乾いて、口の中も乾いていた。聞けなかった。祖母が死んだことを認めたくなかった。だのに今、自分は祖母の頭蓋骨を探しているのだ。
三百二十メートル。
積み重なる細い長骨の中に、それを見つけた。
うまれてすぐ、魔法でつける一族の印。額の楔模様。骨よりもずっと白いそれ。
ヘルミは喉が擦り切れるほどに叫んだ。それはまるでクジラの声のようでもあった。海底の一番奥から、今日もまた、微かなクジラの歌が聞こえた。まるでヘルミと共鳴するように、一緒に悲しむようにそれは鳴いた。暗い雲が千切れて昇っていく。
救済などない。ヘルミは今日、本当に家族を失った。独りだった。どうしようもなく、もう独りきりだった。
海賊への憎悪が募る。イース=イーダは世間に疎くて知らないようだが、海女は人魚と言われている。その蝋から出る煙を吸えば不老になるとも不死になるとも噂され、住処を失くしていった血族。前時代的な謂れだ、けれど海賊は今でも信じているのだろう、だから狩る。狩った。それがこの景色。私に力があったなら、海賊を全て残らず焼いて、煙が出ぬほどに焦がして、クジラの命の糧にすらなれないようにしてやった。けれどヘルミは泳ぐことしかできない。ヘルミは今、下からも上からも響き波となるクジラの声に挟まれていた。泡が立ち上る。それはまるで涙のようで。
そして、鮮烈な光の筋が海を幾つも貫いた。ヘルミは目を見開いた。美しい緑の光だった。雷光だった。遠く、上空で獣の咆哮のように轟いた。その色はイース=イーダの眼の色に似ていた。暗い海の中を照らした。何度も鳴って、遅れてバラバラと木切れがたくさん落ちてくる。
また、歌が聞こえる。共鳴している。光の柱を搔い潜って小さな白鯨が上から泳いできた。ヘルミの目の前でくるりと回ると膨らんだ。
あーん、と大きく口を開けると、白鯨は、レーヴは、ヘルミを飲み込んだ。
あたたかな洞の中で輝く小さな星々を――魔腫の欠片を見ながら、ヘルミは気圧が小さくなっていくのを感じた。
吐き出される。眩しさに目が眩む。足がそこかしこに捨てられた蝋燭たちの煤で汚れた。レーヴは「キュッ」と鳴いてヘルミに頬ずりした。もう元の大きさに戻っていた。雷鳴がもう一度だけ轟き、よろよろと立ち上がって振り返ってみれば、雲海の上で緑の光の粒を全身に纏ったイース=イーダが手から鎖を出して、人間たちを縛り上げていた。眼下には大破した船だったのだろうものが見える。
イース=イーダはこちらを見上げた。レーヴははしゃいでいるのか、体を揺らしながらヘルミの周りをくるくる泳ぎ回る。
「なに、それ……」
「海賊なんだろ。君が潜ってすぐ水平線から現れた。倒せと言ったのは君だ」
「……雷、」
「俺のもう一つの固有魔法だ」
「そんなの、聞いてないよ……」
「使う場面もなかったから」
さっきの今で、深化をすっかり使いこなすようになってしまったらしい。イース=イーダは錨を引き揚げるように捕虜を鎖ごと波止場に引きずり込んだ。
「俺が初めて魔法を発現させた時、」
イース=イーダは捕虜たちをより強く縛り上げた。彼らは一様に気絶している。
「空高く昇って、雷を幾つも落とした。あの時、俺は自分の力をコントロールできなくて、村の人々に雷がいくつか当たった。子供の魔法だったから死にはしなかったけど、障害が残った人もいた。思い出したんだ。その後よその村から呼ばれてやってきて、俺に魔法の使い方を教えたやつは緑色の頭だった。顔ははっきり覚えていないけど、多分サキリスだった。あの頃から目をつけられていた」
イース=イーダは鎖から手を放し、ヘルミをじっと見た。
「使わないようにと言いつけられていた魔法だ。ばからしいから使った。それで、こいつらはどうする」
「……王さまに、引き渡す」
「いいのか、それで」
「私は人殺しになりたくない」
「そうか。その頭蓋骨は?」
「私の祖母」
「そうか」
ヘルミの言葉にイース=イーダは一度目を瞑る。
「本当は君を二発くらいぶってやろうかと思ってた。さっきの君は本当に正気じゃなかった」
「うん、わかってる……」
「でもすでにぶたれたような顔をしている。だからしない」
「うん」
「死ぬのかと思った」
「うん、正気じゃなかった」
「もう、あんなことはやめてくれ」
ヘルミは、しゃれこうべを掻き抱いた。
「うん……もう、しない。しないよ」
雲海クジラと重力使いの子どもたち 星町憩 @orgelblue
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