私には傷がある あなたにも
必要なことは大体教わったと思う。アロイスにお礼を言い、イース=イーダと共に図書室を出ながら、ヘルミはこれからどうするかを考えた。
最優先は
もう一つは、イース=イーダの肉体的な負担を減らすことだ。つまり彼の寿命を縮める要因を一つ一つ減らしていかなければならない。
それから――ヘルミはレーヴを見つめた。小さな子クジラはつぶらな瞳でヘルミを見つめ返す。深化の正体を知った今、この子が変わっていくことに私は耐えられるだろうか、とヘルミは悩んだ。せめて、レーヴがレーヴである時間を大切にしたい。それはイース=イーダにも必要なことだと思えた。だって彼は、肩に乗ったレーヴの頭を手慰みに撫でている。勉強中もずっとそうだった。憎まれ口をたたくがその実、一番子クジラを大事にしているのはイース=イーダ自身なのだ。
つまり、必要なのは思い出だ。ヘルミは知っている、突然の別れは心に傷となって残ること。心の準備をしなければ、耐えられず、立ち上がれなくなること。
「イース、この国の海にも潜ってみていい? 珍しいお宝が手に入るかも」
「……構わない。俺も潜ってみたい」
「あまりおすすめはしないけど……でも、泳ぎの練習をするなら、いいよ」
「ん」
来た時は気づかなかったが、通路の端に高価そうな花瓶があって、美しい花が活けられている。
その花の前を通り過ぎようとした時、不意に花が増殖してアーチを形作った。二人と一頭は驚いて身をすくめる。
アーチの中央が輝いて、そこからリゲル王クレフが現れた。まるでいたずらに成功した子供のような顔で笑っている。彼女が光から足を引き抜くと、増殖した花ははらはらと散り、元の花だけが花瓶に残った。
「アロイスはそなたらの面倒を見ただろう。あいつはそういう男だからな!」
空間転移魔法だろう、重力使いよりももっと高度で、使える魔法使いはもっと限られている。
「驚いたか? これは花のある場所にならどこへでも行ける扉だ。我はこの扉を作るのが得意だ」
「驚き……ました……」
「キュッ、キュ」
ヘルミは素直に答える。イース=イーダは警戒しているのか、むっつりと黙り込んだままだ。
「さて、どのような世話を焼かれたのは聞かぬが……おや、その封筒は」
ヘルミは慌ててアロイスの手紙を後ろに隠したが、遅かった。
「その封蝋……ははぁ、あいつまた母国に手紙を出しているのか、今回はそなたらが言付かったのだな」
「母国……ですか?」
「聞かなかったか? あいつは『カペラ』の第八王子だ。この国には留学に来て、そのまま居ついた。いや~我、人望が厚いからな~!」
「王子さまだったんだ……」
ヘルミが吐息まじりにそう言えば、イース=イーダが「ふん」と言ったのが聞こえた。
「何の用ですか。まだ用ですか」
イース=イーダの態度には険がある。
「無礼な態度だな~。だが許そう、我は心が広い。特に用はない。強いていえば挨拶に来た、それだけだな」
一方で、クレフの態度は先刻よりも随分と砕けているような気がしてくる。
「旅は長かろうがこの国にはまたいつでも訪れるとよい。ちょうど明後日は祭りもある。花のクジラとも呼ばれる『リゲル』の祭りも見ていったらよいぞ」
「ええと……はい、そうします……」
イース=イーダの様子を窺いながらヘルミがそう答えると、イース=イーダは顔を思い切りしかめた。
「あの、波止場はどこでしょうか、用事があって」
「何、波止場に行くのか」
クレフは少し気分を害したのか片眉を吊り上げた。
「あそこはゴロツキの海賊どもが
クレフはふん、と鼻を鳴らした。
「どうせならこの国のもっと綺麗な部分を見てほしいというのが正直なところだな!」
「そ……うですか」
なんといいようもなく、ヘルミは無難にそう答えた。ちらとイース=イーダを見れば、彼はつまらなさそうに床に視線を落としたまま、レーヴを両手で挟んで揉んでいた。レーヴはご機嫌である。
この国の話もアロイスさんに聞いておけばよかったと思いながらも、ヘルミはもう一つだけ質問をした。
「あの……どうしてこの国の海女たちはいなくなったんですか」
「そんなの決まっておる」
クレフは至極当然といった様子で言い放った。
「海賊どもに狩られたからだ」
「海賊って何だ」
王宮を出てしばらく。端を目指して歩く道すがら、イース=イーダが声をかけてきた。
「……雲海のお宝を狙う人たちだよ」
「君たち海女と何が違う」
「野蛮なところ、かな」
ヘルミは自分の爪先を見つめながら答える。
「『ポルックス』にいた頃はトレジャーハンターたちがとても強くて。あの人たちが海の治安を守ってたから、私は安全に過ごせてたの。だから海賊の存在を忘れてた……『カペラ』でも潜ったけど、何もなかったのは運が良かったね」
「海賊とトレジャーハンターはどう違う」
「トレジャーハンターは、政府の承認を受けて活動しているギルドの人たち。海賊は、承認を受けず活動している人たち」
「なるほど」
「海賊がいるなら、泳いで海を渡るのも危険だってことだね……そうすると交通機関を使うしかないのかな」
「海に潜らなければいいじゃないか」
「え?」
「飛べばいい」
イース=イーダは何でもないことのように言う。
「クジラの下じゃなくて上を飛べばいい。そいつらの目的は雲海の落とし物なんだろ」
「そ、うだね」
「飛び方なら教えてやるよ」
「それじゃあ、イースの魔力使いの粗さが直らないよ……」
ヘルミが苦笑すれば、イース=イーダはふん、と鼻息を吐いた。
「なら俺が海賊を倒して、安全に泳ぐ」
「海賊を倒すって……危ないよ」
「俺ならできるぜ」
「自信があるの? でも魔力たくさん使うでしょ」
「ある。一瞬ならそんなに使わない」
どういうことだろう、と思いながら悩んでいると、イース=イーダの肩からレーヴが泳いできて、ヘルミの頭を口でこんこんとつついた。
「ふふ、ちょっと考えすぎちゃった。ありがとね、レーヴ」
「キュ~!」
「……で、なんでそんな危ない場所に今向かってるんだ。海賊がいるってクレフ王が言ってただろう」
「……どうしても、確かめたいことがあるから」
「は?」
それ以上今は何を言えばわからず、ヘルミは黙り込んだ。イース=イーダもそれ以上の追及はしなかった。イース=イーダのそういうところがヘルミは好きだった。自分も彼に対してそうありたいと思う。
波止場は確かにすえた匂いがした。そこかしこに小さな蝋燭が転がっていて、『カペラ』の比ではない。行ける範囲の足場を歩き回ったが、ゴロツキと言われる人間たちの姿は見かけない。今は狩りの時間なのかもしれない。もしかしたら今、賊は雲海の中にいるのかもしれなかった。だとしても、ヘルミは彼らに勝てる自信があった。自分が誰よりも速く泳げ、誰よりも深く潜れることを知っている。
「今は巡回中かもね」
「海賊が?」
「うん」
「なら潜るのはやめておいた方がいいぜ」
「ううん、行く」
「は?」
「もし海賊が来たらやっつけて」
「ヘルミ」
「行ってくるね」
「ヘルミ!」
「……ごめん、私、今頭に血が上ってるの」
ヘルミはそう言って、笑った。
「だから、行かせて」
その言葉と同時に雲海に飛び込んだ。
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