初春の梅物語 参
どれくらい経ったのだろう。
泣き続けていた梅太郎は、何かが近付いてきた足音にも気付かなかった。
「何を泣いているんだい?」
と声をかけられても泣き続け、ようやく誰かが居ることに気がついたのは、生温かくて荒い息を浴び、どすどすと小突かれてからだった。
誰、とぐったりと顔を上げると、ふかふかした白い毛並みと黄色い瞳が目に入る。
鼻は黒くて三角で、耳は三角で、口元からはしっかりとした牙が見えて、がっしりした体は大きくて……
「……狼!?」
人間ではないことにようやく思い至った梅太郎はたじろぎ、咄嗟に逃げようと腰を浮かせてそのまま箱の縁にひっかかった。
あっと言う間も無く、がたーんと箱ごと後ろに転げ、頭を強かに打ち付けた。
「おいおい、大丈夫かい?」
とすとすと梅太郎に近付いた狼は呆れた様子で彼の顔を覗き込む。
「うわぁ! 待って! 食べないで! おらおいしくなかんべ!」
混乱した梅太郎は顔を守るように腕を掲げながら叫ぶ。
「ん? あれ? 食べてもらったほうがええ、んかな? そしたらどうしたらいいか悩まんでもいいし……あっでも最後が苦しいのは嫌だな。ひと思いにお願いします!」
「うるさい」
「び」
ぺちん、と前足で頭を小突かれ、梅太郎は混乱しながら狼の方を見た。
白い狼はきっちりと座っており、煩わしそうにふんと鼻を鳴らした。
「誰もあんたを食べるなんて言ってないだろう。勝手に驚いて勝手にぎゃーぎゃー騒ぐんじゃないよ。仕留められた鳥だってもっと静かだ」
「は、はぁ……」
事態が飲み込めず呆然としている梅太郎に、狼はもう一度問いかける。
「それで、坊やはなんだってこんなところで泣いてんだい?」
「ええと……」
妙な状況と狼の圧におされて梅太郎はとつとつとここまで来た経緯を話し始めた。
「――それでこんなところに捨てられた、と」
「捨て……まあ、そう……か」
大雑把にまとめられた言葉に微妙な納得のいかなさを感じつつ頷いた。
「人ってそんなこともするんだねぇ。初めて知ったよ」
へぇ、と単に感心した様子の狼に、今度は梅太郎から質問を投げかける。
「あんたはどうしておらに声をかけたんです?」
「どうして、って……泣いてる子が居たら気になるし様子を見るだろう?」
「人でも、ですか?」
「うん」
「はぁ」
納得できたようなできないような。もやもやとしたなんとも言えない顔をしていると、狼はもしかしてと首を傾げた。
「あんた、もしかしてあたしのコトをただの狼だと考えてるのかい?」
「えっ違うんですか?」
「普通の狼は人間と話なんてできないだろう?」
「そうですけど、今のおらにはこの耳があるし……」
頭のてっぺんにある耳を指差すと、狼はああそうだった、ややこしいねぇと唸った。
「それじゃあ改めて名乗るとしよう。あたしはましろ。まだ一年も経ってないが一応大山咋神の遣いをやってる」
「オオヤマクイノカミ?」
「そう。この辺りの山とその周りの命と均衡を護る神様さ」
「はぁ」
これまで全く聞いたことのない話に、梅太郎は間の抜けた返事しかできない。
そういえば村にも似たような名前の神様をお祀りする社はあったような、けれど遣いは狼ではなかったような。土地が変わると事情も変わるのだろうか……
ぼんやりと考える梅太郎をよそに、ましろは淡々と喋り続ける。
「あたしは去年、夫と子をいっぺんに亡くして嘆き悲しんでいるところを憐れんでもらって遣いにしていただいたんだ。本来はあまり積極的に人と関わることもないんだけど、泣いてる子が居るとどうしてもうちの子を思い出してしまうから様子を見にいくのさ」
「はぁ」
「とにかくそういうワケで来たんだけど……アンタ、もうすっかり泣き止んだねぇ」
優しい声色に、梅太郎はハッとした。そういえばもう随分前から涙は止まっている。
目の前の神様の遣いが色々と想像もしなかったことを話したからだけど、もしかしたらそうやってあやしてくれたのかもしれない。
「ありがとうございます。ましろさんのおかげです」
ぺこりと頭を下げる梅太郎をましろは目を細めて嬉しそうに眺める。その姿は狼でありながら優しい母親のようだった。
「いいんだよ。それよりもこれからどうするんだい?」
問われて、梅太郎は改めて考え込む。泣き止んだからといって、事態が好転するわけでも良い案が浮かぶわけでもなかった。
うんうんと悩む梅太郎をましろが大きくてふかふかの体を巻き付ける。あたたかさと柔らかさに包まれた梅太郎は安心した表情で彼女の体にもたれかかった。
「あんたさえよければだけど」ましろが提案する。「あたしと一緒に来るかい?」
「え?」
思ってもみない提案に、梅太郎は素っ頓狂な声を上げた。
「行く宛もない、頼りもない。人里に下りてもその見た目じゃ無事という保証もない。だったらいっそ神様のところでしばらく暮らしてゆっくり先を考えるってのも、案外悪くないかもしれないよ」
「そう、かな……そうかも……」
「あたしも子が居ないのは寂しいしねぇ」
確かに断る理由も見つからないし、存外悪くないのかもしれない。こうして体を包むましろは獣の臭いはするけれどふかふかであったかいし……
泣き続けていた間は忘れていた空腹と眠気がやってきて、ぼんやりとし始めた梅太郎は、ややあってから頷いた。
とりあえず腹を満たして眠ってから考えても遅くない。彼女についていくことでそれを得られるのなら、甘えてもいいように思えた。
「……じゃあ、よろしくお願いします」
「うん、わかった」
こうして梅太郎はましろと共に暮らすこととなった。
ましろと共に神様のもとで暮らす、と言っても大山咋神が祀られている場所には祠があるばかりで、特段体を休められるような屋根があるわけでもなく。
必然的に梅太郎は深い山の中で狼のように生きることになった。
初めは降りしきる雨を木の陰でしのぐことや、地面に転がって寝ることに慣れず、これで本当に良かったのだろうかと思い悩むことが多かった。けれど、十日経ち、一月経ち、と暮らしているうちにこれでよかったのだと心の底から思うようになっていった。
ましろは独り身にしては狩りが上手く――本来、狼は群れでないとあまり獲物が狩れないのだそうだ――あれこれと肉を分けてくれたし、人と狼で違うことも多いけれど、共通でできることもある、と上手く狩りをする方法も教えてもらった。
梅太郎もただ与えてもらうばかりではなく、拙いながら獲物の皮を剥いで鞣したり、焚き火を起こして肉を焼いたりした。特にましろは軽く炙った肉が好みのようで、火ばかりは狼ではどうしようもないから嬉しいねぇと喜んで食べていた。
神様の御遣いが食事をするのか、と訊ねれば、人間は色んな食べ物を供えるだろう、とからりと返され、確かにと笑いあった。まるで親しい間柄のようなやり取りは、とても居心地が良く、何度も梅太郎を不安から遠ざけた。
しばらくすると祠に供えられた食べ物もこっそり戴くようにもなった。神様の為に供えられたものなら神様の遣いである者も口にして良い。大山咋神様もそう仰っている、というのがましろの言い分だった。
初めは引け目を負った梅太郎も、たまに口にする人間の作った食べ物は、山で獲ったものとは別の美味しさがあってご馳走にも思えたので、次第に遠慮が無くなっていった。
一方でいくら経っても梅太郎は人里に下りる気にはならなかった。
深い山の中とはいえ、全く人が通らないわけではなく、梅太郎は何度か人と鉢合わせすることがあった。
けれど梅太郎の姿を見ると皆化け物だと怖れ、大体が話をする前に逃げていってしまった。そうでない人は反対に武器を手に襲ってくるので、命からがら逃げる他なかった。
そんな生活が続くうち、梅太郎は人への信頼や期待をすっかり無くしてしまった。
ましろはたびたび、「梅太郎が異形の姿となった原因がわかれば」と山々を巡って神霊たちのもとへ連れていったりもした。彼らはだいたい梅太郎のことを面白がり、かわいがり、ついでにお喋りも好きだったのでたくさんの話を聞かせてくれた。
例えば山と山が背比べした話だとか、或る龍神の体はとても長くて首を伸ばせば軽々と出雲に届いたという話だとか、この辺りでも有力な龍のもとに嫁いだある姫君の話だとか、人の身では到底聞くこともできない物語に、梅太郎はすっかり夢中になった。梅太郎があんまり楽しそうに聞くものだから、神霊たちのお喋りにも熱が入り、夜通し語り明かす宴が催されることがあるほどだった。
結局、梅太郎が異形の姿となった原因を知っている者は居なかったけれど、まあいいかと思うくらいに梅太郎は楽しく愉快に暮らし、山での暮らしにのめり込んでいった。
更に季節がひとめぐり、ふためぐりもすれば、自分はこのまま山の者として暮らしていくのが当然だと考えるようになった。
「あんたがそう言うなら歓迎するよ」
木々の葉が青々となってきたある日、梅太郎が一生山で暮らすことを告げると、ましろはくすくすと笑いながら言った。
「おとなになったら人里に戻るかもしれないと思っていたけれど、杞憂だったね」
「あはは、母さんもその方がいいでしょ?」
「その母さん呼びにもすっかり慣れたよ」
「これまで育ててくれたんだから、間違いなくましろさんは母さんだよ」
にこにことましろの毛並みを梳く梅太郎に、やれやれ、いつ親離れができるんだろうねぇと言いつつも満更でもなさそうに尾を振る。
「本格的にこちら側に来るなら色々と準備しないとね。今のまんまじゃ神霊やらなんやらと親しいただの人間であることに変わりはないんだから」
「これだけ親しくしてても?」
「親しくするだけで変わるなら今頃あんたは見た目もすっかり狼になっているさ」
「うーん、そういうものか……」
なんだかんだで梅太郎の姿は山で暮らすようになってから更に変容することはなかった。神霊たちも珍しがったものの、皆梅太郎のことを人だと言っている。
人でなくなるというのもなかなか手間がかかるものだなぁ、と唸る梅太郎を尾でひと撫でし、ましろは寝るように促した。
「明日から他の神様に挨拶回りをしたり修行なんかで忙しくなるよ。もう寝なさい」
「はーい」
手慣れた様子で布団代わりの毛皮にくるまる梅太郎に軽く鼻先で触れると、おやすみと声をかけてましろもまるくなる。
もうすっかり馴染んだ光景に、梅太郎はふわふわと幸せな気持ちで瞼を閉じた。
――もし人の姿でなくなるなら、母さんと同じ狼が良い。そんなこともできるんだろうか。ああ、明日からが楽しみだ。
けれど、梅太郎の期待とは裏腹に、この夜がましろと過ごす最後の夜となってしまうのだった。
梅花鷹匠物語 牧瀬実那 @sorazono
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