初春の梅物語 弐

 明くる日、梅太郎の意識を呼び戻したのは大音量の金切り声だった。


 ただでさえ薄い家の壁を突き破り耳元で叫んでるのではないか、と言わんばかりの大声に、梅太郎は言葉通り飛び起きた。

 火事でも起きたのだろうかと着の身着のまま慌てて外に飛び出してみたものの、火も煙も見当たらない。いつも通りの村の景色が広がっており、梅太郎の他に出てきた人は居ない。

 ホッと安堵のため息をついて、もう一眠りしようと家の中に戻りかけたところで、梅太郎の頭にふと疑問が浮かび上がった。

 

 ――誰も居ない?


 もう一度外を見回す。やはり人っ子一人見当たらない。にもかかわらず、奇妙なことにまだ叫び声は続いていた。

 誰かが溝にでも嵌ってしまったのだろうかと、声がする方へ近付いてみても、それらしき人は見当たらない。その上まだなんと言っているのかわからなかった。


 ――獣とは違う声……何かが居る?


 そう思い至った瞬間、梅太郎の背中を冷たいものが走った。

 以前、村の年寄が話していたことが脳裏を過る。

「山ん中には色んなモノが居る。熊や狼なんかの獣とは違う、化け物もおる。大抵は山ん中におるが、まれに村まで降りてくることもあるけ、そんときぁ絶対におめのことを知られちゃなんねぇ。道理の通じん化け物は、見つけたおめのことぉ連れてってしまうでの」

 じゃあ、この叫び声を上げてるのは化け物なんだろうか。だから村の誰も出てこないんだろうか。


 そうだ、こんなに大きな声を上げているのに誰も居ないのはおかしい。


 だんだんと状況を理解した梅太郎は、こわばった体を懸命に動かしてじりじりと後退りした。

 声の主に悟られないように、ゆっくりと。

 背を向けて逃げ出さなかったのは、熊や狼に遭ったときのことが体に染み付いていたからだろう。きっと化け物でも、焦って逃げたら余計に興味を持たれてしまう。そうして追いかけてくるに違いない。

 必死に自分に言い聞かせながら少しずつ下がって……


「ねぇ、そんなとこでなにやってんの?」

「うわあああああ!?」


 不意に声をかけられ、梅太郎は一尺ほど飛び上がった。

「びっくりした!」

「急に大声ださないでよ!」

 パタパタと軽い羽音と共にチュンチュンと不満の声が上がる。

「え。え? なに……?」

 振り返ると、数羽の雀たちが足元でバタバタと騒いでいた。

「ヒトってすぐにうるさくなるよね!」

「それにぼくらを追いかけ回す!」

「つかまえて食べるわけでもないのにねぇ」

「困るよねぇ」

「ちょっとお米つまんでるだけなのにね」

「ねー!」

 といった雀たちの会話を、梅太郎ははっきりと聞き取ることができた。

「すずめ、が、しゃべってる……?」

 更に混乱する梅太郎をよそに、雀たちはもう梅太郎にぴーちくぱーちく話し続ける。

「お米の話をしていたらなんだかおなかが空いてきたよ」

「そろそろお天道様も見えるんじゃないかな」

「本当?」

「もちろん! だってさっき風見が朝だって叫んでたじゃん」

「風見ってお天道様が出てくるより早く朝だって言うよ」

「助かるけど早すぎだよね!」

「ねー!」

「あ、風見だ!」

「風見おはよ〜」

 呆然とする梅太郎をよそに、雀たちは彼の背後に向かって挨拶をする。

 慌てて振り返ると、一羽の雄鶏がこっこっこ、と喉を鳴らしながら歩いてきた。

「おはよう風見」

「今日もお天道様のこと知らせてくれてありがと!」

「うむ。まだ修業中の身なれどもお天道様をお呼びするのが我が勤め。今日も無事にお迎えすることができた」

 雄鶏がふんと胸を反らせると同時に、梅太郎の背後の山から太陽が顔を出して彼らを照らした。


 ――おらはまだ、夢見てるんだろか……?

 

 陽の光に照らされながら梅太郎は呆然と突っ立っていた。

 雀が、鶏が喋るなんてありえない。


「ところでそこに居るのは誰だ?」

 雄鶏がついと顔を上げて梅太郎の方を見た。

「誰って、この村の人でしょ?」

「風見の方がよく知ってるんじゃないの?」

 雀たちがぴーちくぱーちく騒ぎ立てる。

 雄鶏は怪訝そうに首を何度か振り、こう言った。

 

「お前達は?」


「えっ」

「え?」

 雄鶏の言葉に雀が首を傾げる。梅太郎も虚を突かれた梅太郎も思わず声を漏らした。


 ――この雄鶏は何を言ってるんだ?


「手が二本あってー」

「二本足で立ってる!」

「頭はあるけど毛も無いし」

「羽も無い!」

「だから人! そうでしょ風見」

 完全に固まっている梅太郎を置き去りにして雀たちが言い募る。挙げられた特徴はどれもとても大雑把だけれど、梅太郎にもばっちり当てはまっていた。

 その通り、と思わず梅太郎はうんうんと頷く。

 しかし雄鶏は梅太郎を一瞥し、ほんの少し哀れんだ顔をした後、雀たちに呆れた様子で告げる。


「だが人が


「うーん、わかんない!」

「そもそもぼくらには見える耳が無いからね!」

「人の耳とか気にしたことないし」

「ああいうのもあるんじゃないの?」

 チュンチュンと騒ぐ雀たちの声は、もう梅太郎には届いていなかった。じっと、自分の影を食い入るように見つめている。

 そこには、頭に三角をふたつ乗せた人影が落ちていた。

 影は梅太郎が手を動かすと同じように手を動かし、足を動かせば同じように足を動かす。

 ――きっと、狐や狸が影に化けているに違いない。

 梅太郎は自分に言い聞かせる。

 ――だから、大丈夫。おらの頭にそんなものは……

 震える手で自らの頭を触る。そこには影と同じように柔らかい何かがあった。

 ふわふわとした触り心地に、薄い肉のような箇所もある。影の通りに触れると確かにそれは三角の形をしていた。

 梅太郎の頭とそれの境目は無く、触れている感覚と触れられている感覚が同時に起きている。本来の耳がある場所に手を滑らすと、つるりとした肌の感触が伝わってきて、他に何もなかった。


「う、ぁ……あ!?」

 恐怖に声を上げて頭を揺らした梅太郎は、そこで初めて他の異変に気付いた。

 まず自分の髪の色が黒ではなくなってる。狸のような、やや灰色みを帯びた朽ちた葉のような茶色に変じていた。

 そして声も、昨日までの自分とはまるで違うどこか濁りの混じったものになっていた。


「なんっなんだこれ! おら、おらは……!?」

 喚きながらかぶりを振る。そうすれば取れるんじゃないかというように激しく振ってもまるで変わらず、梅太郎の混乱は更にひどくなった。

 何か知っているのか、と雄鶏に尋ねようと顔を上げる。

 しかし、ばたばたと暴れ回る梅太郎に驚いたらしい鳥たちは既に居なくなっており、梅太郎は立ち尽くすしかなかった。

 

 ――ああ、そうだ。これは夢だ。悪い夢を見てるんだ。目が覚めたらおとうとおかあが居て、それで……

「な、なんだおめぇは!」

 漠然と自分に言い聞かせる梅太郎の淡い期待は、見知った村人の声で破られた。

 振り返れば、何人もの村人たちが少し離れたところから梅太郎を見ている。そのどれもが恐怖や気味の悪いものを見る目をしており、梅太郎は怯えすくみ、声も出せなかった。

 彼らにも梅太郎の姿が異形に見えているのだろう。自分が梅太郎だと言って、聞いてくれるだろうか。自分でもはっきりと言い切れないのに?

「梅太郎! 梅太郎かい!?」

 聞きなれた声にハッと顔を上げる。人混みを掻き分け、父と母がこちらに駆け寄ろうとしてくるのが見えた。

「待て待て、落ち着け、が梅太郎だと?」

「そうさ! 多少変わっちまってるがあの顔と着物は間違いなくうちの梅太郎だべ!」

 村人に止められながらそう主張する両親の姿に、梅太郎は目頭が熱くなるのを感じた。彼らはこの姿を見ても最愛の息子だと信じている。

 勇気を得た梅太郎はキッと前を見て大きな声を出した。

「そうだ! おらは梅太郎だ! 姿かたちは変わっちまったが間違いなく梅太郎だ!」

 梅太郎の叫びに、村人たちはざわめき、両親はぱぁと顔を輝かせ梅太郎のもとへ駆け寄ろうと身を乗り出した。

 しかし、やはり村人たちは彼らを引き合わせようとはしない。

 

 本当に梅太郎なんか、物の怪なんじゃねぇか、いや実の親が見間違えるはずァねぇ、おらもあの顔と着物は間違いなく梅太郎だってわかるべ、なら連れ帰っちまったのか、何を、山の何かを、憑かれちまったんだろう、かわいそうに、どうする、お返しするしかあるまい、山から来たものは山へ、いずれ災いを呼ぶ……

 

 村人たちがざわざわと小声で話し合っている内容に、梅太郎が足元が揺らぐのを感じた。


 ――いつの間にそんなことになったのだろう。自分はただいつも通り山に入っただけなのに。


 くらくらする頭を抱えて倒れるように蹲りかけたところを、誰かに支えられる。

権三ごんざさん………?」

 見上げると、昨晩村までおぶってくれた村人が見えた。いつも一緒に山に入ってくれる彼は、ただただ心配そうな顔で梅太郎をしっかりと抱きかかえてくれている。

「ご、権三……おめさ、大丈夫かァ?」

 権三は梅太郎が倒れそうなのを見て反射的に飛び出したのだろう。予想外の行動に他の村人たちがザワザワとどよめき、恐る恐る問いかける。

 大丈夫だァ、と彼らに返すと、権三は梅太郎に向き直った。

「おめえは大丈夫か、梅太郎?」

 いつもと変わらない問いかけに、思わず梅太郎はしばし目を見開いて権三を見つめてしまった。

「おーい?」

 返事のない様子に、権三はぺちぺちと梅太郎の頬を軽く叩いた。

「え、っと…‥権三さんは変だとは思わねんだ?」

「なにが?」

「その……こん見た目とか、声とか、いろいろ……いつものおらとは全然、違うべ?」

 権三は「あ〜」と言われて気が付いたという声を上げる。

「まあ、確かに違えとこが多いけんども」

 ふむ、と梅太郎をしげしげと検めると、権三はけんどなァと続けた。

「他は変わんね。いつもの梅太郎だず。手や足がわけわかんねくれぇ細長いとか、気味の悪ィこと言ってるとか、鶏とか鼠とか襲ってるとか、そんなこともねェし」

 ぽかんとする梅太郎と他の村人たちをよそに、権三はひとりで頷いている。

「そん顔も、本当にびっくりしてるヤツの顔じゃし人間のフリしとるようにも見えん」

「はぁ……」

 確かに権三の言う通りなのだが、状況が飲み込めず梅太郎は曖昧なことしか言うことができなかった。

 そのうち、しびれを切らした梅太郎の父と母が、呆気に取られた村人たちの隙間を縫って駆け寄ってくる。

 権三からひっぺがされるように両親に抱きしめられた梅太郎は、一晩ぶりに「ぐぇ」と蛙が潰れたような声を上げた。

「梅太郎だな?」

「梅太郎なんだな?」

「う、うん……」 

「だべ」

 わちゃわちゃとする梅太郎たちの様子に、他の村人たちの間にもだんだん大丈夫そうだという雰囲気になってくる。

 話し合いの末、とりあえず今の梅太郎に害は無いこと、もし害を為すようなことがあったら然るべき対処を行うこと、それまではこれまで通りとすることが取り決められた。

 両親は泣きながら何度も村人たちに頭を下げ、権三は良かったなァと笑った。

 梅太郎も戸惑いつつ、ひとまずはこれまでと同じように村で過ごせることを喜んだ。

 ――今だって前のおらと変わんね。むしろ獣たちの声が聞ける分、これまでよりもっと役に立てる。そしたら、きっとずっとここでおとうとおかあと一緒に暮らせる。大丈夫だ。

 強く自分に言い聞かせながら。


***


「けれどやっぱり、そうするべきじゃなかったんだ」

 そう言って少年は目を伏せた。

「確かに梅太郎は何もしなかった。これまでよりもずっとよく働いたし、むしろ動物たちの声を聞くことで村の食糧は格段に増えた。村人の中には彼のことを良い神様を連れてきたんだって言う人も出たくらい、恵みを喜んでいたよ」

 クマを撫でながら続ける。クマはふんと鼻を鳴らし首を傾げて主人の話の続きを待った。

「でもそれも最初のうちだけだった。だんだんと村での事故が増えてさ」

 初めは猪が出て作物を食われた、いつもより数が多い、とか、よくある話だ。

 次に大雨が降って村の一部が溢れた川に飲まれた。

 緩んだ崖で土砂崩れが起きた。

 数日鳴った雷は田んぼの一部を焼いた。

 等々。

「どれもこれもよくあることで、たまたま重なっただけ。だけど、その年は異形となった梅太郎が居たから」

 不幸が重なるたび、もしかしたら梅太郎が居るせいかもしれないと村人たちの心に疑念が湧いた。確たる証拠がある訳ではない。ただ、一度湧いた疑念は消えることがなく、次第に大きくなっていった。

「そんなある日、決定的な出来事が起こってしまったんだ」


*** 


 権三が死んだ。

 梅太郎が異形となってから一月が経とうとする頃、雲ひとつ無い青空の下で雷に打たれて死んだ。

 

 権三の死は村人たちの梅太郎への疑念を一気に不信と畏れへと変えた。

 特にこれまで災害の被害を受けた者ほど原因を求めて梅太郎を責め、庇う両親も責めた。

 このままでは自分だけではなく両親も危ないことを、石を投げられたとき梅太郎はしっかりと理解した。

「おら、山さ行きます」

 そう願い出た梅太郎に、村の長は小さく「そうか……」と呟いた。

「本当にええんだな?」

「はい。山のモンがが山に行けば戻れば、きっと全部大丈夫……村に起きてる不幸ももしかしたら収まるかもしんねし、そうでなくとも村の人達の腹の虫が収まるかもしんね……だから村長、お願いします。おらが山に戻るから、どうかもう、おとうとおかあにはなんもしないで……」

 震える声で頭を下げる梅太郎をしばらく憐れみに満ちた目で見つめた後、村の長は優しく頭を撫でた。

「すまんのぅ。儂も梅太郎が悪くないことはわかっておる。けんど、もうなにかをしないと収まりがつかん。親思いのお前なら頷いてくれると、どこかで願っておった。有難う、恨むならどうか儂を恨んでくれ」

 苦渋に満ちた村の長の声に、梅太郎はただただ首を振ることしかできなかった。 

 

 山へ送る儀式は、次の新月の晩に執り行われた。

 泣いている両親に感謝と別れを告げ、梅太郎は村人から袋を被せられる。

 それから抱え上げられ、用意された箱に入れられる。箱はやや大きめで、梅太郎が座っても身動ぎできるだけの余裕があった。

 暴れることを考えていないのか、それとも送ることへの罪悪感からなのか。

 真意は不明で、肌に触れる冷たい風が日暮れと儀式の始まりを告げていることだけが梅太郎にわかる全てだった。

 これから起こることを想像して震える体を抑えるように、彼は固く膝を抱いて縮こまった。


 村の長の説明によると、梅太郎の入れられた箱は日暮れと共に山奥へと運ばれる。万が一にも村に帰ってこれないように耳と目と鼻をふさぎ、わざと山のあちこちを引き回したあと、置いていくのだそうだ。

 箱が置かれるのを感じたら出ても良いとも言われた。但し、村人を追いすがってはいけないともきつく言いつけられた。

 絶対にしないと、しっかりと頷いた。両親の無事が保証されるよう強く強くしっかりと。

 ――大丈夫。おらが村から離れれば全部丸く収まる。

 寂しさやら悲しみやらで涙が零れそうになるのを必死にこらえながら何度も自分に言い聞かせ続けた。


 間もなく箱が持ち上がるのを感じた。祝詞のようなものを聞きながら梅太郎は箱の揺れに身を任せる。

 袋を被っても更にぎゅっと目を閉じた。眠ってしまおう。そうすればきっと目が覚める頃には儀式が終わっている。怖いことも考えずに済む。


 ひたすら願っていたせいか、梅太郎は本当に眠ってしまった。

 気が付いたときには辺りは静かで、体や箱が揺れている感じもしない。

 のろのろと蓋に手を伸ばすと、かこんと軽い音がしてあっさり持ち上がった。袋を取り払い、立ち上がって周囲を見回す。

 深い森の中だった。夜明けが近いのか、辺りはうっすらと明るく、霧が立ち込めて青みを帯びている。

 これまで見たことがない木々を眺めていると、本当に知らない場所に置いていかれたという実感がじわじわと湧いてくる。

 ――ああ、ひとりになってしまった。

 へたりと座り込む。箱から出る気力は全く無かった。

 これからどうしたらいいのか、何もわからない。

 梅太郎は、ただ膝を抱えてしくしくと泣くことしかできなかった。

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