初春の梅物語

初春の梅物語 壱

 今は昔。

 北信濃の山奥にある貧しく小さな村に、とある夫婦が暮らしていた。

 仲は良好で、春になれば菜を摘み、種を撒き、夏は草刈りなどに精を出し、秋に収穫し冬へ備える、そんな慎ましい生活を営んでいた。

 夫婦となって数十年、子宝に恵まれないことで言い争うことはこれまで無かった。

 戦が多く、決して豊かとは言えない生活もあったからだろう。互いが居ればよい、食い扶持は少ないに越したことはない、と互いに了解していた。

 一方で、やはりどこか諦めきれない気持ちがあったのだろう。夫婦はこれが効くという噂を聞けば、どちらともなく試しに赴いた。ある時は長時間神仏に祈りを捧げ、ある時は怪しげな薬を試してみるなど、それとなく試し、効かなかったなぁと顔を見合わせて苦笑いすることもあった。


 しかし下手な鉄砲も数を撃てば当たる、とはよく言ったもので、何が効いたかはさっぱりわからないものの、とうとう夫婦の間に一人の男子が生まれた。かの有名な関ヶ原の戦いから半年ほど経った春のことである。

 産声を上げたとき、ちょうど梅の咲く季節だったので、男子は梅太郎と名付けられた。

 ようやく授かったかわいい我が子と、夫婦はそれはそれは大事に育て、梅太郎はすくすくと大きくなった。

 できれば苦労はさせたくない、という夫婦の願いとは裏腹に、貧しい現実は非情なもので、梅太郎も物心つく頃には家の仕事を手伝うようになった。

 主な仕事は稲作の手伝い。合間には、春に野草を摘んで食卓に並べ、夏は野兎や鹿を狩り、秋は山の幸を求め、冬は芝を刈った。

 日が落ちたり、雨が降ったりして外に出られなくなると家の中で藁を編んだり、木彫りの小さな細工を作ったりして少しでも生活の助けとなるようにと懸命に働いた。

 残念ながらあまり売れる事は無かったが、「おとうとおかあの役に立ちたい」と積極的に仕事をする梅太郎に、夫婦は「なんと親孝行な子を持ったのだろう」と感心し、様々なことを彼に教えた。

 梅太郎の物覚えはとてもよく、土の良し悪しや稲の育ち、鳥や雲が教える天気など、山間の村で生きていくのに必要なことをどんどん吸収していった。

 やることは色々あったが、梅太郎がとりわけよく覚えたのは山の事情だった。

 日が昇る前から山に入っていた成果が出たのだろう。熊や狼がどこを縄張りとしているのか、蛇や虫がどこに居て、いつ木々に実が生るのか。いつの間にか村でもとびきりの物知りとなっていた。

 自信をつけた梅太郎は、やがて「危ないから絶対に一人で山に行くな」と言いつけられていたにも関わらず、一人で出掛けていくようになった。

 夫婦は梅太郎がたまに一人で出ていってしまう事にほとほと困っていたものの、彼は勝手に抜け出しまうので他の村人に見張ってもらうよう、よくよく頼みこんだ。夫婦が堅実に、周囲にも気遣いを欠かさなかったため覚えも良く、皆快く引き受けてくれた。

 いつしか梅太郎の帰りを待ち、山であった出来事を聞きながら夕餉を取ることが一家の団らんとなった。

 家の中に笑いは絶えず、ほどほど幸せに暮らしていたのである。


 

 月日は更に流れ、梅太郎が生まれてから七度目の春がやってきた。

 その日、梅太郎は蕗の薹など、春の恵みを手に入れるため、相変わらず一人で籠を背負って山に入った。もうすっかり慣れたし、村人も居るだろう、と慢心していた。

 しかし、この日の梅太郎の記憶はそこでふっつりと途絶えている。今でも何があったのか殆ど覚えていない。はっきりと思い出せるのは日の出と共に山に入ったことだけである。


 ぱちりと意識がはっきりとする。

 気が付くと、梅太郎は見知らぬ大きな木の根元へ寄りかかるような格好で眠っていた。

「……え?」

 何故眠っていたのか全く覚えていない。

 わけもわからず、しばらく呆然とした後、梅太郎は慌てて飛び起きて周りを見回した。どういうわけか瞼が妙に重い。何度も意識をはっきりさせようと頭を振りながら辺りの様子を伺った。

 そこは、梅太郎が寄りかかっていた木を中心としたすり鉢の底のような場所だった。初め「ぽっかり口を開けている」と思ったのは、寄りかかっていたもの以外の木が無く、天が高かったからだろう。その割に周囲が薄暗いのは、すり鉢の淵に生えた木々が空を覆い尽くすほど高く豊かに生い茂っているせいだろう。風もよく吹くのか、枝葉の擦れるざわざわという音が頻繁に鳴る。

 いずれにせよ、見覚えどころか聞き覚えも無い場所だった。

「それにしても大きな木だなぁ……」

 改めて底の木を見上げた梅太郎から思わず感嘆がこぼれる。

 その木は、これまで梅太郎が見てきたもののどれよりも太く、古く、ひどく捻じくれていた。地面から一尺くらいのところに大きなうろが空いているものの、てっぺんはかなり高く、淵の木を追いこすような勢いだ。

 それを支える根も深く太く、方々に張り出している。なるほど、他の木が入り込む隙はどこにもない。

 納得と共に木肌を撫でると。冷たくざらりとした感触が返ってきた。

「……あれ?」

 何気なく突き出した自分の手に違和感を覚え、改めてじっくりと眺めてみた。

 手にはたくさんの泥がこびりついていた。もう片方の手も同様で、乾いた泥がまだら模様を描いている。更によく見ると、泥は腕にもこびりついており、真っ黒になっていた。

「あれ?」

 当然、着物の袖も擦り切れて泥だらけになっていた。その上、普段の暮らしではつかないような不自然な皺がいくつも出来ている。

 ――なんで今まで気が付かなかったんだろう?

 本来なら真っ先に気が付くはずなのに、と首を傾げながら、梅太郎は体のあちこちを検めた。

 途端に「ああー!」と悲鳴がまろびでる。元々つぎはぎのボロのように古い着物だったのが、更にひどい状態になっていた。

 袖どころか全身が泥だらけな上に、縫い目はほつれてほとんど取れかかっており、ただのボロ布同然だった。よくよく見るとずったような形跡があったので、さすがに梅太郎も「自分がどこからか足を滑らせてこの場所に落ちた」と見当がついた。

 しかし、体に痛みはなかった。泥をはたき落として確認しても傷ひとつない。足をひねった感覚も全くなく、その場でぴょんぴょん跳ねることさえできる。不思議なことに自身は無傷だったので、梅太郎はひどく困惑した。

 ひとまず落ちた経緯を思い出そうとしたが、いくら頭をひねっても全く思い出せない。間があったのだという感覚すら無く、朝、家を出てから今この瞬間まで記憶が継ぎ目なく繋がっているような気さえして、うっすらと気持ちが悪い。

 そうこう考え込んでいるうちに、日が傾き始めたのだろう。梅太郎は視界に赤い物がちらつき始めたことに気が付き、空を見上げる。

 鬱蒼と生い茂る枝葉の僅かな隙間から、夕暮れの赤い光が漏れ出していた。梅太郎が居る穴の底も、更に暗さを増していく。まるで闇が溜まっていくようだった。

 風は一段と強くなり、揺れる木々が歪な赤い影絵を無数に生み出していた。その様子はまるで、闇の中からたくさんの異形が現れてこちらを見つめているかのようで、あまりの不気味さに強い寒気が梅太郎の背を駆ける。

 居ても立ってもいられず、今すぐにここから出ようと梅太郎は登れそうな場所を必死に探した。

 幸いにも、どうにかよじ登れそうな箇所が見つかったのですぐさま駆け寄る。途中、背負ってきた籠も見つけたので再び背負った。籠は無事そうで、体の揺れに合わせて、僅かに入った山菜がかさこそと音を立てた。

 まだ頭がぼうっとするのに加えて寒気が強く、覚束ない手付きで這い上がる。土が脆い箇所もあり、手をかけた途端に崩れて何度も落ちそうになって泣きそうだった。その度に両親のことを思い出し、ぎゅっと涙をこらえて体勢を立て直した。

 

 どのくらい時間が経っただろうか。梅太郎はよろよろと倒れ込むようにして穴の外に這い出た。途端に辺りの闇が薄まったように感じる。

 薄暗いことに変わりなかったものの、梅太郎がよく知る薄暗さだった。どこからともなく鳥の鳴き声が聞こえ、ようやく梅太郎は穴の底では生き物の声がしなかったことに気が付いた。のどかな囀りが現実に戻ったことを教えてくれる。いつもの山だ。

 まだ寒気は治まっていないものの、安堵のため息をつくことができた。着物が汗でべっとりして気持ち悪かった。

 そのまま転がっていたかったが、これ以上暗くなってしまえば野宿することになる。獣に襲われる危険もあるし、なにより両親を悲しませてしまう、となんとか踏みとどまった。

 「自分が無事だったのはたまたま運が良かったから」と自分に言い聞かせ、それ以上は考えないようにした。かろうじて差し込む陽の光を頼りに、周囲を見渡して今居る場所に見当をつける。耳を澄ますとかすかに水の流れる音がした。川があるなら、下流へ向かえば少なくとも山を下りることはできるはず。

 籠を背負い直すと、梅太郎は音のする方へ早足で向かった。


 大木のあった穴から村は結構離れていたものの、梅太郎はどうにか村に帰ってくることができた。川辺を辿っている途中で、いつも一緒に山へ入る村人と合流できたのだ。

 泥だらけの梅太郎に慌てた村人は、一通り無事を確認すると大きなため息と共にへたり込んだ。聞けば、梅太郎は途中ではぐれてしまったらしい。

 震える声で良かったという村人に、梅太郎は胸がいっぱいになってただただ謝った。視界が霞むので、まだ頭がぼんやりしているのかと思ったのもつかの間。頬を伝う感覚に、ようやく自分が両目からポロポロと涙を流しているのだ、と気が付いた。慌てて拭おうとすると両手についた泥が目に入って今度は目が痛くなってしまい、余計に涙が溢れてきた。

 慌ててあやそうと背中を叩いた力が思いの外強くて、軽くむせてしまった梅太郎に、村人が余計にオロオロする。その姿に思わず梅太郎は噴き出してしまった。村人は気まずそうに笑うと梅太郎に背を向けてしゃがみこんだ。疲れているだろうからおぶさっていこう、と言う。

 梅太郎は素直に村人の細い背によじ登った。心も体も疲れ切った今、無性に誰かを頼りたかった。

 村人の背中は暖かく、ほどよい揺れがとても心地が良かった。だんだんと眠くなってきて、梅太郎は瞼を閉じた。


 村に着く頃には辺りはすっかり真っ暗になっていた。この日は月が無く、星明かりとあちこちに焚かれた篝火がうっすらと辺りの輪郭を照らしていた。

 揺り起こされ、村人の背から降りるか否かくらいのところで、知らせを聞いてすっ飛んできた両親が梅太郎をぎゅうっと抱きしめた。あまりに固くきつく抱きしめられたため、梅太郎はちょっと息を詰まらせる。

 なんとか引き剥がそうと少しだけもがきながら、泣くような両親の声を聞いているうちに帰ってきた実感がようやく湧いてきた。安堵から再び涙が溢れてきてしまい、梅太郎の方からも両親をぎゅうっと抱きしめて、力無く嗚咽をあげた。心配をかけてごめんなさいと泣きじゃくる梅太郎を、母親が小さい子をあやすようにそっと抱き上げてくれた。

 疲れが出たのだろう。ぐったりと母親に身を預けるとあっという間に意識が遠のいていき、そのまま梅太郎は眠り込んだ。

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