梅花鷹匠物語

牧瀬実那

序幕・令和元年初春の事

 二月は春が近付いたある日。


 心地良いそよ風に全く頓着せず、真っ黒なパーカーに縫い付けられたフードを目深に被った少年は、一人暮らししている古ぼけたアパートの鍵をガタガタと回していた。

 あまりにも古すぎるせいで、鍵を目一杯押し込んだ後上げて引きながら回すという複雑怪奇な造りとなった鍵に、越して来てから半年経つ今でも慣れていない。


 何度も上げたり引いたりしている内に、がちゃりと派手な金属音がしてようやく鍵が回り、思わず彼の口から小さな溜め息が漏れた。

 毎度毎度、一苦労するのも地味に厄介だ。


「ただいまー」

 扉を開けながら部屋の中に向かって声をかけると、中からハッハッと興奮した息遣いが返ってきた。

 と、思う間もなく視界の下部に小さな茶色の毛玉が映り込み、僅かに少年の頬が緩む。見下ろすと、凛々しい眉をした小さな柴犬がキチンと姿勢を正してお座りしていた。首には闘犬が身に着けるような紅白の注連縄が施されている。

 靴を履いたまま少年が屈んで頭を一撫ですると、柴犬は気持ち良さそうに目を細め、わんっと一声鳴いた。

「うん。ただいま、クマ」

 靴を脱ぐ少年の後に従いつつ、クマは申し訳なさそうにくーんくーんと鳴き始める。

 十歩程度しかない廊下を歩きながら、少年は不思議そうに首を傾げた。

「どうしたの? ハッキリ言わないと……」

 問いかけながら居間の戸を開けた少年は、後に続くはずだった言葉を飲み込んだ。

 六畳一間の畳の上に、まるで祝い事でもしたかのように紅白や桃色の花が散っている。全て集めれば少年の両手が一杯になりそうなほどだ。

 花弁は時々風に弄ばれて部屋の隅々まで広がっていた。窓を見やると、確かに閉めたはずの窓が半分ほど開いていた。

 しゃがみこんで小さな白い花をつまんでいた少年の腿に、クマが申し訳なさそうに頭をこすりつけた。その小さな頭を、空いている手でおざなりに撫でながら、ぽつんと少年は呟いた。

「ああ、しらゆきとてまりの仕業かぁ……」

 さっと集めてみたところ、部屋に落ちていた殆どが梅の花だった。花弁だけではなく、がくから千切られたようなものもある。

 更に、白く細い毛と小さな茶色の羽根も一緒に落ちていた。どちらも少年と共に暮らしているモノのものだ。

「ふたりとも、梅を見たことなかったから、珍しかったのかなぁ……」

 少年は改めて窓を見る。

 ちょうど猫が一匹通り抜けられるほど開いた窓から、少し細身の黒っぽい枝が見えた。先端には被害に合わなかった梅が丸く白い花弁を咲かせており、儚くも芳しい匂いを発している。


 やれやれ、と少年は立ち上がると、外に出てしまったふたりが居ないか窓辺から下を覗き込んで首を巡らせた。

 いつの間にか暮れ始めた日の光が、見当たらない事を確認して顔を上げた彼の顔をそっと照らし出した。目の前の梅の花もほんのり赤く染め上っている。

 子供じゃないんだから、そのうち帰ってくるだろう、とぼんやり花を見つめていた少年の脳裏に、ふと、古い記憶が浮かび上がった。

 窓を閉めようと枠にかけていた手が止まる。

――そうだ、あの時咲いていたのも確か梅だ……

 梅の匂いに引きずられたのだろう。

 目の前の梅と記憶の中の梅が重なり、懐かしさやら苦みやらがないまぜになって少年を圧倒した。呼吸の仕方すら思い出せなくなるほど、気が遠くなる。


 どれほど経ったのか。

 わんという鳴き声で少年は我に返った。振り向けば、足下でクマが、どうしたの、と小首を傾げて少年を見上げていた。

「ああごめん、ぼうっとしてた」

 少年は苦笑し、安心させるようにクマを撫でるが、その表情は未だぼんやりとしていた。

 そのまま、ゆっくりと、まるで力が抜けてしまったように、ぺたんと少年は座り込んでしまった。途端にクマが心配そうに主の顔を覗き込む。

 クマをそっとかかえこむようにして脇の下辺りを撫でながら、少年は誰にともなく言葉を紡いだ。

「……少し昔話をしようか。暇潰しにさ」

 そうしてクマの返事も待たずに、少年は静かに語り始めた。

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