第21話(完)

 風が吹いた。

 シゲさんの作った石像を囲うように一面に咲き誇っている真っ白な花々が優しげに揺れた。

 花の中心から、内側に巻き込むような形の花弁たちが、やや上に向かって伸びている。その姿は、淡く弱々しい祈りの手のようにも見える。シゲさんは弱虫のファイティングポーズみたいだと言って笑っていたっけ。なんともシゲさんらしい。

 あの日、車谷の持ってきたヌルチップグラスの花は、車谷曰く、既に絶滅したはずの花で、日本で栽培するのは難しいだろうとのことだった。だが、ほんの少量の種が、今ではこのように中心の石像を囲う花畑と化している。絶滅したとか絶対嘘だろ、と小さな笑みがこぼれた。


 最初に植えた花が芽を出し始めた頃は正直それどころではなく、奇跡に驚くことさえなかった。それはそうだろう、連日村の入口に押し寄せる報道陣と、それをせき止める警察や自衛隊、鳴り止まない電話、心が休まる暇はなかった。まあ、それでも、事の大きさの割には穏やかだったのは、車谷たちのおかげなのだろう。本当に頭が上がらない。

 そのように、あの一件は村に、というか日本に大きな波乱を呼んだわけだが、いい事もあった。村人たちの家族が村に来られるようになったのだ。日本中に病気のことが知られ、その患者が誰かも予想できる状態なのだから当然のことだ。家族と会わせない理由はもうない。

 そのせいで車谷のヘリはふた回りほど大きなものに変わった。これまで通りの生活物資と、家族を運んでくる必要があったからだ。車谷は遠くから聞こえる喧騒に顔をしかめながらも、「この仕事をしているときだけが気の休まる瞬間ですよ」と笑っていた。

 村人の家族の中には、やはり大変な目に遭っている人もいるようだった。

 それでも、私を責める人は一人もいなかった。少なくとも、直接会った相手、つまり村に来てくれた人に関しては。きっと、どこかに私を恨んでいる人もいるだろう。何を馬鹿なことを、何を余計なことを、と思っている人がいるはずだ。その人に対して、私ができることは謝罪以外にはない。


 そうした慌ただしさも、蕾ができる頃には落ち着きを取り戻していた。

 岸が村での研究結果を発表したことが大きいのだと思う。岸が詳細なデータとともに丁寧な口調で語ったのは、要約すると「お前らには関係のない病気だから黙ってろ」といった内容だったが、暴徒たちは気付かなかったようだ。うつるものではないということ、今発症していないならば今後も発症しないということ、それだけわかれば問題はなかったのだろう。

 岸は沈静化し、去って行く報道陣を眺めながら「ずっとそう言ってたんだけどなあ」と苦笑いを浮かべていた。岸がかわいそうに思えたが、大衆とはそういうものだ、と諦めるしかないのだと思う。


「どうも」


 後ろから聞き慣れた声が聞こえた。石像から視線を外し、首だけで振り返る。車谷が相変わらずの無表情で私を見ていた。だが、車谷の無表情にいくらかの柔らかさが見えるのは、きっと勘違いではないだろう。

 車谷は私の隣に腰を下ろした。


「何度見てもいい出来です。さすがシゲさんですね。花も、まさか咲くとは」


 車谷は優しく微笑み、花弁を撫でるように触った。

 石像は案の定、石とは思えない出来だった。

 何人もの人や動物が絡み合うようにして上を目指しているように見える。こう言ってしまうと、恐ろしそうな悲しそうなものに聞こえてしまうが、そうではないところがこの作品の素晴らしさだ、と私は思う。この人や動物たちはどこかを目指してもがいている。生き生きと楽しむようにもがいていた。


「シゲ作で自信作らしいですよ。ほら」


 私は石像の台座の右下を指差す。そこには可愛らしい丸文字で、シゲ作で自信作! と刻みこまれていた。

 車谷と顔を見合わせて笑う。

 ひとしきり笑うと、車谷がどこか寂しさを思わせる声で呟いた。


「もう発つんですか?」


「ええ、もうここにいる意味もありませんから」


 一昨日、この村の住人は私と岸の二人になった。そして岸は発ち、昨日でこの村の住人は私一人になった。

 どこからか聞こえていた笑い声も、子供の騒ぐ声も、カンコンカンコンと何かを削るような音も聞こえない。変わらないのは鳥や虫の鳴く声だけ。


――嘘だ、本当は鳥や虫の鳴き声も変わってしまった。


「ヘリで送りましょうか?」


「大丈夫です。社長がバスを手配してくれたんで」


 何時間かけて帰るつもりか、とは車谷は言わなかった。「そうですか」とだけ言ってまた石像を眺める。

 頭の中で数を数えた。

 あと十秒経ったら立ち上がり、村の入口に向かおう。きっとあの運転手が、以前よりは少しだけ温かい表情で迎えてくれるはずだ。そんなことを考えている間に十秒はサッと過ぎ去ってしまう。じゃあ、あと五秒。……いや、五秒は短すぎた。やっぱりあと十秒。

 なかなか立ち上がらない私を急かすでもなく、車谷は座っている。

 車谷もこの村とお別れをするためにここに来たのかもしれない。そう思い至ると、決心がついた。私はゆっくりと立ち上がり、尻についた泥を払った。

 車谷は座ったままで、私を見る。


「では」


「ええ、さようなら」


 振り返らずに歩いた。寄り道もせず、真っ直ぐに出口へ。その代わり、歩調を早めはしなかった。ゆっくりと足跡を残すようにして歩く。

 この村に来る前、そして今。私は何か変わったのだろうか。

 きっと全く変わっていないということはない。でも、それはきっと変化と呼ぶにはあまりにも小さい。何かを乗り越えられたというわけでもなく、いまだ私の古いかさぶたは周りの乾いた部分をパラパラと落としながら、胸の奥の方に残っている。

 でもきっと、私は鳴きたいと思ったとき、ここでの日々を思い出す。鳴くのか、鳴かないのかはわからない。でもきっと思い出す。思い出して私は選ぶ。

 そして、ここからバスに乗って二時間。そこから鈍行に乗って三十分。一度乗り換えて一時間。そして新幹線で三時間半。その間にも色々なことを思い出すに違いない。楽しかったこと、辛かったこと、馬鹿みたいな思い出に、綺麗な思い出。ひとつずつを思い返しながら、流れる景色を眺めるのだろう。

 シゲさんの大声も。

 春さんの小さな声も。

 真美さんの呆れ声も。

 涼子さんの明るい声も。

 麻子さんの気の抜けるような声も。

 子供たちの騒がしい声も。

 村人全員の声を思い出すに違いない。

 時間が長いから、きっと何周も何周も思い出してしまう。

 そしていつも最後には千花の声を思い出し、きっと泣いてしまう。

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鳥、歌えば花籠 穂塚 @hozuka

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