第20話
人ごみを抜け、ステージの正面、ロープに触れられるくらいの所に止まった。
少し離れた所には人がたくさんいたが、向いている方向はばらばらで、ある者は座り込み、またある者は寝転んで、各々が違うものに興味を向けている。村人たちだけがロープの際に並び立ち、一様に一つの方向を見つめていた。その列に合流し、無言で同じく空を見上げた。
――腹の底に響くような、大地が震えるような重低音が響いた。
人々の視線が困惑とともに音に向けられる。数秒後には、吸い込まれるような夜空に大きな花が咲いた。花はこの広い空を埋め尽くすかのように荒々しく華やかに咲き誇ると、咲いていた頃以上の美しさを滾らせながら、余韻を残しつつ散っていった。
二発、三発と花火が打ち上げられるにつれて、まばらに散っていた人たちは光に寄せられた昆虫のように集まってきた。無人の舞台の前に、ほとんど全員であろう人々が集まる。彼らの視線は一様に舞台ではなく、真っ黒なキャンパスに向けられている。
「きれいだね」
千花の声が届いた。呟くように言われたはずなのに、私の耳の奥で発されたかのようにしっかりと聞こえた。「そうだな」という私の呟きはちゃんと千花に届いたのだろうか。
絶え間なく咲き続けていた花火が止まった。
――一秒、二秒、三秒。
これで終わりなのか、と会場の誰もが疑い始めたであろう頃にヒューという空気を裂く音が私たちの間を通り抜けた。
下ろしかけていた視線をもう一度空に戻すと、気持ちのいい爆発音とともに最後の花火が爆ぜた。それは空を埋め尽くすかのように大きく弾けると、柳の葉のように柔らかな軌道を描き、夜空に溶けた。
会場にため息にも似た感嘆の声が満ちる。数秒の余韻の後、大きな拍手が村を満たした。
「ありがと」
少し濡れた声に目を向けると、千花は両目から一筋の涙を流しながら、微笑んでいた。
「きれいだった。ありがとう」
美しい終わりだ。きっとこれでいい。本当はこれでよかった。
だが、私は小さく首を振った。
「終わりじゃない。きれいじゃないかもしれない」
千花の目が疑問の色を浮かべながら小さく見開かれた。千花の小さな口が微かに動くが、言葉が出る前に、意識は舞台に向けられた。
千花だけではない、今この場所にいる誰もが舞台を見た。
「皆様! 遅ればせながら、本日はこの祭りに参加いただき誠にありがとうございます! 祭りを、花火を、お楽しみ頂けたでしょうか」
暗闇の中で当てられたスポットライトの中には、マイクを片手に社長が喉を震わせていた。
千花は小さな声で「先生じゃないじゃん」と不満の声を上げたが、その声からは反応を決めかねているような、戸惑っているような雰囲気が感じられた。
「これほど多くの方にご参加いただけるとはまさに本懐! 今回の企画を催した甲斐があるというものでございます!」
社長の言葉に、会場の端々から声が上がる。
「楽しかったぞ!」「花火すごかった!」「もっと見たいなあ」「おっさん法被似合いすぎでしょ」「屋台かわいー」「もう祭りは終わりー?」
祭りの熱気に当てられてか、社長の佇まいの成せる技か、会場のいたるところから思い思いの感想が飛んだ。
だが、誰かが言った一言で、会場の声はすべて一つの疑問に変わった。
「でも、これって一体何なの?」
その声を皮切りに、全体に小さなどよめきが広がる。先程までの空気から一変して、ぼそぼそと囁き合う音が満ちた。
「おや? 言っていませんでしたか? 今回の皆様が参加していたのはこちらでございます!」
社長が腕を自分の後方、舞台の後ろの壁に向けて掲げた。社長の腕に導かれるようにスポットライトの一つが、暗闇に紛れていた垂れ幕を照らし出す。
――生前葬! やすらぎの村一同!
小さかったはずのざわめきが大きな波のようにうねりつつ、その勢いを増した。先程までは音としてしか認識できなかったはずの囁きが、確かな声として流れる。
「生前葬? 一同ってどういうこと?」「不謹慎じゃない?」「えー、なんか怖い」
ざわめきの中で、大きく深呼吸をした。背がじっとりと汗ばんでいるのがわかる。
千花の視線を感じた。
「これどういうこと?」
微かに震える千花の声に目を向けることなく、真っ直ぐに舞台だけを見た。心がゆらゆらと振り子のように揺れている。
振りの幅が小さくなったタイミングを見て声を出した。
「鳴いてやるんだ」
私は千花の返答を待たず、ロープを潜り、舞台に上がった。優しく微笑む社長からマイクを受け取る。ちょうど岸も舞台に登り、私の隣に立った。
照りつけるスポットライトで人の顔は見えない。丁度いい。
「この村の住人で、祭りの発案者の白坂と申します」
マイクを岸に向ける。
「岸、と申します」
ざわめきの中から、一際大きい声で、少しおちゃらけたような声が聞こえた。
「そのおっさんが死ぬのか?」
いくつかの笑い声と、冷ややかな視線が飛ぶ。私はざわめきに割り込むように言った。
「いいえ、この村の住人で亡くなるのは、私とこの岸以外の全員です」
バラバラと、口々に発されていた声が一瞬止まり、より大きなざわめきになって戻ってきた。 声が少し収まるのを待って再び口を開く。
スポットライトの向こう側から会場のすべての視線が集まるのを感じた。
「この岸に、岸先生に見覚えがある方はいませんか?」
ざわめきは収まらず、それぞれが疑問の声を発しているようだった。
集まる視線の中で、岸はしっかりと目に力を込め、曲がっていた背筋を伸ばした。
会場のどこかから、つい口から出てしまったような、少し力の抜けた声が響いた。
「嘘つきの岸じゃないか?」
ほんの一瞬の沈黙の後に、困惑の声があちこちから響く。怒声にも似た侮蔑。困惑から来るのであろう恐怖。若い好奇心。すべてが岸に一心に注がれる。先ほどまで不規則に伸び縮みしていたざわめきは、一瞬の沈黙をごまかそうとするかのように大きなうねりとなって舞台上に覆いかぶさった。
岸は私からマイクを受け取った。
「私は嘘をついていました。皆さんにです。そのことを謝るべきなのかは、今でもまだわかりません。ですが、確かに私は皆さんの前で、病気は嘘だったと、そう言いました。それは、おそらくこれまでの誰もが口にしたことのないほどの、大嘘でした」
会場は今度こそ静まり返った。
誰一人として動く者すらおらず、ピンと張った糸の中に囚われてしまったかのようだった。動くことでその身を切り裂かれることを恐れているかのようでもあった。
そんなわけがない、という声はどこからも聞こえなかった。その声を上げるには無視できない違和感がいくつもあるのだろう。その気持ちには私にも覚えがあった。
岸の声が無音の中で響く。
大きな声ではなかったが、会場の端まで確かに届く。そんな声だった。
「この村に在住する三十名弱。彼らは例の遺伝子病の発症者たちです。現在、ステージは3。あくまで推定ですが、来年の今頃、この村に人はいないでしょう。一人も」
岸からマイクを受け取る。
震えようとする声を、無理やり張り詰め、できるだけ感情を抑えた声を出した。
「彼らの最期の安息のため。いいえ、違いますね。私たち全員の安心のため、この村は作られました。仕方がないことです。この村が作られたことは決して間違いじゃない。今、私のしていることはきっと間違っているのでしょう。それでも――」
静寂のおかげか、小さな風切り音が微かに、だがしっかりと耳に届いた。パラパラパラとどこか間の抜けた音が確かに近づいている。聞き覚えのある、幾度となく聞いた音。つまりは、車谷の乗っているであろうヘリの音だった。
岸と顔を見合わせる。岸も気づいたようだ。
早すぎる。ばれたのか、それとも諦めて戻って来たのか。いや、今はそんなことを気にしている場合じゃない。岸と頷きあった。
舞台の横で心配そうな表情でこちらを見つめるシゲさんにマイクを投げる。スポットライトはマイクを追いかけるようにして、シゲさんに降り注いだ。
目をまん丸にして慌てふためくシゲさんに「任せました!」と言い残して、岸とともに事務所の方向、つまりは車谷がやってくるであろう方向に向かって駆けた。車谷を説得しなくては、もしくは止めなくては。その間、なんとかシゲさんに場をつないでもらわなくてはならない。信用するしかなかったし、不思議と信用できた。
舞台袖から人ごみに巻き込まれないようにしながら走る。
幸い、舞台は事務所のすぐそこで、時間はさほどかからない。だが、この短い距離でも運動不足の岸にはきついようで、すぐ後ろからゼェゼェと苦しそうに息を吐く音が聞こえた。
できれば事務所の中で足止めしたかったが、私たちが事務所の前に着いたとき、車谷は事務所のドアを出てこちらに向かってきているところだった。
鬼の形相で走ってくることを予想していたが、車谷の表情は明らかに精彩を欠いており、スーツはボロボロで、ネクタイはかつて見たことがないほどに緩んでしまっていた。それでも、車谷は近づく私と岸に気づくと、小さく会釈をした。
「なんとか見つけました。岸先生の言ったのとは全然違う場所でしたけど、確かに咲いていました。地元の人に種を分けてもらいましたよ」
車谷は少し膨らんだ布の袋を私たちに見せた。横から岸の「こんなことがあるとは……」という、呆れたような、驚いたような、何とも言えない声が聞こえた。
「もうこういうことは勘弁してください。体がいくつあっても――」
車谷の目がゆっくりと見開かれていく。開くにつれて、眼光が戻っていったが、明らかな混乱と驚きの色が伺えた。それでも、車谷は理解する前に体を動かすことに決めたようで、瞬時に足に力を込めた。私と岸で、走り始める前の車谷の足に、すがりつくようにして動きを止める。
「何をしてるんですか! 離してください!」
「離しません!」
必死に車谷を静止しながら、舞台に目をやる。
先ほどの静寂の反響か、様々な言葉を投げかけられ、シゲさんは明らかにパニックに陥っている。
――頼む。シゲさん。頼む。
どうしようもない状況の中、無責任に祈った。舞台袖から社長が駆け寄っていくのが見える。
空気が弾けるような、力強い乾いた音が響いた。
断罪の最中のように飛び交っていた音が止まった。その音はシゲさんが自分の頬を張った音のようだった。シゲさんはマイクを下ろしたまま、轟くような声で言った。
「俺には不満はねえ! だから何を言えばいいのかわからねえ。言いたい奴が言うべきだ。――千花ちゃん!」
シゲさんが手招きをした。
少しまごつくような空気があったが、人ごみの中から千花が押し出されるようにして顔を出す。村人たちが運んだのだろう。シゲさんは、おろおろする千花の手を掴んで、軽々と舞台に上げた。
シゲさんはここからでもわかるほどに柔らかく温かい表情で、千花にマイクを手渡した。先ほどのシゲさんの張り手の影響か、いまだ村人以外からの音は聞こえない。
所在なく辺りを見渡す千花の肩をシゲさんは優しく叩き、社長のいる舞台の端まで下がった。
小さなハウリングの後、自信のなさそうな声がスピーカーから流れる。
「えーと、千花って言います。あの、先生が言ってたように私たちは病気で、差別とかされちゃったらダメだし、皆が不安になるからこの村に来ました。皆、良くしてくれて、この村も、この村を作ってくれた人も大好きです。えーっと、だから何を言えばいいのかな。皆の優しさが集まった村なんです、ここは。本当です」
千花の声は徐々に小さくなっていき、最後には呟きのようなものになった。私は車谷の足を掴みながら首を振った。
千花の言っていることは本心だ。それに真実だ。私だってこの村が大好きだし、作ってくれたことを感謝してる。きっとこの村がなかったら、千花たちが平穏に暮らすことはできなかっただろう。さっきまでの、外の人たちの反応を見て確信した。
――でも、そうじゃないだろ。千花が言いたいことはそういうことじゃないんだろ。
「言えよ! 鳴け! 鳴けよ、千花!」
気づいたら叫んでいた。
舞台を見つめる顔は、一つもこちらを向くことはなかった。もしかしたら、それほど声量は出ていなかったのかもしれない。もしかしたら、声は届いていないかもしれない――でも千花と目があった気がした。
千花は小さく肩を震わせ、一度小さく息を吸い込んだ。
「私ここに来れて、皆に会えて本当に幸せ。ありがとう。――でも、私たちは死ぬの。絶対に死んじゃうの。……それを無かったことにしないで! 今、私たちはここにいるの! いなかったことにしないで! 今、私たちはここで生きてるの!」
千花の声は段々と大きさを増し、最後には飛び立つ前の準備のように小さく膝を曲げながら、体全体を使って叫んだ。叫びは、一度周りの森に染み込み、また村へと返ってきた。
これまで何度も訪れたものとは違う静寂が訪れた。寂しさとか、悲しさとか、優しさとか、恐怖とか、そういうものを何度も濾過して、その後広げた。そんな静寂だった。
言い終わり、半ば呆然としている千花を、シゲさんと社長が両脇から抱えて避難させた。
誰もが呆気に取られていた数秒、真っ先に意識を取り戻したのは報道陣だった。プロ意識というやつなのか、それとも単に慣れなのか、非日常からいち早く、彼らにとっての日常に帰還した。人をかき分け、舞台前に貼られたロープぎりぎりまで進み、最前列が記者会見さながらの要望に変わった。
記者たちは誰もいない舞台に向かってフラッシュと質問を投げ続けている。
説明をしなくては、と歩き出そうとした瞬間に、鼻をすする音が聞こえた。視線を向けると、車谷の頬には一筋の涙が伝っていた。
車谷は、空を仰ぎ、もう一度大きく鼻をすすった。
「わがままな妹だよ、まったく。――じゃあ、あとは私の仕事ですね」
車谷は微かに笑いながらそう言うと、涙を拭った。ヨレヨレになったジャケットの襟を正し、ネクタイをきつく結び直した。そして、舞台に向かってゆっくりと歩いて行く。
人の壁が車谷を避けるように左右に別れた。車谷は放たれるフラッシュに臆することなく舞台に登ると、千花が落としていったマイクを拾った。
「内閣府機密保持管理本部、部長の車谷です。この件に関する質問は私が承ります。撮影も許可します。報道陣も一般の方もすべての質問に答えますので、発言は一人ずつお願いします」
車谷の快活な声に整備されるようにして、飛び交っていた問いが一列に並び、車谷の返答を待った。
「――終わったね」
岸の疲れたような、やりきったような、後悔しているような呟きが聞こえた。複雑な響きで、その声に含まれる感情を言語化するのは難しい。だが、すべてを理解は出来ていた。私も全く同じ気持ちだったから。
これから、その一つ一つを紐解いていくような対応に追われることになるのだろう。もっと後悔するようなことになるかもしれない。あのとき鳴かなければ、とまた自分自身を恨むことになるかもしれない。
でも、きれいな鳴き声だったなと、今はそれだけを思った。
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