魔法にかけられて

あなぐま

魔法にかけられて

 グランシティ荻原ビル1階、化粧品売り場。

 駅に直結したこのビルには、今日も多くの人々が訪れていた。


 この時間は特に仕事帰りの会社員や学生、それにプレゼントを選びに来たカップル等々客層も広い。葵は目の前を行き交う幸せそうな人々を見て、思わず頬を緩め、そして渋い声でぼやいた。


「暇ね」


 問題は、葵と玲司が売る側の人間であり、そして行き交う誰もが二人の店を素通りする事だ。思わず後ろでテスターを磨く相方に愚痴をこぼした。


「ちょっと玲司、あんたも手伝いなさいな」

「僕はこれでも忙しい。それに客引きは君の方が合っているだろう」

「あんたがそんな不愛想だから、こんなイケメンが二人も揃ってるのに、みんな逃げちゃうんじゃない」

「逆に君は追い過ぎだ。そのオネエ口調も込みで品がない」


 玲司は不愛想な顔のまま、表に並んだ商品を見ていた客に静かに会釈した。引き止めもせず説明もせず、そうして次の店に移ってしまう客を、葵が未練たらしく目で追いかける。


「ああ、折角の獲物が……」

「言い方」

「この際だから言わせて貰うけどね、この店で働いている以上はしっか……、いらっしゃいませぇ!」


 視界の端を掠めた客に、逃がしてたまるかと葵は声をかけた。スーツ姿のその客の顔には「見つかった」と書かれている。


「ご、ごめんなさい。あの、見てただけで、じゃあ、私はこれで……」

「えぇどうぞ見ていって頂戴。リップを探してたの? 試してみても良いわよ。鏡いるかしら? こっちの椅子使う?」


 玲司はやれやれと溜息をつくが、葵は気にせず客の隣に収まる。


「あら、良いセンスしているのね。そのリップ、これから流行るんじゃないかって言われてる新色よ」

「そうなんですか。私、流行りとか分からなくて」

「気にしないで、好みはまた別だもの。さあて貴女ならどんな色が……、うん。この辺り、かしらね」


 葵が手にした別のリップを見て、相手は目を丸くする。


「そう、ですね。いつもなら、それを選んだと思います」

「でしょ? でもさっきはこっちを見てたわよね。誰かが付けてた?」

「凄いですね、何でも、分かっちゃうんだ……」


 そう言って俯き、声が震える。思わぬ地雷を踏みぬいたようで葵も慌てた。


「そうなんです、センスも良いし、そうやって流行りを先取りできる人だから、何でも、上手く、っ……」

「あら、どうしたの。大丈夫?」


 ボロボロと涙が止まらない彼女を、葵はとにかく椅子に座らせた。片手で玲司を呼び、持って来させた水を彼女に飲ませる。


 葵は椅子の隣にしゃがみ込み、しばらく黙って背中をさすった。バッグの隙間から「片桐奈々子」と書かれた社員証が見えた。ロゴも知っている、大企業だ。それでも幸せそうにはとても見えない。


 二杯目が空になる頃に、ようやく、彼女は口を開いた。


「会社の、先輩が付けてたんです、それ」


 鼻を啜りながら、ぽつりぽつりと言葉が続く。


「先輩、かっこ良くて、何でも出来る人なんです。だから皆さんに好かれてて、上の人にも一目置かれて、あの主任とも付き合ってて」

「そう、頼りになる人なのね」


 奈々子は黙って頷いた。


「私、いつも要領悪いって怒られて、仕事も全然覚えられないんです」

「気にし過ぎちゃダメよ、得意な事って、みんな違うんだから」

「でも昨日は、せっかく北村主任に任せて貰った仕事も、うまく出来なかった。こんな私にも優しくしてくれるの、もう主任だけなのに。だから、何とか変われないかって思って……」


 そう思って、この店に来てくれたのだ。葵がリップを手渡すと、奈々子は涙をぬぐって自嘲した。


「馬鹿みたいですよね、形だけでも真似れば、近付けるんじゃないか、なんて」


 そう言ってリップを眺めていたが、キャップを取らずに葵に返した。


「もっと賢く生きたいのに、お洒落した所で、私自身が変わる訳じゃ……」

「変わるわよ」


 急に断言されて奈々子が顔を上げた。すぐに葵と目が合う。葵は優しく微笑むと、ポンポンと背中を叩いて立ち上がった。


「変われるわよ、貴女なら。たぶん貴女の言ってるその先輩も、そこまで理由や責任を自分自身に押し付けてないわ。ちょっと失礼」


 そう言って椅子ごと奈々子をぐるんと回した。慌てる奈々子に構わず鏡を直し、ばさっとメイクアップケープを掛ける。


「ちょっと私に時間を頂戴。すぐ終わらせてみせるから」

「え? でも私、そんなにお金持って来てなくて……」

「タダで良いのよ、こういうのは。はい口閉じて」


 奈々子が答える前に、葵は化粧水やら乳液やらを投入し、もごもご抗議する奈々子の顔をさんざん弄んだ。


「初めてスーツに袖を通した時、背筋が伸びたのは覚えてる?」


 話しながらも、葵はメイクの下地を丁寧に作っていく。


「内面に分相応な外見を作っていくのも良いけれど、外見を作ったからこそ心持ちが変わる、きっとその方が多いわよ」

「でも、恥ずかしくないですか? 中身が釣り合ってないのに、外見ばかり綺麗にしたり」


 奈々子にとっては、プロの手で先輩のように綺麗にされても恥ずかしいだけだ。


「……周りの人には元の私が見えてます。厚化粧で誤魔化してるけど、中身はダメな女なんだって」

「誰も自信のない貴女の心まで見えてないわ。見えるのは、自信なさそうにしている、貴女の外見だけよ。まぁもう違うけど、ね」


 パチン、と指を鳴らされ、奈々子は我に返って目を開いた。

 

 まじまじと目の前の鏡を見つめる。そこに映っているのは、すっかり整えられた奈々子だった。


「どう? 魔法をかけられた感想は」

「なんか、良くなりました。どこがとは言えないんですけど」

「一番の誉め言葉ね。じゃあ一か月位したらまた来て頂戴、もう一度やってあげるから」

「え、そんなの、悪いですよ」

「全然ありがたいわ。私は貴女をほんの少し綺麗にする、貴女は私達の店を少し盛り上げてくれる。もちろんこの店にある程度客が入るようになるまでで良いわ。どうかしら」

「分かりました。そんな事で良ければ、喜んで」


 ケープも取られ、奈々子はバッグを持って立ち上がった。葵が改めて名刺を渡し、奈々子も今更ながら自己紹介をする。


「じゃあ頑張ってね。大丈夫、貴女なら出来るわ」


 帰り際、葵が最後に声をかけた。手垢のついた励ましの言葉だったが、奈々子の心には届いたらしい。


「はい!」


 奈々子はバッグの紐を握り直し、精一杯の笑顔を作って、そう力強く頷いた。



■■■



 そうして初めて店に来てからと言うもの、月に一度、必ず奈々子は店に足を運ぶようになった。


「あら奈々ちゃん! いらっしゃい!」

「お久しぶりです、葵さん」


 人混みの中から、葵はすぐに奈々子の姿を見つけた。見た目は余り変わらないが、以前はなかった明るさが見える。葵は椅子を調整して奈々子を座らせ、鏡を直してケープを掛ける。いつもの流れだ。


「その分だと、この一か月は何かしら変化があったみたいね」


 筆でなぞられる感覚にくすぐったそうにしながら、奈々子もおずおずと口を開いた。


「ちょっと、変わりました。少しずつですが、仕事の覚え方が分かってきましたし、任せられる事も増えてきた気がします」

「凄いじゃない。勤め先、大手中の大手でしょ? 自慢して良いと思うわ」

「私にはついていくのも精一杯です。北村主任にも手伝って貰って、なんとかやれている感じですね」

「ふふ、相変わらず優しくしてくれるのね」

「はい、もう、本当に感謝してます。この前は休日に二人で出かけて、どんな資格を取ったら良いかとか、色々教えて貰ったんです。営業トップなだけあって、お話も上手ですし、私もずっと……」


 そこで奈々子が言い淀んだ。口が滑っている事に気付いたようだが、葵は指摘せずニヤニヤ聞いている。


「す、すみません、関係ない話でした」

「そんな事ないわ。先輩さんと主任さんは、前から気にしてた人達だものね」

「ええ、先輩の方も、ようやく直接お話できるようになって」

「本当にその先輩にお熱なんだから。まあでも、私はその先輩、ずっと前から貴女の事を気にかけていたとは思うけれど?」

「そうですか? 視界の端にも映っていなかったようで、寂しかったんですけど」

「別に直接話しかけるだけが人間関係じゃない。良いわ、これを次までの宿題にしましょう」


 パチン、と指を鳴らされ、奈々子は目を開いた。


「宿題、ですか?」

「そうよ、仕事は一人じゃ出来ないでしょう? 他の人がどう協力して仕事してるのか、困った時どうしてるのか、まずはしっかり観察なさい」


 ケープを取られながら奈々子は難しい顔をしていたが、ともあれ「分かりました」と答えた。葵も楽しそうにそれを眺める。そう難しい話ではない。ちょっと注意していれば、彼女ならすぐに気付くだろう。


 そして一か月後。期待通り奈々子はしっかり宿題をこなしてきた。


「この間は、ありがとうございました。おかげで助かりました」


 化粧水を塗られながら奈々子が報告する。葵も「良いってこと」と笑顔で作業を続ける。


「あれから部署の風通しも良くなって、皆さんの営業成績も伸びてるんです。目に見える結果が出るのって、こんなに嬉しいんですね」

「主任さんとか、営業の人を支える仕事なんだっけ?」

「はい。うちの営業は信頼第一なので、契約の時も書類がなくて良いようにしてるんです。その隙間を埋める為に、私とかが事務をしてるんですけど」

「健気ねぇ、まあカッコいい主任の為だものね……、で?」


 急に葵が詰め寄った。


「いつも、何って呼んでるのよ」


 奈々子は一瞬きょとんとして、それでも観念したように白状した。


「あの、ゆ、祐輔さん、って」

「でしょう! で、どこまで行ったのよ!」

「あの、合い鍵、貰いました。タワマンの二十七階とか、凄かったです」

「流石は営業トップね。大企業勤めで高収入でイケメンで優しくて、何これ無敵? ちょっと逃がしちゃダメよその優良物件。さ、出来たわよ」


 パチン、と指を鳴らされ、奈々子は目を開いた。


「今日は前より少し濃い目にしてみたけど、どうする? もっと試す?」

「いえ、これで十分です。早く帰って仕事に取り掛かりたいですし」

「頼りにされてるのね。このまま自信を持って飛び込みなさい。そしたら、結果は必ずついてくるから」

「はい、頑張ります」


 お礼を言って奈々子は席を立った。


 その後、奈々子は表の化粧品を暫く眺め、値札を見てうっと顔を曇らせた。コソコソと財布の中身を確認し、葵が笑いながらその背中を叩く。そんな二人の様子を、玲司がいつも通りの不愛想な顔で、じっと見つめていた。


「これ、ください」


 一か月後、とうとう奈々子は化粧瓶を片手にそう言った。接客に追われていた葵も顔をほころばせる。


「あら、話が分かるようになったじゃない」

「やっと言えました。それにしても、今日は凄いですね」


 会計を済ませながら、奈々子は店を見渡した。周囲の店と比べても、葵と玲司の店には多くの客が詰めかけていた。


「でしょう? 私がお化粧するたびに貴女が良い顔で帰ってくれるから、みんな気になって来てくれるようになってね」

「恥ずかしいこと言わないで下さい。そんなに見られてたんですか?」


 そうは言っても、葵から見ても今の奈々子は魅力的だった。顔立ちや化粧を抜きにしても、背筋が伸び、動きに張りがある。奈々子も自覚があるだろう。


「貴女に声をかけて正解だったわね。感謝してるわ」

「それは私こそです。葵さんに励まされて、ようやく顔を上げて歩けるようになったんですから」

「じゃあ、もう大丈夫なのかしら?」


 賑やかになった店のカウンターで、葵は奈々子と向き合った。


「はい、今までお世話になりました。また化粧品、買いに来ますね」

「うふふ、待ってるわ。ええ、愉しみにしているから……」


 瞳にどこか昏い光を携えて、葵は笑顔で奈々子を見送った。頭を下げ、店を後にする奈々子の足に迷いはない。本当に、彼女は葵の見込み通りだった。


「片桐さん」


 急に、家に戻ろうとする奈々子に声が掛けられた。


 一瞬遅れて奈々子は振り返る。接客に追われる葵の代わりに、玲司がこちらを見ていた。なにか複雑な表情をしていたが、暫くして、ようやく、言葉を絞り出した。


「お気を付けて。またのご来店を、心からお待ちしています」


 そう言って、玲司は深々と頭を下げた。



■■■



 煌びやかなデパコス売り場から出て、奈々子は肌寒い通りを歩いていた。

 さっきの玲司の言葉が、妙に気になっていた。


 あんなに改まって言われると、まるで奈々子の今後を心配されているかのようだ。だが、あの店に通う前ならいざ知らず、今の奈々子に心配される要素などない。


 祐輔との関係は良好だ。会社でも大きなプロジェクトの調整役も任されている。強いて言うなら、元は先輩が担当していた案件だったため、最初は確かに苦労した。奈々子も、少し追い詰め過ぎたと反省はしている。せめて引継資料を作らせる時間くらいは与えるべきだった。それにしても、新人潰しが趣味だったあの先輩が、まさかあれほど打たれ弱い性格だったとは。


「あれ……?」


 ふと、足が止まる。そう、奈々子がやった事だ。数か月前、ガス抜きのターゲットを自分から先輩にすり替えた。部署内の風通しも良くなって、今思い返しても良い事づくめだ。


 そう、何の問題もない。

 だが何故か、泥が溜まるような違和感が拭えなかった。


「お帰り奈々、今日は随分遅かったな」


 家に帰ると、祐輔が笑顔で迎えてくれた。軽く口付けを交わし、奈々子は奥の部屋で着替えを始める。暖房の温かさで、先ほどの違和感も少し和らいだ。


「いつもの店に寄ってたんですけど、随分混んでたんです」

「そっか。世話になってるって言ってたもんな」

「はい。そういえば化粧品も買えました。ようやく、恩返しができたと思います」

「良かったな。ところで奈々」


 はい、と奈々子が振り返ると、何かが、張り付いたような笑顔のままこちらを見ていた。ぞわっと悪寒が走り、それで奈々子も思い出す。


「あっ、あの、遅くなって、すみませんでした」

「良いんだよ。メシ食うよな。ごはん温めるから、ちょっと待っててな」


 優しく声をかけて祐輔がキッチンに消えた。だが奈々子はまだ心臓の鼓動が落ち着かなかった。何かあったら、まず謝る。祐輔から言われていた五十八のルールの一つだ。なぜ忘れていたのだろう。


 着替えが終わると、祐輔が用意してくれた夕食を取った。その間に祐輔は風呂に入るが、逆に奈々子はこれから仕事だ。いつも通りパソコンを起動させる。


「……」


 キーボードを叩く指が震えていた。いつもの事なのに、甘い夢から覚めたような気分だ。玲司に妙な事を言われたからか。それとも、葵に魔法を掛けて貰えなかったからか。


 気になり出すと止まらない。パソコンの勤怠ログはデータを送受信できない設定のままロックされているが、今月分はもう百時間を超えている。ベッドで祐輔の背中に手を回した時、知らない女が掻きむしったミミズ腫れの痕に触れた。


 気になったまま行為の間も上の空で、挙句の果てには一睡もできないまま翌日出勤する羽目になった。


「何してるんだろう、私……」


 デスクに着くと、寝不足で眩暈がしながらもパソコンを起動させる。更新が終わると、デスクトップには裏ファイルがびっしりと並んだ。本来なら社員一人が抱えているなどあり得ないが、その全てがとても外部には見せられない代物だ。もしもの場合は、奈々子と一緒に闇へ葬る段取りになっている。


 得体の知れない不快感が増すばかりだった。激痛で頭がギシギシと軋み、マウスを動かす指先の感覚も殆どない。右クリックして操作する途中、間違えて削除を選択しそうになった。


「あ……」


 ふと、魔が差した。


 このまま削除すれば、少しは楽になるかと。以前の奈々子ならそうしただろう。それでも葵と二人で勝ち取ってきた全てが蛇のように絡みついてきて、どうしても指が動かなかった。


 体から脂汗が流れ、眩暈と頭痛が限界を超える。そして奈々子は口を押えながら、咄嗟に机からゴミ袋を探し出し、その場で吐いた。



■■■



「感心しないな。君はいつもやり過ぎる」


 グランシティ荻原ビル1階、化粧品売り場。玲司は低い声で糾弾した。葵は客を笑顔で見送りながら、振り向きもせずに答える。


「そう言って『あんた達』はいつも何もしない。そんなだから信仰が薄れるのよ」

「ひきかえ『君達』は、いつも間違った方に人を連れていく」


 玲司の言葉を鼻で笑って、葵は笑顔のまま振り返った。


「何が間違っているって言うの? 私は泣いてばかりだったあの子に、憧れの先輩みたいになれるよう自信をあげただけよ」

「だが彼女自身、自分が何に憧れていたか、分かっていなかっただろう」

「そうね、あんな環境で息をしていれば、真正のクズが殊更輝いて見えてたんでしょうけど」


 くっくっ、と葵は愉快そうに笑った。


「じゃあ君は、最初から気付いていたんだな」

「奈々ちゃんを虐め潰していた元締めが先輩さんだった事? それとも奈々ちゃんの勤め先が最初からあの子をガス抜き用のサンドバックとして雇った事? それとも主任さんが、いつでもヤれる従順な仔兎が欲しくて奈々ちゃんに優しくしていた事? なあに玲司、あんた人の話とか全然聞いてなかったのね」


 玲司は眉をひそめて答えない。葵はそんな相方を楽しそうに揶揄った。


「そう睨まないで頂戴。心配しなくても、もう誰もあの子を傷つけたり出来ないわ」

「それでも彼女は苦しいままだ。君が間違った道に向けて、背中を押したからだ」

「だってあの子が、そっちが良いって言うんですもの。ふふ、今更引き返せやしないけれど」

「分かっていて途中で放り出したのか。いつも思う、葵、何故こんな事をする?」

「なぜ? なぜ……。なぜ、か……」


 葵は一瞬きょとんとして、口に指をあてて考えこみ、おもむろに玲司の方を向く。そして鮮血色の瞳を細め、口を耳まで裂けさせて嗤った。


「だって、愉しいじゃない」


 玲司はもう何も言わない。本当に不毛な事を訊いた。葵はふっといつもの顔に戻ると、仕事に戻ろうと首を鳴らした。


「ま、何も悪い事ばかりじゃないわ。結果だけ見れば、あの子は普通の人と比べてもずっと良い暮らしをしてる。手放すなんて出来っこない」


 善悪の境を曖昧にし、優しい言葉で心を固め、自分を慰める言い訳を与えた。いつものやり方だ。葵は奈々子に付けた化粧品を手に取って、慈しむように微笑んだ。


「もう、あの子には、何も出来はしないわ」



■■■



「何してんですか。え、ちょっ……」


 次から次へと、奈々子はファイルを消しまくっていた。ロックを解除、ファイルを削除、削除了承。ひたすらそれを繰り返している。奈々子自身、私は何をしているんだろうと考えながら、半笑いで右手だけを動かしていた。


 同僚は怯えて近寄る事も出来ず、代わりに大声で祐輔を呼びに行った。さっきから、全身から変な汗が出て止まらない。しかし、考えたら負けだと感じていた。このまとわりつく何かを振り払うには、動くしかない。


 そうこうしている内に、慌ただしい足音と共に祐輔がやってきた。


「やめろ奈々! 何してんだ!」


 肩を掴まれて振り向かされた。それでも奈々子は右手だけ動かして、ずっと待機させていたアプリを起動した。外部監査が抜打ちで来た時のための最終手段だ。それを見た営業の一人が青ざめた。


「主任、これ……」

「大和田、再起動できないか試せ。奈々、ちょっとこっちに」


 呆然と周囲を囲む社員をよそに、祐輔は奈々子の肩を掴んで事務室を離れた。そのまま廊下を突っ切って給湯室まで来ると、おもむろに奈々子と向き合う。


「どうしたんだ奈々。一体、何があった」

「……祐輔さんは、どう思ってるんですか?」

「どう、何がだ?」

「この仕事です。盗まれた秘密をお金で買って、嘘をついて貶めて、その逆張りでお金を稼ぐ。そんな成績を皆で競って、私達、何をしてるんですか」

「……奈々、どうして今更、そんな子供みたいな事を言うんだ」


 祐輔は混乱しながらも、ゆっくり奈々子に語り掛ける。


「もともと、世の中はそうやって回ってるんだ。俺達も自分の生活を守れて、家族を幸せに出来て、時にはその幸せを周囲に配る。何も間違ってないだろ」

「いや、おかしいです。それを前提にして進めないで下さい」

「奈々、いい歳なんだから大人になれ。賢く生きるんだろ?」


 その子供に道理を説くような口調を知っている。他人に上から物を教える事を好む祐輔、それを満足させる為に、ずっと馬鹿のフリをしていた奈々子も悪いだろう。


「賢くないです。私は結局、賢くなんかなれない」


 自分の言葉が全く届いていないと分かりつつも、思わず奈々子は声を荒げた。


「で、でも祐輔さん、あのリストは違法です! 彼等は自分の個人情報が裏で売買されてるなんて知らない! このままプロジェクトを進めたら八十七世帯、最低でも二百人以上の人が、何が起こったかも分からないまま……!」


 衝撃が走って視界がブレた。奈々子は痛む頬を押さえる。祐輔と向き直って、振り下ろされた右手を見て、ようやく祐輔から平手を貰ったのだと気付いた。


「そうじゃないだろ奈々。悪い事をしたら、ごめんなさいだ」


 有無を言わさぬ固い声だった。二人きりでいる事が、急に恐ろしくなった。祐輔が奈々子の両腕を掴んで壁に押さえ付ける。


「奈々は俺の言う通りにしていれば良い、部長には一緒に謝ってやるから」

「は、離して下さい。私は、」

「黙れ。俺も躾けが足りなかったな。奈々、今日は帰ったら……」


 手首が折れるほど強く握られ、奈々子は小さく悲鳴を上げた。恐怖で頭が真っ白だ。それでも、もう逃げられないと覚悟を決め、奈々子は命を絞り出すような叫び声を上げる、そして……。



■■■



「股を蹴り上げたぁ?」


 グランシティ荻原ビル1階、化粧品売り場。

 数か月振りに顔を見せた奈々子から話を聞いて、葵は思わず声を上げた。


「ちょっと待って、なんでそうなるワケ?」

「すみません、なんか勢いで。私もよく覚えてないんですけど」


 いつもと変わらぬスーツにビジネスバッグ。だが髪は乱れ、左頬には大きなガーゼが貼られ、右目にはしっかりと殴られた痕があった。葵の予定と、だいぶ違う。


「一体どうしちゃったのよ。ずっと上手くいってたじゃない。それに彼とは一緒に暮らしてるんでしょ?」

「いえ、この間、追い出されました」

「じゃあ貴女達、別れちゃったの?」

「ええ。もう貯金も少ないですし、早く収入源を確保しないと」

「待って。まさか、仕事も辞めた?」


 はい、とすっきりした顔で奈々子が頷く。ついていけない葵の後ろで玲司が黙って聞き耳を立て、必死に笑いを我慢していた。


「それで、タマ蹴っ飛ばして、逃げてきたの?」

「なんか、可愛かったです。あの祐輔さんが、キャンって、仔犬みたいな鳴いて」

「あきれた。憧れの先輩みたいになりたい、主任の力になりたいって頑張って、だから私も一生懸命応援してあげたのに」

「はい。葵さんには本当に感謝してるんです」

「……かんしゃ?」


 奈々子はすっと顔を上げた。


「どうして皆に出来る事が、私には出来ないんだって悩んでたんです。私の頑張りが足りないからだって思ってました。でも分かったんです。私には頑張れば出来る事と、一生頑張っても出来ない事があるんだって」


 葵を見つめる奈々子の目はまっすぐだった。今の奈々子からは、葵が丹念に仕込んできた物が消えてしまっている。


「あのままだと、私は腐ったまま一生を終えてました。葵さんが背中を押してくれたから、私は実際に飛び込んで、それが分かって帰ってこれたんです」


 そう、葵が背中を押した。だが帰ってこいとは言っていない。


「何度も励ましてくれて、本当に嬉しかったです。これからは、きっと物凄く苦しくなると思います。それでも選んだのは私なんだって、そこだけは胸を張って生きていこうと思います」


 そう、葵が励ました。だが胸を張って生きろとは言ってない。


「葵さん」


 奈々子が生き生きとした目で言った。


「私、頑張りますね」


 耐え切れずに玲司が吹き出した。葵は苦虫を嚙み潰したような顔をしながら、大笑いしている相方を不服そうにねめつける。


「……何よ、これで満足?」

「いや、良い顔になったと思ってな」

「白々しい。これ、全部あんたの仕業じゃないでしょうね」

「まさか。だが、だからこそ、だろう?」

「それもそうね、ええ、そうでしょうとも」


 楽しそうに二人は言葉を交わす。

 奈々子はぽかんとしながらそれを聞いていた。


「あの、お二人共どうしたんですか? 私、何かしました?」

「何でもないのよ。さ、折角だからいらっしゃい。まずはその名誉の勲章を綺麗にしておかないとね」


 鏡を直し、ケープが掛ける。このやり取りも、もうどこか懐かしい。奈々子も慣れた様子で体を預けていた。それにしても、せっかく美酒に見立てて毒を飲ませたものを、小娘め、美味しかったときたか。だが、それも悪くない。


「ふふ、だから人間って好きなのよね」


 そう笑って、葵はおもむろに筆を取った。


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