浮気夫と別れない理由
塚本ハリ
第1話
署名捺印を済ませた離婚届を前に、夫はぽつりと言った。
「……別れたくない」
「あら、そう」
妻はフッと半笑いで、その離婚届を破いた。
「分かったわ。でも、この人に慰謝料の請求はするからね」
妻の返事に震え上がったのは、浮気相手の若い女だった。日曜の昼下がりのファミレス。街路樹が良く見える窓際の席で、三人の男女が静かな修羅場を繰り広げていた。
よくある話だ。浮気相手は夫の通っているスポーツジムの会員。通っているうちに顔見知りになり、親しくなり、そういう仲になったらしい。若くて、その若さゆえに怖いもの知らず。相手が既婚者でも、自分の若さと美貌があれば奪い取れると思ったのだろう。
妻の友人がそのジムの会員だったため、ことが露見するのにそう時間はかからなかった。加えて浮気相手の女は顔や身体はともかく、おつむが残念だったようだ。浮気がバレた後、開き直った挙句に妻に嫌がらせのメールや電話を繰り返したのだ。
妻のスマホには浮気の証拠がてんこ盛りだ。「さっさと離婚しなさいよ、オバさん!」といった罵詈雑言が並ぶLINEの画面。最初は挑発的に、最後にはヒステリックな金切り声で喚き散らす会話の録音。
「まったく……。謝罪なり何なり、少しばかりしおらしい態度を取るならまだ可愛げがあるのに……バカねぇ」
だが仕方がない。夫が選ぶ浮気相手は、そういうバカな子ばかりなのだ。可愛くて、恋愛体質で惚れ込んだら一直線。なまじ自分のルックスに自信があるから、好きになったらこっちのものという思い込みが強い。人の夫を寝取ることのリスクなど、はなっから頭にない子ばかりである。
「じゃ、そういうことで。後は弁護士に任せるから」
妻はそうつぶやくと、伝票をつかみ無言でうなだれている夫を促して席を立った。
「ねぇ、ちょっと待ってよ……!」
女が震える声で夫を見やった。が、夫の方は目すら合わせず、一言も口を利かず、黙って妻の後を付いていくだけだった。
二人はそのままファミレスの駐車場に停めていた自家用車に乗り込む。程なく車は動き出した。運転は夫。妻は助手席で、携帯電話を取り出した。
「あ、どうも。早速だけど仕事頼めます?」
妻はLINEでいつもの「会社」に依頼をかける。二人とも、打って変わって笑顔になっていた。
女は自宅に戻るや否や、その辺りのものを手当たり次第にたたきつけ、最後にはベッドに突っ伏して泣きわめいていた。狙った男は結局妻のもとに戻っていき、代わりにやってきたのは内容証明郵便と彼の妻からの訴状。七桁の慰謝料など普通のOLに支払えるわけがない。
と、そのときマンションのチャイムが鳴った。インターホンのカメラには、見覚えのある、ちょっとぽっちゃりした顔が映っている。これまたコナをかけていたジム仲間の男だった。
――そうだ、この人なら!
とっさのひらめきだった。
「慰謝料、もらえましたね」
「ええ、おかげさまで。相変わらずいい仕事してくださいますね」
妻は札束の詰まった封筒を眺めながら、にっこり微笑んだ。彼女の目の前には、例のジム仲間の男。そして、妻の隣にはホクホク顔の男も座っている。今日は居酒屋の個室で、「仕事」の打ち上げ会だ。
「で、この後は?」
「もちろん、ウチの店で働いてもらいますとも。可愛いし、いい体しているし、愛嬌があるからそこそこ売れると思いますし。ウチも毎回、可愛い子を斡旋してもらえるんでありがたいですよ~」
女がすがった相手は、いわゆる実業家だ。主に飲食店や不動産業などを手掛けているが、その裏で性風俗系の店もいくつか持っている。多額の慰謝料はそのまま彼女の借金となり、彼が経営する風俗店で働くことで毎月返済することになっている。借金のために借用書に書いたサインが、そのまま風俗店で働くための契約書だと分かった時にはもう手遅れだ。騙されたと気づき喚いたところで、店の若手に二、三発やられてしまえばもうおとなしく従うしかない。
「もっとも、まさか彼女も私らが裏で繋がっているとは思いもしないでしょうけどね」
やり方はこうだ。まず、夫に若い女がコナをかけ、やがて男女の関係になる。同時進行で実業家の男を女の周辺にチラつかせる。女は金回りがよさそうな男をキープしつつ、夫との不倫に燃え上がる。
そこに夫の妻が現れ、多額の慰謝料を請求。金が払えない女は、キープ男に泣きつく。キープ男は肩代わりをしてやる振りをして、その裏で女をソープに売り飛ばす。売った金額の三割が男の取り分だ。
夫の浮気性は周知の事実だ。ハンサムだし、優しいし、モテるのも分かっている。そして、夫の浮気相手は、そのまま上質の金づるになるのだ。
「それにしても、これで何人目ですか?」
「いやぁ~、二桁超えた後からはカウントしていませんので」
「ぼろい商売ですねぇ」
呆れたように言う男に、夫は苦笑する。
きっかけは最初の浮気だった。妻は淡々と「どうする?別れたい?」と訊ね、夫はとっさに「嫌だ」と返した。妻からは「別れたくなければ、彼女への慰謝料の請求を許可して欲しい」とだけ告げられた。結果として額は六桁に収まったが、それでもまとまった金が手に入った。「儲かったね」と満面の笑みを浮かべたのは妻だった。
最初は浮気相手から慰謝料をむしり取るだけだったが、若い女がそうそう金を持っているとは限らない。ならばと考えたのが、借金漬けにして売り飛ばす方法だ。
「若い子とイイことできて、飽きたらすぐ捨てられて、お金も入って来る」
どうせ浮気者なら、上手に操縦するのが得策なのだ、と妻は冷酒をちびちびとなめていた。
浮気夫と別れない理由 塚本ハリ @hari-tsukamoto
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