【短編】妹に告白されたお兄ちゃんがしっかりと兄貴だったパターン
夏目くちびる
第1話
「お兄ちゃん、ちょっといい?」
「なんだい」
とある休日の午前10時頃。
部屋でボーッとアニメを見ていると、いつもの横暴な態度ではなく、寝静まったのを確認してからイタズラをしたがる猫のようにゆっくり、妹のカナミが部屋へ入ってきた。
「……そのアニメ、面白い?」
「面白いよ、主人公の基幹システムがサンデヴィスタンってのが渋い。俺はクイックハックしか使わなかったからな」
「意味分かんないけど、ちょっと見るの止めて聞いてほしいことがあるの」
言われ、デスクに乗せていた足を下ろして動画を止めると、突っ立ったまま俺を見ているカナミに椅子をクルリと回して向かい合った。
どうやら、デートにでも行くらしい。随分とめかし込んで、気合の入った様子だ。
「お小遣いなら5000円まで出せるぞ」
「ち、違うよ」
「なら、あのサコシュか? 気に入ってるから、出来れば貸したくないんだけど」
「だから、そうじゃなくて」
「分かった、待ち合わせ場所まで車で送ってけってんだろ」
「違うって! 聞いてよ!」
すると、カナミは顔を赤くして俯いた。毎日毎日、お手本をなぞったように小生意気な態度を取る女子高生の妹にしては、いささか珍し過ぎる素振りだ。
「なに?」
尋ねて、温くなったホットコーヒーを啜ると電子タバコに火を加えて本体を取り出した。アニメに夢中で、吸うのを忘れていたのだ。
数秒して、バイブが伝わる。深く吸い込んでから息を吐くと、薄白い煙が舞ってすぐに消えていった。
「……いつの間にか、好きになってたの」
「なにを?」
「お、お兄ちゃんのこと」
「そうか、ようやく反抗期を抜け出したか。よかったよかった」
「そうじゃなくて!」
もう一度煙を吹くと、カナミは一歩だけ俺に近寄って目線を向け。
「お兄ちゃんのことが、好きなの」
そう言って、一粒だけ涙を流した。
……。
「落ち着いたか」
「うん」
リビングで紅茶を淹れて戻ってくると、カナミは俺の椅子を使っていたからカップを差し出してベッドに座った。
再び、煙草をソケットに差してため息。バイブを感じて、深く煙を吸い込む。
「まぁ、色々と確認しておきたい事はあるけど。とりあえず一つだけ」
「う、うん」
「お前は間違ってる。それ、兄として絶対に受け入れられないモンだからな」
すると、カナミは俺の顔を見てから寂しそうに俯いた。
「分かってるよ」
どうやら、そういうことらしい。それなりに理性的で助かる。
「でも、もうお兄ちゃんに嫌な事するの、耐えられなくなっちゃったんだもん」
「へぇ、あのクソ生意気な態度にはそういう意味があったのか」
「そ、そうだよ。お兄ちゃんがキレて幻滅させてくれればよかったのに、優しくするのが悪いんじゃん」
「……悪い、考えたこともなかった」
「そういうとこ!」
怒られて、俺は口を噤んで煙草を吸った。下手な事を言っても、何だか白々しくて嫌味っぽいもんな。
……とりあえず、俺はこの沈黙を使って知り得る限りの情報を思い出すことにした。
まず、俺とカナミは正真正銘の兄妹だ。俺の三つ年下で、ちゃんと同じ母さんの腹から生まれてきたし、俺自身もその現場に立ち会っている。
身長は160センチくらい。体重は知らんが、それなりに胸がデカいから平均より軽いってことはないだろう。
髪は黒で長く、目はやや反抗的というか、気が強そうっていうか。とにかく、母さんに似た丸目の俺とは逆で父さんに似ていて、唯一俺と形の相反するパーツだと言えるだろう。
性格は顔に出るというが、この強そうな顔の意味が意地っ張りで寂しがり屋で泣き虫だっていうのなら、言い得て妙という表現がピッタリか。
とにかく、そんな女だ。
俺が高校生になった頃、両親は俺の自立を確信したのか仕事に専念するようになった。
もしも俺が大人びているというなら、それは二人が仕事大好き過ぎて俺がしっかりしてなきゃならんという意識のせいなワケだが。
ともあれ、二人とも更に輪をかけて家を空けるようになり、帰ってくることの方が少ないくらいになった。どうやら、海外を飛び回っているんだそうだ。
その頃からだ、カナミの態度が悪くなったのは。
俺はてっきり、両親がいない事への寂しさを俺にブツケてるんだと思ってた。
だから、「お兄ちゃんなんだからちゃんとしろ」という父さんの言いつけを守ってカナミに接したし、「お兄ちゃんなんだから優しくね」という母さんの言いつけを守ってカナミに優しくした。
しかし、カナミは口を開けばやれ「ウザい」だの「キモい」だの「死ね」だの好き勝手に罵るばかりで、結局俺が家事を切り盛りしながら学生生活を送る事になった。
次第に、バイトもやるようになって。俺が帰ってくると、カナミはいつもリビングでテレビを眺めていた。夜遅くまで一人で、ボーッと。
……同情していた。
だから、何を言われても許せたし。父さんと母さんも、俺を信じて金を稼いできてくれてるワケだし。それに、兄貴は家を守らなきゃならんと思ったのさ。
……まぁ、ここだな。
ここで俺がブチギレて「お前などもう知らん!」と突き放し、一人分の飯を炊いて、風呂に入ったらすぐに湯を抜いて、バイトなり趣味なり友達なりに没頭しておけばよかったのだ。
そうすれば、カナミは同級生と恋をして順風満帆な青春時代を送れただろうに。
「なぁ、今から突き放しても間に合うか?」
「もう遅いよ」
という事だ。ならば、俺はどうすればいいだろう。
A、気持ち悪いのでぶっ飛ばしてもう一度しっかり考えさせる。
B、聞かなかったことにして今まで通りの生活を続ける。
C、友達を紹介して付き合ってもらい、カナミに俺を忘れさせる。
D、期間を決めて、カナミの恋人ごっこに付き合い満足させてあげる。
E、両親に事情を説明し家に帰ってこさせ、俺が一人暮らしを始める。
「こんな感じか」
「バッドエンドしかないじゃん」
「オススメなのはCかEだな。正直、俺一人じゃどうしようもない気がする」
「さっきから気になってたんだけど、なんでそんなに冷静なの?」
「お兄ちゃんだからだ」
すると、カナミは少しだけ椅子を転がして俺の方に近寄ってきたから、俺はケツを浮かせて同じ距離だけ妹から離れた。
「……お兄ちゃん、もしかして私のこと嫌い?」
「嫌いじゃないから真剣に考えてんだろ。お前もちょっとは手伝え」
足を組んで天井を見上げていると、突如としてカナミが俺の目の前に立って左手を取った。煙草が床に落ちて、ヘッドの下へ転がっていく。
「なんだよ、気持ち悪い」
「Dにする、ちょっとでいいから幸せにして欲しい」
「一番しょーもないのを選んだな、未来のこと考えたら虚しくなるんじゃないか?」
「それでも、お兄ちゃんが欲しい」
……きっと、カナミなりに自分だけじゃどうしようもないと葛藤した末の答えなのだろう。
こいつは、決してバカじゃない。しっかり物事を考える力を持っているし、それだから将来のために明確な目標を立てて努力をしているのを俺は知っている。
そんな妹が、随分と久しぶりのわがままを言ったのだ。それに、この期に及んで誂ってるんじゃないかって試すような選択肢を提示した俺の落ち度でもある。
仕方ない。やろうじゃないか、恋人ごっこを。
「なら、期間はお前が大学生になるまでの三ヶ月だ。それ以上はない」
「短いなぁ」
「学生カップルの寿命なんて基本そんなもんだ。あと、この三ヶ月が終わったらお前から『さよなら』を言うって約束しろ」
「なんで私からなの?」
「失恋は、自分からフッたほうが吹っ切れるしキズも浅く済む」
すると、彼女が俺の左手を引っ張って椅子ごと引き寄せる。
「なんで知ってんの?」
「何回かフラレたからだ」
「カノジョいたの? マジでキモいんだけど」
何がキモいのかよく分からなかったから、俺は黙って適当に誤魔化す事にした。しかし、カナミの溜飲は収まらなかったようだ。
「なんで言わなかったの?」
「紹介しようとしたけど、お前がまともに俺の話を聞かなかったんだろ」
心当たりがあったのか、カナミはバツの悪そうな顔をして次の言葉を紡いだ。
「今はカノジョいんの?」
「いない」
「……そう、なら許す」
妹という生き物は、どうしてナチュラルに兄を見下したがるのだろうか。大体の奴は失恋くらい経験するだろうに、先人をバカにすると後で痛い目を見るんだぞ。
「でも、なんか凄くスッキリした。隠してるの、辛かったよ」
「そういうもんか」
「うん、褒めて」
「でかした」
言うと、カナミは突然飛び込んできて俺をベッドへ押し倒した。ジーッと顔を見られているが、遺伝子のせいなのか俺と似てるからなのか、どうにもリビドーに響かない。
「ずっと、こうやって眠りたかったの。壁を挟んだ隣りにいるのに、お兄ちゃんに甘えられないのなすっごく悲しかった」
「ガキん時、朝起きたらいっつも隣りにいたじゃんか」
「あの時は別に、お母さんの代わりって感じだったし。でも、今は違うから」
なんか、自分に酔ってるんじゃねぇかと思った。とてもドラマチックな状況に身を置いて、その悦にでも浸ってるんじゃねぇかって。少し、引いた目線で妹……。
じゃなかった。彼女を見てしまうのは、やはり俺もそれなりに焦って心の整理がついていないからなのだろう。
まぁ、恋愛してる女子高生なんて大なり小なり似たようなモノだろうし、カレシなら弄ったりしないだろうから、上半身を起こすと黙って頭を撫でてやった。
随分と嬉しそうだ。
「えへへ」
ニコニコしてるのを見るに、本当に寂しかったんだろうってのが伝わってくる。友達たちの前でも強がってるのを知っているし、まるで俺みたいに落ち着いているのが偉いって思い込んで、そう振る舞っていたのが分かる。
父さん、母さん。これはきっと、半分くらいあんたたちのせいだぜ。
「それじゃ、デート行こう。歩いてれば落ち着くでしょ」
「なら、見たい映画があるんだ。新宿にしてくんないかな」
「あ、慣れてるっぽい。ムカつく」
「じゃあ、他にどっか行きたい場所でもあんの?」
「んふ、ない」
ということで、俺たちは電車で新宿駅へ向かい、歌舞伎町の東方シネマで超有名なバスケ漫画の映画を鑑賞した。
「面白かったなぁ」
「うん! 私も漫画読んでみたいなぁ〜」
ハマったのか、それとも相手を理解したがる女特有の優しさなのか。
とにかく、ウキウキで歩く彼女の姿を眺めながら、俺は昼飯を何にしようかと考えてブラブラと新宿の街を歩いていた。
「何食いたい?」
「なんでもいい」
なんでもいい。と聞いて、本当になんでもいいのだと受け取る男子は、今日日一体どれくらいの数が生息しているのだろう。少し気になるな。
「ラーメンでいいか?」
「えぇ〜、お気に入りの服だからスープついたらヤ」
「じゃあ、ピザとか」
「ピザぁ? 太るじゃん」
「なら、カレー」
「そういう気分じゃな〜い」
ならば、居酒屋に入るから好きなモンを好きなように食べろと叱ると、カナミは「だって、イチャイチャしたかったんだもん」と不貞腐れてしまった。
そういう感じなのか?理解するには、俺の経験が足りていないようだ。
……。
「普通さぁ、未成年のカノジョとご飯食べに来てお酒飲む?」
「俺が恋人に求めるのは気のおけない関係だから」
「そ、そんなこと言ってさ。ズルいのには違いないんだから」
女子高生チョロいわ。
てなことで、俺は適当に頼んだツマミでレモンサワーを飲むことにした。昼間っから酒を飲んでダラダラ過ごせるというのは、俺が想像しうる最上の幸福なのだ。
「お兄ちゃんって、大学でもそんな感じなの?」
「男同士ならバカやるけどな」
「……待って? その言い方だと、女の子ともこうして遊びに来てるって聞こえるんだけど」
「たまーに」
言葉を選ばなくていいというのは、非常にストレスフリーで助かる。出来立ての恋人ってのは、この世界で一番気のおけない存在といっても過言じゃないからな。
だが、カナミはそうじゃない。好き勝手に喧嘩したって、いずれ必ず仲直りするという安心感は、やはり家族ならではの信頼に寄るところがあるんだと思う。
だから、俺はカナミが好きだ。なんでもしてやりたいし、幸せになって欲しいって心から思える。
もちろん、妹としてだけど。
「お兄ちゃんってさぁ、本当に私のこと気付いてなかったんだね。酷くない?」
「義理だっつーならまだしも、実妹のそんな気持ちに気付く方が異常だろ」
「一番近くにいたのに?」
「傍目八目ってヤツだよ。なぁ?」
言うと、カナミはトロとホタテの刺し身を独り占めして白米をバクバクとがっついた。憎たらしい目を向けて、おまけに俺の皿の白身まで攫っていく。
「ねぇ、なんでそんなことするの? お兄ちゃんが刺し身好きなの知ってるよね?」
「ぷふっ! ウザいから私の真似しないでよ!」
仕方なく残っていた焼き鳥で適当に腹を満たすと、店を出て新宿御苑を散歩することになった。ほろ酔いになった頭も、刺すような寒さのせいですぐに治っていく。
それにしても、緑と水辺ってのはどうしてこんなに心を穏やかにするのだろう。もしも俺が金持ちになったら、古風な庭園でも経営したいモノだ。
「……ねぇ」
「なんじゃい」
「手、繋ぎたい」
いちいち確認してくるのは、咄嗟に握れば俺が離れて悲しくなるのを察しているからなのだろか。カナミは、やや怯えたような表情で俺を見上げていた。
「そうか」
ガキの頃、二人で電車に乗って下町の小さな遊園地に遊びに行った時の事を思い出した。あの時は、カナミが離れていかないように俺から手を握ったんだ。
街を歩く大人たちの隙間に、屋台と大きな塔が見えたのを覚えている。そんな中を、ふわふわと飛んでいく風船を見上げて指差したカナミの笑顔は、忘れようにも忘れられないくらい無邪気だった。
「だめ?」
……そうだ。
俺はその時、本当の意味でこいつの兄貴になろうって誓ったんだったな。
「いいよ、迷子になられると困る」
カナミを手を握ると、彼女は思っていたよりも強い力で握り返して俺の方へ一歩だけ近付いた。
なんというか、こいつってマジに俺のことが好きなんだってわかった。生理的嫌悪感と、カナミを女として尊重する俺の心がせめぎ合い、ちょうど五分五分で拮抗している。
だから、やっぱり何もしなかった。俺と同じシャンプーの匂いのハズなのに、やたらと甘く感じた。
「帰ろうぜ。歩き疲れたし、今朝のアニメの続きが見たい」
「あのさぁ、ムードとかあるじゃん? 私、初恋だし初デートなんだけど」
「はぁ? 高校三年生にもなってデートもしたこもなかったのか?」
「お兄ちゃんのことずっと好きだったんだから当たり前でしょ!? バッカじゃないの!?」
周りに外人を含む観光客がわんさかといる中で、カナミは顔を真っ赤にしながら叫んだ。
恥ずかし過ぎる。聞いた人間がみんな、俺が恋人にお兄ちゃん呼びをさせているかなり痛い奴っと思ってくれる事を願おう。
「で、デカい声だすなよ」
「じゃあもうちょっと付き合ってよ!」
「分かったって。あー、ほら。新宿通りに有名なカフェがあるっぽいぞ。そこに行こう。な?」
プリプリと文句を言うカナミは、件のカフェの行列に並んでもまだ怒っていた。
前に並んでいるカップルたちが、何があったのかとニヤニヤしながら俺たちを見ている。俺は、そんな彼らの顔を眺めて、カップルって似た顔同士で付き合うモノなんだなぁと思った。
「ごめんて。ここも奢ってやるし、そろそろ怒り疲れただろ?」
「……もう。私のこと、今は大切にしてよ」
カナミが冷静になったのを見て、俺は小声で一つの疑問を投げかける。
「家族以上に大切にしてっていうんなら、それなりの理由を教えてほしいんだけど」
「なにを?」
「お前、なんでそんなに俺のこと好きになったの?」
「……うぅ」
気がつけば列の最前は俺たちだ。窓の向こう側には、楽しそうにお茶や食事を楽しんでいるカップルたちが見える。
カナミが黙っている間、俺は彼らのテーブルを見て何を食べようかと考えていた。
やがて、店員が俺たちを案内してくれた。ジャジーなBGMが流れる白くてお洒落なカフェ。
どいつもこいつも、スマホでデザートの写真を撮っている。見慣れた光景とはいえ、やはり少し気味が悪い。
「なに食うんだ?」
「お兄ちゃんが決めて」
構わないけど、後で文句言うなよな。
「すいません、俺はアイスコーヒーとチョコプリン。彼女にロイヤルミルクティーとレアチーズタルトを」
「かしこまりました」
お洒落な店員さんが、にこやかにキッチンへ帰っていく。やはり、接客は美人がやってくれるに限るぜ。
「よくわかってんじゃん」
「まぁな」
俺に似たのか、カナミは結構シンプルなモノが好きだったりする。
服もそうだし、雑貨もそうだし、食い物もそうだ。ゴテゴテに装飾された所謂『映え』を求めないあたり、それなりに大人びていると言えなくもないのは好感を持てる。
なんていうと、妹自慢しているようでみっともないな。これ以上はやめとこ。
「……ねぇ、そっきの質問だけど」
「あぁ、答える気になったか」
「うん。えっとね、そういうところだよ」
「なにが?」
「私がお兄ちゃんのこと、好きになった理由。誰よりも見てくれてるし、誰よりも知ってくれてるもん。頼りになるの」
俺には、それが兄妹の域を侵すほどの好意を向ける理由になるとは思えない。
「大抵の兄貴には備わってる機能だろ」
「そんなことないよ」
そして同時に、俺がカナミを知っているほど、カナミは俺のことを知らないんじゃないかと思った。
一緒に暮らしてるのに、俺のいいところしか見てないというのは何とも都合のいい話だが、そうでもなければ兄貴に恋なんてしないだろうし。
帰ったら、目の前でションベンでも漏らして片付けさせようか。そうすれば、否が応でも嫌いになってくれるだろう。
「それに、だらし無かったりお酒で酔っ払ってメソメソしてる時とかもあるけど、ちょっとかわいいって思うし」
「なに?」
「好きじゃないとこ、一個もないよ」
……なんだよ、それ。
「恥ずかしいこと言うなよな」
「お兄ちゃんが言えってゆったんじゃん。健忘症?」
「いきなり口悪くてビビるわ」
「ふふ、お兄ちゃん相手だと何にも気を遣わなくていいのもポイント高いよね。クラスの男子にこんなこと言ったら、普通に引かれるし」
要するに、俺たちが互いに思う感情はまったく同じなのだ。ただ、違いは責任感の有無だけ。他には何もない。
もしも、俺が弟だったなら。あんな家庭で育ったのなら。俺も同じように、姉だったかもしれないカナミに恋をしていたのかもしれない。
そんな事を思った。
「ところでさぁ、この前学校でさぁ」
それからは、ただカナミの話を聞きながらコーヒーを飲んでいた。考えてみれば、彼女がクソ生意気になってからは、こんな普通の会話もしてなかったな。
だからだろう。カナミには、喋りたい事がたくさんあったらしい。楽しそうでなにより、でありますよ。
「そろそろ帰ろうぜ」
「うん。夜ご飯さ、ラーメン作ろうよ。インスタントじゃなくて、麺茹でてスープもちゃんと作る袋のヤツ」
「それ、いいな。煮卵たくさん入れるわ」
「あ、ズルい。私も卵食べたい」
「好きなだけ入れたまえ」
そんなワケで、俺たちはスーパーで買い物をしてから家に帰った。
道中もずっと手を繋いでいたが、思い出と同じように俺がカナミを引っ張っているだけだって思えた。
だから、彼女への意識が変わることは絶対にないと確信して、俺の倫理観がバグを起こしていない事に安心したが。
同時に、カナミを救う方法が分からない自分のバカさ加減に心底ガッカリしていた。
まぁ、何にせよ兄貴失格だな。
× × ×
いわゆるロマンスの神様ってのが本当に存在しているのなら、そいつはホンマモンのアホなんだと思う。
シチュエーションや場の空気には、それ相応のパワーが備わっている事は重々承知している。
だから、恋人たちは出来事の全てを夏の開放感と冬の雪のせいにして恥ずかしさを忘れられるし、実際に俺だって似たような雰囲気に呑まれたこともあって、結果大胆な行動に出てしまうのだ。
「……ねぇ、お兄ちゃん」
しかし、ならば。
「ちょっと待てって、それ以上は本当にマズいから」
酒を飲んで酔っ払って、服を脱いで俺に抱き着くような大胆さをカナミに届けたロマンスの神様は、俺たちの関係がごっこ遊びだと気が付かない無能な存在だと言えるだろう。
神のくせに、とんでもない奴だ。クソッタレ。
「教えて」
……ところで。
これでは俺をちゃんとした兄貴なんだと知ってくれているどこかの誰かたちは、半裸の彼女を膝に乗せて見つめ合っている事実に納得してくれないだろう。
あれだけ、兄妹で恋は出来ないと偉そうに講釈垂れた事に違和感を覚えるだろう。分かってる。
だから、状況説明開始。
カナミに告白されて、既に二ヶ月が経過していた。
それなりにスキンシップが多くなったとは思うが、どうも処女という生き物は性欲があまりないようで。
男的にはやたらと心当たりのある下心込みの関わりでなく、なんというか、猫や犬のように甘えたくて引っ付いてきているようだった。
「だって、そーゆー事よく分かんないんだもん」
なんともシンプルな理由だったが、妙な説得力と、未だに俺にまとわりつく生理的嫌悪感が好奇心を上回ることはなく、俺もその時は「へぇ」と返すのみだった。
「というかさ、普通は男が教えてくれるモンなんじゃないの? カレシいる友達は、みんなカレシの方からだったって言ってたし」
「まぁ、若いうちはそんなもんなんじゃないか? 30歳くらいになれば、また変わってくるんだろうけど」
「なんで30歳の女の事を知ってるの?」
……しまった。そう思ったときには、もう遅かった。
言葉尻というか、揚げ足というか。とにかく、カナミは現代っ子らしく話の弱点をつくのが上手い。というより、会話の本質を掴むのが上手いというべきだろう。
ビールを飲みながらヘラヘラしている黄色いパーカーのおじさんも、こんな感じで討論に勝ち続けてきたんだろうなと思った。
「あの頃は、俺も寂しかったんだよ」
「サイテー。家帰ってくれば、私だっていたのに」
「帰ってきても、お前はいっつもクソ生意気な悪口ばっかり言ってただろ」
「あ、あれは……」
「結構傷付いてたんだよ。むしろ、俺が大人に甘えたくなったのはお前のせいだった」
仕方ないから、俺は本音を話して議論の論点をズラし責任転嫁する事にした。
ぶっちゃけ、誰のせいかと言われれば勝手に俺を信じた両親のせいだと即答するのだが、今回はその片棒を担いだカナミに押し付けることにしたのだ。
失恋を思い出して、ちょっとムカッときたのもあるしな。
「……お兄ちゃんって、そういうとこズルいよね。そもそもさ、言い負かせて理解させる事が女の納得に繋がるワケじゃないんだけど」
「男だって、仕事でもなけりゃ理屈だけで納得する事も少ないよ。大して変わらん」
「分かってんならなんでそんなこと言うワケ?」
「今のお前は、妹じゃなくて恋人だからだ」
すると、カナミは照れ笑いとも不満とも形容し難いなんとも言えない表情で俺をジトッと睨んだ。そして、モジモジと指を捏ねたかと思えばニヤニヤと笑っている。
……バカみたいだ。
つい一ヶ月前までは、なにか一つ言えば根拠も由来もない罵詈雑言を数珠繫ぎにペラペラと喋っていたのに。こういう如何にもラブコメチックな態度を取られたって、思う事もないのが滑稽で仕方ない。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「……今のでね。どうしようもないくらい、お兄ちゃんの事を好きになっちゃったかも」
「あぁ?」
どうしようもないくらいって、なんだ?こいつ、一体何を言ってるんだ?
「お兄ちゃんが、ちゃんと私のことを恋人だって思ってくれてること。死んじゃいそうなくらい嬉しかったの」
「バカげてる、ごっこ遊びの役割ってだけだろ。ママゴトでママ役の子をママって呼ぶのと同じだ」
「……でも、嬉しい」
確か、恋に落ちたジュリエットはロミオの死を忍んで短剣で自分の喉を貫いたんだったか。
今のは、禁断の恋を享受するカナミがおかしくなってしまうのには、もしかして充分な文言だったのだろうか。
女ってのは、どれだけ社会がリベラルになっても恋に生きて恋に死ぬってワケだ。
クスリや殺しだって、女が自分からやる事なんてほとんど無くて。女囚のほとんどには男の影がつきまとうっていうからな。
俺は、あまりにも浅慮な言葉を使った。そうやって後悔したが、その一方で謝る事で悲しむカナミを見たくなかったんだ。
だから、何も考えなかった。俺の行動で彼女に降り積もる不安の作用が、どれだけ深刻なのかも暴かずに。
「……ねぇ、先輩」
「ん?」
「今日の夜は、暇ですか?」
それは、講義の隙間に空いた時間を所属している映画研究サークルの部室で過ごしている時のことだった。
話しかけてきたのは、後輩のユキホだ。一つ年下の二年生、身長は164センチ、体重は知らん。金髪のギャル的な女で、時々妙に達観した大人びた意見を言う人生経験豊富な奴。
「暇じゃない」
「なら、明日は暇ですか?」
「暇じゃない」
「明後日」
「暇じゃない。仮に暇だったとしても、先に要件を言わなきゃ暇とは言わない。そのせいで過去に辛い目にあってるって、お前には前に話しただろ」
こんな見た目だが、ユキホは語学が堪能な頭のいい奴だ。どうやら、海外の映画を字幕で見るのがダルくなって、そのせいで海外の言葉を勉強してついでに大学に入ったらしい。
「あはっ。だから、要件を言わずに誂ってるんじゃないですか。もしかして、あーしがデートに誘うんじゃないかって期待してましたぁ?」
「してない。お前に期待して、あまつさえ好きになったら、色んな事を心配しなきゃならなくてストレスが溜まるって分かりきってる」
「つまんな」
言うと、ユキホは自分の金髪を指先でクルクルと弄ってから深くため息を吐いた。
「……まぁ、実際デートに誘ってるんですけどね。先輩、久しぶりに二人きりで映画見ましょうよ。ナイトショーやってるとこ見つけたんですよ」
「行かない。誘うなら来年度からにしてくれ」
「別に一日くらいいいじゃないですか。なんでですか? 就活があるからですか?」
「そんなところ。俺は、自分が恋愛に夢中になり過ぎる事を知ってる」
「相変わらず、ストレートな断り方をありがとうございます! ふんっ!」
色々とフェイクが混じってはいるが、とりあえず今の俺が恋愛出来ない事は確かだ。
ユキホはいい奴だし、下手をすれば普通に好きになってしまいそうなので断る以外に術はない。
「しかし、お前もめげないよな。俺は年上が好きなんだってば」
「めげないのはお互い様です。その年上たちに何回も捨てられてるから、惨め過ぎてあーしが放っておけなくなっちゃったんじゃないですかぁ」
「余計なお世話だ、バカヤロウ。大体、構ってくれなんて頼んでない」
「恋愛って、頼んでもらってやるモノじゃないですよね? 『好きになってください』じゃなくて、『好きにさせてやる』って決心してやるモノですよね?」
「まったく。そのメンタルの強さには、いつも尊敬させられるよ」
言うと、ユキホは勝ち誇ったような顔で俺を見て、頬杖をつき映画の流れているディスプレイに目を向けた。
「まぁ、先輩にカノジョが出来るワケないですからね。あーしはしつこくやりますよ」
「光栄だ、寂しい将来もその過去をオカズにして生きていけると思ってる」
「クスクス。先輩、やっぱあーしのこと好きですよね?」
俺は、何も言わなかった。さっきの言葉通り、ユキホの事は尊敬しているし親愛も感じているが、恋愛的に好きとは言い難い。
俺の甘えたがりは、きっと心底の深いところにまで根付いているのだ。大人の女が好きだって、それって結局甘やかしいて欲しいって願望に他ならないのだから。
過去は、思った以上に俺を苦しめている。育ち盛りに得られなかった愛情に、永遠に苛まれる未来を想像すると嫌になるくらいだ。
寂しいね、まったく。
「そろそろ、次の講義だ。またね」
「うん。バイバイ、先輩」
言いながら、ユキホは俺のジャケットに映画のチケットを忍び込ませ。
「本当は、一週間後の夜なんです。暇だったら、一緒に行きましょ」
あざとく耳元で呟き、再び席について出ていく俺へヒラヒラと手を降った。
……時間は少し進んで、バイトを終えたその日の夜のこと。
まぁ、何となく分かったとは思うけど。このチケットがカナミの暴走のきっかけだ。
「なにこれ」
TODOリストの為に使っているホワイトボードにマグネットでチケットを貼り付けているところを、ラフな格好で遊びに来たカナミに見つかった。
映画は、少し話題になっている邦画ロマンス。どう贔屓目に考えても、俺が能動的に見に行くワケのないムービーだ。
「後輩に貰った、一緒に見に行こうって」
「……そんなのってなくない?」
違和感のある声を聞いたから、ディスプレイから目を離してカナミを見ると、彼女はとんでもなく悲しそうな顔で静かに泣いていた。
「おいおい」
「都合の悪い時はカノジョ扱いして、そういう時は妹扱いなの? それじゃ、何のために期間決めて付き合ってるのか分かんないじゃん」
「ちょっと、泣くなよ」
ホワイトボードの前で立ち尽くしたままシクシクと涙を流し始めたから、俺は思わず手を取って引き寄せ胸にカナミの頭を抱き締めていた。
「悪かった、別に嫌がらせしようなんて思ってなかったんだ」
「わ、悪いなんて思うくらいなら、最初からやらないでよぉ〜……っ」
貼っつけた時は悪いと思ってなかったから貼っつけていたワケだが、流石に今のカナミにそんな辛辣なことを言う気にはならない。
「言い訳、してもいいか?」
胸に顔を埋めたまま、カナミがコクリと頷く。頭を撫でで、落ち着くように嗜めた。
「これ、ちゃんと断ってるんだよ。後輩って言ったろ? 俺は年下の誘いになんて乗らない」
「なら、なんで持ってるの?」
「講義のせいで返すの忘れてただけだ。信じてくれ」
「年上だったら、行ってたんじゃないの?」
即座に言い返せなくて答えに詰まると、カナミは声を挙げて泣き始めた。
仕方ないだろ。多分、嘘ついたってカナミには一発でバレる。そうやって傷を深くするくらいなら、先に明かしておいた方がいいって思ったんだ。
「……お前、そんなに寂しかったのか?」
「寂しくないワケないじゃん。お父さんもお母さんもいないのに」
別に、今までのことを聞いたワケではなかったのだが。思わぬ形でカナミの本音を知ってしまった。もっと素直になってれば、こんなに拗れず済んだかもしれないのに。
「お兄ちゃんは、私のなの」
お前の『兄貴』、だけどな。
「分かったよ」
言うと、カナミは顔を上げてデスクの上に置いてある俺のグラスを手に取り、自分を落ち着かせるようにゆっくりと飲み干した。
……もちろん、バイト帰りの夜中に、俺がソフトドリンクを飲んでるワケがないのに。
「お前、それ酒だぞ」
「……ふぅん。なんか、別に大したことないね。お兄ちゃん、こんなのでいっつも酔っ払ってたんだ」
言いながら、カナミは俺の部屋に置いてある小型冷蔵庫から缶チューハイを抜き取ってプルタブを開け、ゴクゴクと喉を鳴らし泣いた赤い目を向ける。
「そのくらいにしておいた方がいいと思うけど」
「はぁ? お兄ちゃんだって、嫌な事あったらいっつも寝るまで飲んでんじゃん。ズルい」
その理屈が通用するのは二十歳になってからだと思ったが、落ち込んでいるよりはいつも通り小生意気なくらいがちょうどいいと思い、俺は再びディスプレイに目を向けた。
まぁ、こんな暮らしをしてるんだから、実質大人みたいなモンだろうし。
「……お兄ちゃん」
「ん?」
聞き返すと、カナミは缶を持ったまま俺の膝に乗っかって小さく丸まり始めた。そろそろ限界だと思い、彼女の缶を引ったくると飲み干して空にした。
「しゅき」
今、俺の背筋に走ったのは悪寒か?ゾクリと震えて、思わず真顔になってしまった。
しかし、今まで纏わりついていた不快な感覚とも少し違ったような気がする。例えるなら、ずっと探してた名前を知らない曲の名前を、なんの前触れもなく知った時の快感というか。
……もしかして、俺はこいつを『かわいい』と思ったのか?
まさか。
「……ねぇ、お兄ちゃん」
そして、時間は追いつき現在。
「ちょっと待てって、それ以上は本当にマズいから」
カナミは、静かにニットを脱いでからこっちを向いて、俺の肩に手を置いて見つめて、終いには抱き着いてしまったというワケだ。
説明終わり。
「教えて」
教えてって、もしかしてメイク・ラブ的なあれの事を言っているのか?
ABCでいうところのどれだ?まさか、昨日までよく分からないとか言ってたカナミが、いきなりCだなんてないだろうけど。
という具合に、俺は色々と考えながらカナミの体から目を逸らす。真っ裸ならまだ楽だった。俺は、下着を着けている方が好みなのだ。
……何を言っとるんだ、俺は。
「大学に行った時、初めてで何も分からなかったら、変な男に酷い目に合わされちゃうかも」
「酷い目?」
「やられちゃうって事」
「バカな。カナミなら相手のキンタマ蹴っ飛ばして帰ってくるだろ。大体、お前みたいな見るからに気の強い女にナンパなんて――」
そこまで言ったところで、カナミは俺の首筋にガブリと噛み付いた。普通に痛くて、泣いちゃいそうだ。
「わ、分かったよ! 心配してる! 心配してるから噛むな!」
「ふん!」
鼻息を荒くして、更に強く腕を回してくる。怒ってんのか甘えてんのか分からん。
「いてて。チクショウ、ライフ・アフター・ベスみたいなことしやがって」
「誰がゾンビよ」
「要するに、そういう気はない。プラトニックなのが好きなんだ」
「大人の女に甘えまくってたクセに、何言ってんの?」
禁止カードだ。いくら家族とはいえ、絶対に言っちゃいけない言葉だってあるだろ。
俺は、何だか恥ずかしくって、顔を見られないようにカナミを抱き締めた。顔が冷めるまで、とりあえずこうしておこう。
「……とにかく、無理だ。家族だって関係を抜きにしたってやらない。そこは他の女だって同じ」
「なんで?」
「俺は、箸もペンもずっと同じモノを使ってるから」
「ふふっ、なにそれ」
「妙に愛着が湧いて、手放せなくなるんだよ」
新しいモノ好きの現代っ子には、きっとこの感覚は分からないだろうな。大事に扱うと、それだけずっと大切にしたくなるなんて。
つまり、一途なんだ。俺って本当にバカ。
「あはっ。だから捨てられたんだよ。相手はきっと、みんな新作好きだったんだね」
「ほっとけ」
「でも、私は違うよ。絶対に違う」
「なんで処女のお前がそう言い切れるんだよ」
すると、カナミは体が一つになるんじゃないかってくらい、強く俺を抱きしめる。
しかし、女ってのはどうしてこうも柔らかいのか。例え拳を握ってぶん殴られたって、それすら柔らかいんじゃないかと思った。
「知ってるでしょ? 私の好みは、お兄ちゃんと一緒だって」
息が荒い。酒のせいか、興奮のせいか。耳元で何度も甘吐いて、心臓をバクバクと鼓動させている。伝わってくるくらい、バクバクだ。
「でも、ダメだ。そういうモノに甘えたら、一生まともな恋愛が出来なくなる」
俺は、カナミの頭を撫ででから、自分の着ていたパーカーを肩にかけて温めてやった。暖房が効いてるとはいえ、冬は流石に寒いから。
「……別に、愛してるって思わせてくれるならなんでもいいんだよ」
「なに?」
「エッチじゃなくたって別にいい。私にはそれしか思い付かなかったけど、お兄ちゃんはきっと他の方法を知ってるでしょ?」
そんなに期待されても困る。俺は別に、恋愛が得意ってワケじゃないのに。
こういう無茶振りにも応えたくなってしまうのが、兄貴という生物の最大の特徴なんだろうさ。
「ブラシ、そこにあるだろ?」
「え?」
「髪の毛、梳かしてやるよ。ベッドの上に座るんだ」
……言うと、カナミはパーカーのジッパーを締めて匂いを嗅いでから、大人しくブラシ持つと再び俺の前に座って背中を預けた。
「ズルいね。私が、誰にも触らせないって知ってるクセに」
「お前のこと、よく分かってるからな」
ガキの頃、カナミはいつも俺に髪を梳かしてほしいと願っていたのを思い出した。
確か、そうやって大切にしている愛情表現をする映画の中の父親を見て、その日からカナミは俺に髪を梳かして欲しいと願うようになったのだ。
だから、きっと。カナミにとって、これが最も相手の愛を感じる行為なのだろう。
ディスプレイには、途中で止めていた映画が映し出されている。俺は、カナミの後ろに座るとマウスを動かして映画の続きを流した。
「私ね、別に映画が好きでずっとテレビを眺めてたワケじゃないの。最近は、面白い番組もやってなかったしさ」
「そういえば、俺が帰ってきた時もずっとテレビ見てたよな」
「うん。あぁしてたら、もしかしたらお兄ちゃんがまた髪を梳かしてくれるんじゃないかって」
「なに?」
「あの頃も、いっつもロードショー見ながらだったでしょ? だから」
――ずっと、待ってたよ。
「……カナミ」
心の底から
「どうしたの?」
「父さんと母さんに会いたいか?」
「別に。私、お兄ちゃんがいればいい」
「でも、お兄ちゃんがいなきゃイヤ」
「……そうか」
殴るべきは、俺だったか。
妹を依存させるなんて、とんだ変態ヤローだ。
俺は、自分が彼女に何を求めているのか、カナミの髪を梳かしながらずっと考えていた。
× × ×
そろそろ、約束の三ヶ月が経とうとしていた。俺は四年生となり、カナミは新しい生活が始まる。
日中、一緒にいてほしいというカナミの願いを断って、俺は誰もいないサークルの部室でボーッと時間を過ごしていた。
最近は、俺がカナミに何をして欲しくてあんなに大切にしていたのか、その理由を探すばかり。
家族に理由なんてないだなんて、トートロジーで片付けるワケにはいかない。俺には、理由が必要なのだ。
「あれ、先輩。一人で何してんですかぁ?」
薄暗い中、思いに耽っていると何故かそこにはユキホの姿があった。
「何もしてない」
「じゃあ、なんでここに?」
「何もしないで済むところが、この部室しかないから」
「なるほど、理由ありというワケですね」
ワケワケと、いや、ニヤニヤと笑いながら誂うような表情で俺の前に座ると、ユキホは駅前のスタンドで買ったであろうカップの紅茶を啜った。
「お前こそ、こんなところに何しに来たんだ」
「弟と喧嘩したので、家に居づらくなりました。友達も忙しいみたいですし」
「へぇ。お前、姉貴だったんだ」
「結構分かりやすくないですか? 寂しがり屋の先輩に、ちゃんと構ってあげるところとか」
言われてみれば、そんな気がした。兄姉特有の関わり方というのが、俺たちには確かに存在しているのだ。
「悪かったな。この前の映画」
「別にいいですよ、他の男と行ったので。あーし、普通にモテますし」
「そうか」
「……嘘です。友達と行きました、女の子の」
「なんで一回嘘つくんだよ」
「ちょっとくらい、嫉妬してくれるかなって」
嫉妬も何も、ユキホがモテる事なんて見てりゃ分かることだろうに。
「先輩って、本当に全然あーしのこと見てないんですね」
「そんなことないよ、目の下にほくろがある」
「ふふっ。いや、そういう事じゃなくてですね。あーしが、どんくらい本気でやってるのかとか。そういう、影の努力といいますか」
言うと、彼女は何も言わずにプレイヤーへDVDを差して映画を見始めた。なるほど、このクソつまらない映画ほど今の状況にピッタリなモノはないだろう。
「お前、マジで姉貴なんだな」
「さっきからそう言ってるじゃないですか、バカなんですか?」
「否定はしないけど」
「まぁ、先輩が見てくれる人だって分かってるから、知られてないと余計に悲しくなるんですけどね〜」
言ったあとに、「今のはあざとかったかな?」と悶々考えているであろうユキホの顔がチラと目に入った。甘え下手で、弟妹と似たような事をすると恥ずかしくなるのもよく分かる。
よく分かるから、俺は別の話を振ることにした。
「なんで弟と喧嘩したの?」
「いや、別に大した理由じゃないというか。私が我慢すればよかったっていうか」
「話したくないの?」
「……そうじゃないですけど」
どんだけ自分が悪くないって分かってても、なんか話したくないんだよな。分かるわ。
「あーしの弟、サクヤって言うんですけど」
しかし、つまらない映画にイラついたのか、俺を先輩として認めているからなのか、ユキホはちょっとだけ話す気になったらしい。
「あいつ、超優秀なんですよ。ほとんど無勉でマーチ受かっちゃうみたいな。あーしなんて、ここ来るのにもヒーヒー言いながら勉強したのに」
「へぇ、そうなのか」
何となく、身に覚えのある話だ。
「そんだけ優秀だと、やっぱ姉として恥ずかしいと言いますか。比べられる度に、悲しくなるっていうか。なんで、不出来のあーしが姉なんだろって思う事も多いんですよ」
「そうだな」
「でも、やっぱ守ってあげたくなるのが弟なんですよ。あーしより大きくて強くても、守ってあげたいって思っちゃうんですよ」
なんだ、惚気けたかっただけか。分かる分かる。分かるマン。
「それなのに、最近料理とか掃除とかやり始めて。あーしのやる事奪うんですよ」
「……ん?」
「酷くないですか? それで、『なんでお姉ちゃんの仕事奪うの?』ってゆったら」
「うん」
「なんか味が薄いから俺が作るって! なら言えばよくない!? それくらい普通に調整するんですけど! みたいな!」
……。
「なるほどなぁ」
それから、俺は湯水の如く吹き出す惚気け話、もとい愚痴を頬杖を付きながら聞いていた。
「ムキーっ!」
ユキホは自分なりに、姉貴なりに、精一杯頑張って生きてきたのだろう。
俺が嘗て、というか今でもだけど。自分よりも落ち着いていて優しい異性に甘えたくなった時と、今の彼女は凄く似ている。
ならば、きっとサクヤ君は、ユキホの事をとても愛しているんだと思って微笑ましかった。
「なんで笑ってるんですか!?」
「頑張ってんだなって。俺も妹いるから、よく分かる」
「知ってますよ!」
何故知っているのかはよく分からなかったが、やがて俺への不満に移っていった愚痴を聞いているうちに、いつの間にか俺はカナミに何をして欲しかったのかが分かっていた。
なんだ。客観的に見ると、当たり前の事だったんだな。
「ありがとな、ユキホ」
「……なんですか? 悟ったような顔して」
「あぁ、ここに来てよかったよ。助かった」
「ふん。まぁ、あーしも愚痴ってスッキリしたんでお互い様ですけど」
……その言葉の全部が本当じゃないってことは、直感的に分かった。きっと、ユキホは俺に伝えたかったセリフを、まだ言えないでいる。
「ねぇ、先輩」
なぜなら、俺が心の中で『言うな』と唱えた事を、彼女は気付いているだろうから。
「なんだ?」
「……全部終わったら、二人きりで映画見に行こうね」
「そうだな」
……。
家に戻ってくると、カナミは俺の部屋で不貞腐れたように、俺がカナミに告白された日に見ていたアニメを眺めていた。
「これフツーにエッチしてるんですけど」
「そうだな」
「人がグチャグチャになって死んでくんですけど」
「海外では規制も緩いしな」
「見るの止まらないんですけど」
「間違いなくここ10年のアニメの中で一番面白いからな」
あまりアニメ作品に触れていないカナミには、かなり刺激が強いとは思ったが、これを機に俺の好きなSF作品を布教するために見るのを許すことにした。
同じ趣味の人間は、何人いても嬉しいしな。
「どこ行ってたの?」
「部室、考え事してた」
「私のこと?」
「あぁ、カナミのこと」
明らかに、彼女の顔色が暗くなった。もう、寂しがるのを隠すのは止めたらしい。
物語は佳境だ。俺はベッドに座って、カナミと一緒に最後までアニメを見た。恵まれない主人公が、救われない最期を迎える。俺は、こういう結末があってもいいって再び思って余韻に浸った。
そして、残り香も途切れた頃。俺は、ずっと黙っていたカナミに声をかけた。
「聞いて欲しいことがある」
「やだ」
「カナミ」
「やだ」
椅子から立ち上がると、無理やり抱き着いて俺を押し倒そうとしたのだろう。しかし、俺はカナミの体をしっかりと受け止めると、逆に抱き締めて俺から逃げられないようにした。
「聞くんだ」
「やだ!」
「俺は、お前に甘えて欲しかったんだ」
「……へ?」
どうやら、彼女の思い描いていた言葉とは違ったらしい。こいつ、一番最初に終わらせ方を約束したこと、忘れてるんじゃないだろうな。
俺からなんて、立ち直れなくなってしまうじゃないか。
「数年間、お前がクソ生意気になって構ってくれなかった事、凄く寂しかったんだよ」
「きゅ、急になにを……」
「家、出ようと思ってさ。お前が俺に嫌われたとかワケ分かんねぇ勘違いしないように、先に言っとこうと思って」
もしも、俺たちの関係に取り返しのつかない状況があるのだとすれば、それは今ではなくカナミが間違いに気が付けなかった未来だ。
俺たちは、あるべき姿に戻らなければならない。そのための儀式へ導いてやるのが、俺が優秀なカナミにやってやれる最後の兄貴としての仕事なのだ。
「なんで? 私のこと、また一人にするの?」
「いや、父さんと母さんを家に帰ってこさせる事にした。ネグレクトしてねぇで帰ってこいって電話で叱りつけたら、二人してビクビク震えてたよ」
「お、お兄ちゃんって怒ることあったんだ」
多分、人生で初めてだったけどな。
「俺とお前がおかしくなったのは、間違いなくあの二人のせいだからな。本気で怒鳴った」
「……お母さん、かわいそう」
「俺とお前の方が可哀想だろ。まぁ、カナミがどうにもならなくなってから知るよりマシさ」
「私のこと言ったの!?」
「寂しがってるって伝えといた、父さんなんて泣いてたぞ」
すると、カナミはホッと息をついてニットの裾を弱く握る。カナミが泣き虫なのは、どうやら父さんに似たらしいと知って複雑な気持ちになったのは内緒だ。
「だから、もう寂しくなくなるぞ。よかったな、カナミ」
「なにそれ、そんな綺麗事で無理やり終わらせるつもり?」
「もっとドロドロにしてもいいけど、だって俺はお前のこと女だと思えねぇもん」
「……えぇ」
「心からそう言えるが、俺はお前が弟だったとしても同じように愛したし尽くしたよ」
すると、カナミは俯いて俺の体にしがみついた。
「お前のことはかわいいと思うし、尊敬もしてるし、時には萌える時もある」
「うん」
「でも、それはお前が妹だからだ。俺の妹だから、何だって好意的に捉えてやれた。全部引っくるめて許せてやれたのさ」
明らかに、何かを考えた。もう、俺たちが何者なのか知らないフリは出来ない。
「分かるか? 俺は、妹のカナミが好きなんだ。女じゃなくて、妹のカナミをこの世界で一番愛している」
「……うん」
「ならば、お前は。俺をお兄ちゃんと呼ぶお前は、俺を男として好きだった事が一瞬でもあったか?」
……カナミは俺が見上げる。泣いて、涙でキラキラと光る瞳を向けて、そして弱く微笑むと。
「うぅん、一回もない。だって、私はずっとお兄ちゃんが好きなんだもん」
ならば、もういいだろう。ようやく、恋愛を受け入れた妹が、俺へ告げるべき言葉は決まり切っている。
「それでもって言うならいいよ。俺と、一緒にくるか?」
「……ごめんなさい。私、
そして、カナミは最後に一度だけ抱き着き、声を挙げて泣いた。
× × ×
一人暮らしを始めたお兄ちゃんが、とっととカノジョを作ったことには心底頭にきたけど、冷静に考えてみれば私を突き放すためなんだって気が付いて何も言えなかった。
今となっては、私が恋をしていたのはあいつなのかお兄ちゃんなのか、それもよく分からない。
けれど、もしも同じクラスで出会っていたとしたら、あんな陰キャを好きになったとも思えないのだ。
だから、恋人を諦められた。お兄ちゃんとして好きでいる分には、別にカノジョがいようがいまいが関係ないし。
世界で一番愛してるとまで言ったのだから、これから先もことあるごとに尽くさせてやろうって感じだ。
……ごめん、やっぱ嘘。
「今日はカノジョいるから遊びに来んなよ」
「うん」
お兄ちゃんにカノジョがいるって思い知らされるたびに、死ぬほど心が痛くなる。こうして、毎日毎日電話して、一日でも声を聞かない日があれば離れていくんじゃないかって思ってしまう。
自分が普通じゃないのは分かってるし、お兄ちゃんが正しいことは分かってるけど。それでも、当てつけのようなお兄ちゃんの対応で、私は毎日みっともなく泣いちゃっているのでした。
「……お疲れさまです」
「おつかれ、カナミちゃん」
バイト先のファミレスに行くと、同じ大学に通っているサクヤ君がニコニコしながら挨拶をしてくれた。
この子、同じ歳のハズなのに何だか子犬みたいに可愛らしいって思う時がある。
多分、弟だ。だって、私と凄く似てるもん。
「……ねぇ、カナミちゃん」
「なに?」
「今日の夜、暇?」
しかし、この子も本当にめげない。私は何度も断っているのに、こうしていつも予定を聞いてくるのだから。
「暇じゃないよ」
「じゃあ、明日は?」
「暇じゃない」
「明後日」
「……あのね。私、今は失恋中で男の子と遊びたくないの。だから、もし予定が何もなくても暇だって言わないよ」
「ふふ。だから、オレが元気付けてあげようと思ってるんじゃん。ダメ?」
分かってるのに言ってくるというのは、一体どういう了見なのだろう。お兄ちゃんが女の子に言い寄られたら、その時は何ていうのだろう。
そんな事を考えて、私は深くため息を吐いた。
「なら、一回だけだよ。一回だけ、元気付けられてあげる」
押しに弱いのは、きっとお兄ちゃん譲りだ。本当に全部、お兄ちゃんのせい。
「そういってくれると思ってたよ。カナミちゃん、やっぱ優しいね」
あまりにも自然な甘え方に、私は嫉妬すら覚えていた。もしも、私が生意気にならずこうして甘えられていたのなら、失恋なんてしなくて済んだのに。
そう考えると、何だか凄く悔しくて。
だから。
「まったく、仕方ないんだから」
少しだけ、私も大人になってみることにした。
【短編】妹に告白されたお兄ちゃんがしっかりと兄貴だったパターン 夏目くちびる @kuchiviru
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