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第31話 崇神天皇の宗教改革への応援コメント
欠史八代に関しては長くなるので下記のURLで取り上げたことがあり、詳細はそちらをご覧下さればと思いますが、安寧から懿徳を挟み、孝昭、孝安の三代に磯城県主葉江の娘を後宮に入れたという杜撰な記述からすると、この部分は創作かなと思わざるを得ませんが、孝元天皇即位前紀以外は「一書」による記述であり、磯城県主との婚姻を正伝として扱っていないので、これらは後世に付け加えられたものが確実であるとしても、この記述をもって婚姻関係にあったとされる天皇の実在まで否定の材料にするのは無理があるのかなと思いますし、上田正昭、黛弘道の両氏によれば欠史八代の中にはスキトモ(懿徳天皇)・フトニ(孝霊天皇)のような実名と思われる名称がある事、行燈山古墳よりも以前に箸墓古墳、西殿塚古墳、外山茶臼山古墳、メスリ山古墳と言った王墓が造営されていることから、欠史八代すべての実在は認められなくても、2~3人程度は実在の可能性はあるのかも知れませんね。
・綏靖天皇が何故高志国の王を名乗っているのか? 推測しました(ついでに欠史八代について)
https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16817330650980905873
崇神天皇紀の祟り神に関する記述は先程頂いたコメントへのお返事を参考にして下さればと思います。
狭穂毘売と狭穂毘古に関しては下記のURLで取り上げていますが、この説話は日向神話のコノハナサクヤヒメの場合と共通しており、コノハナサクヤヒメがホホデミを火中で生んだもの、サホヒメが燃える稲城の中でホムチワケを生んだのも、ともに穀神の誕生を意味し、穀神を焼く火祭の習俗を背景にしていると高橋正秀氏は論じており、サボヒコの反乱の物語の基礎にある観念は、女は夫よりも兄により親密であり、かつ兄が行わんとする企ては、妹の助力があってはじめて成功するという考えであり、これは、今日、奄美・沖縄諸島において明瞭な、姉妹の兄弟に対する霊的支配を認めるオナリ神信仰が古代日本にもあったことを示唆しているそうです。
ヤマト王権初期の反乱伝承はヒメヒコ制で語られることが多く、これらの伝承の史実性が怪しまれるとしても、男系王権が各地で点在した卑弥呼の如き女首長の勢力を飲み込んでいった事実の反映なのかなと思います。
・大和王権初期の争乱③ 兄妹愛の悲話。沙本毘古王の乱
https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16817330655641004354
作者からの返信
返信が遅くなりすみません。麗玲様のエッセイを読んでいたら、つい後回しになってしまいました。
何度も繰り返し述べていることですが、神道の概念に「祟り神」があることに興味を持っています。まだまだこれからですが、柳田國男、折口信夫、宮本常一といった民俗学の大家の書籍を読み始めています。
狭穂毘売と狭穂毘古と、日向神話のコノハナサクヤヒメの関連は考えたことがありませんでした。僕なりには、聖徳太子の母である穴穂部間人皇女の特徴を掴む為に、狭穂毘売を参考にしようと考えていました。
穴穂部間人皇女は、弟である穴穂部皇子と同じ穴穂を名前に関しています。これは、名代・子代の制度から同じ宮で生活していたのかな? と勝手に想像しています。また、穴穂部間人皇女は巫女だったとの考察もあり、色々と気になる存在です。
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第39話 前方後円墳ー再考への応援コメント
奇しくも志村氏の該当の本は確かブックオフで購入したはずですが、一回も読まずに行方不明になっております。(滝)
考え方としては合理的だと思いますが、考古学者の大家であられる小林行雄氏以来、むしろ古墳と同範鏡がセットで述べられている説が一般的であると思います。
当方も津田史観や通説を打破する為にエッセイを作成したのですが、通説を批判するにしても、先ずは津田史観的な通説(或いは有力な説)、歴史・考古学者の各種説を取り扱うことから始め、(出来れば孫引きではなく、なるべく一次文献から確認する)客観的な論拠を打ち立てることを目標にしています。
*追記
出雲地方に前方後円墳が出現するのは大寺1号墳からはじまり、古墳時代前期後半(4世紀後半)から中期はじめ(5世紀はじめ頃)にかけての頃からです。又、後世で言う出雲の国も一つの勢力であったわけではなく、大雑把にいえば意宇郡・島根郡を中心とする東部と神門郡・出雲郡を中心とする西部に別れており、六世紀頃から現れる横穴式墳墓の様相を見ると東部は九州の影響がみられ、西部は独自の発展をしています。(『風土記の考古学 出雲風土記の巻』山本清・編)
よく言われているのが出雲臣と神門臣の対立であり、『日本書紀』巻五崇神天皇六〇年(癸未前三八)七月 己酉の記事や、『出雲国風土記』(出雲郡健部郷)の記事はこの両者の対立の事実の反映(但し時代的には後)であり、健部郷の勢力が大和王権と結んで出雲郡の土着勢力を制圧した国造家の勢力の拠点として抑えられたことを示すとも言われています。(前掲書など)
・出雲の国譲りは史実か?(崇神天皇紀と出雲国風土記の該当の原文参照)
https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16817330647822297287
つまり、大国主の国譲りの神話は後世的なものであり、これらの記事が神話を遡る古い内容であり、これらの説話が元の話に近いのではないかと思います。
作者からの返信
コメントが遅くなりすみません。勉強不足もあり少し頭の中が混乱しています。
国譲りの話は有名ですが、概要しか知りませんでした。「出雲の国譲りは史実か?」を読ませていただきましたが、古事記と日本書紀とでは記述に違いがあり、フツヌシとタケミカヅチの考察など考えさせるものばかりでした。
また神代の話である国譲りと崇神・垂仁天皇を比較する視点はとても興味深いのですが、これまた情報量が多すぎて理解が追い付きません。バラバラのジグソーパズルのピースを、ただ眺めているような感覚です。全体の絵が見えない。
勉強させていただきます。ありがとうございました。
編集済
第30話 神武東征――なぜ飛鳥だったのかへの応援コメント
何回も行った事があるとは羨ましいですね~。お手数でなければ近況ノートで撮影した風景をUPして下さればと図々しいことを考えています。(マテ)
神武東征や神武天皇の実在性に関しては諸説あって中々結論づけられない問題でもありますが、地理に詳しい地元の方の考え方は参考になります。
古くは神武東征を完全否定する津田左右吉氏(『古事記及び日本書紀の新研究』)の考え方に対し、和辻哲郎氏(『新稿日本古代文化』)のように鏡をはじめとする古墳の副葬品の組み合わせが、すでに北部九州で成立していることを根拠に、後の大和を中心とする国家をつくる勢力が西方からやって来たという記憶が、この説話を産み出したであろうとする仮説を提起し、史実性を認める見解などありますが、天皇家発祥の地を南九州とする説話と別文化域の北九州からの流れが自分の中ではどうしても結びつかず、最近になって西郷信綱氏『古事記研究』(未来社)を読んでようやく、この問題は歴史学や考古学だけでは理解出来ないということを知りましたが。(宜しければ以下を参照にして下さればと思います)
https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16817330657747570713
それはとにかく、弥生時代の人口が60万人とすると、魏志倭人伝の七万戸とありますが、橋本増吉氏(『東洋史上より観たる日本上古史研究 第1 (邪馬台国論考)』)によれば、大化の当時に一戸約六人だとすると、七万戸で四十二万人になります。他にも投馬国五万戸、奴国二万戸、他国が一万ないし数千戸とありますが、一戸の人数がもう少しすくないとしても、如何に魏志の記事がアテにならないのかということになりますね……。黛弘道氏の『古代学入門』(筑摩書房)によれば大和という地名は城下郡大和郷(これは黛氏の認識違いか参考文献の誤植で、『大日本地名辞書(上巻)』で確認したところ、正確には山辺郡大和郷)という、それほど広くない地域の名前から来たものであり、律令制における大和国が成立する以前、六、七世紀には磯城郡、十市郡を主とする地域であったと推定なさっていますが、魏志で記された様な国々の戸数がこの狭い地域にあったとは思えませんしね。
作者からの返信
素人の僕からすると、神武東征を素直に信じていたのですが、津田史観は全く違うのですね。これは、現代において歴史史観の主流なのでしょうか?
完全否定の立場が真だとすると、僕は拠り所を失ってしまいそうです。歴史を論じるというのは、非常に難しい。
今後の資料として、写真はいっぱい撮っています。その中から映像的に良く撮れたものはインスタ等にアップしています。明日香村の甘樫丘の上からは、奈良盆地が一望できました。推古天皇はこの丘の上から、政治や経済の展望を思慮されたかもしれません。
幾つかの写真をアップしておきます。
m(_ _)m
編集済
第21話 蘇我馬子考への応援コメント
蘇我氏の馬匹文化については平林章仁氏の『蘇我氏の研究』(雄山閣)やその簡略バージョンで新たな知見も加えている『蘇我氏と馬養集団の謎』(祥伝社新書)でもご指摘なさっているので、関連性は深そうですね。
稲目の名前についてまで疑問に思った事は無かったので、『日本書紀』巻十八宣化天皇元年(丙辰五三六)五月辛丑朔の出来事と絡めて考えるのは自分には無かった視点で、成程と気付かされることがありました。松岡静雄氏の『日本古語大辞典 [正] (語誌篇) 増補版』によれば、イナメは稲ムラの意であろうとのことで、これが正しい解釈であるのか分かりませんが、元興寺塔露盤銘の「巷宜、名伊那米大臣」の「巷宜」表記は「蘇我」の古い表記と言われているので、「伊那米」も「稲目」以前の表記の可能性もありますが、いずれにせよ米や稲と関連した名である事は間違いなさそうですね。仮に津田史観的な思考で突き詰めると、宣化天皇元年の記事が漢籍による潤色であることや、稲目という名がこの話にあわせた説話的な名である為、創作された人物とも解釈されそうなものですが、元興寺塔露盤銘の古い時代の表記が存在することから、流石にそれは無さそうですね。
蘇我氏が渡来系であるという門脇禎二氏の説はこれについても平林章仁氏の前述の書で批判されていますね。(詳細は下記URLの当方エッセイをご覧ください)門脇氏は百済の木羅斤資の子である木満致を蘇我満智と名が同じであることから、蘇我満智を応神天皇紀二十五年条の木満致を干支三運(一八〇年)ずらして『三国史記』百済本記の蓋鹵王二十一年条の木劦満致にあてはめ、蘇我氏渡来人説を主張しましたが、一般的に神功・応神紀を干支二運(一二〇年)ずらして朝鮮文献と年紀が一致することから、この辺りから史実であるというのが常識ですが、干支三運ずらすとなると、仮に蘇我満智が門脇説で正しいとした場合、他の出来事まで六十年ズレるので、それ以前の近肖子王の死亡記事やら七支刀やら史実性を認められた出来事まで正しくないということになりかねず、この辺りの事情まで門脇氏が考慮していたのですかね……。
https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16816700429382069641
作者からの返信
コメントをありがとうございます。
古代の歴史的解釈については、限られた文献を元にして多くの学者が様々な見解を述べられています。僕も色々と文献を集めながら読み進めているのですが、読めば読むほど分からない、というのが正直なところです。
また、記憶に落とし込む為にアウトプットに努めてはいるのですが、案外と直ぐに忘れてしまいます。飛鳥時代の変化を大きなうねりを俯瞰してみたいのですが、これでは俯瞰どころの騒ぎではありません。
そうした意味では、麗玲様の――『古事記』『日本書紀』から学ぶ日本古代史学習エッセイ――は、飛鳥時代を文献を交えながら丁寧に紹介されているので、とても分かりやすい。とても参考になります。
ありがとうございます。
編集済
第2話 聖徳太子は存在したのか?への応援コメント
聖徳太子論に関しましては研究史的に具体的な論者或いは著書を上げ、時代を追った方が分かりやすいかと思います。
流れを追って行くと
➀久米邦武氏がキリストが厩で生まれたという『新約聖書』ルカ伝を引き、太子の伝に付会してあるというのも決して牽強の説ではないとし、厩誕生伝承を事実ではないとした。(『上宮太子実録』)
➁津田左右吉氏が憲法17条に国司と国造を並記したことから後世の造作とした(『日本上代史研究』)
③大山誠一氏が道慈らが創造した人物像であるといった内容の批判を行った。(『聖徳太子と日本人』など)
字数の制約もありそうなので、➀➁の否定論については当方が以前にエッセイに書いた内容を参考にして下さればと思いますが
https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16816927859199963202
https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16816927859224714739
大山氏に関しては、この説が流行っていた頃には売名行為と言われるなど激しく批判されたものですが、特に田中嗣人氏が「社会的地位も築かれた研究者がこのような未成熟な成果を世に問われること自体、社会的な悪影響を及ぼしかねない」と辛辣に批判されたようです。
大山説に関しては平林章仁氏の『蘇我氏の研究』(雄山閣)で完全論破されているのでそちらをご覧下さればと思いますが、「上宮」を「宮殿の場合、北が上のはずで、南の建物が何故『上殿』と称されたのか理解できない」という大山氏の主張を見る限り、中部大がこの人に何故名誉教授の地位を与えてしまったのか理解に苦しみます。(古地図を見れば、大和国の葛下郡は北に、葛上郡は南に位置する様に何も上であるから北とは限らないのは一目瞭然なのですけどね)
作者からの返信
麗玲さま、丁寧なコメントをありがとうございます。また、返信が遅くなりすみません。なかなか読まれることのないので、確認を怠っていました。
事例をあげられ、とても分かりやすい内容です。これらの文献を俯瞰できる知識量に驚きました。
現在進行形で勉強はしているのですが、勉強すればするほど、底なしのように学ばなければならない世界が広がっていきます。勉強した内容を、出来るかぎりアウトプットしていくことで、自分の身にしようとしていますがまだまだです。
麗玲さまのサイトには関心があり、時々お邪魔していました。これからも宜しくお願いします。
編集済
第66話 捕鳥部万への応援コメント
>捕鳥部万の叫びになります。天皇を護る盾として働いていたはずなのに、なぜかその天皇から追われる存在になってしまった。
二・二六事件の際、側近の1人鈴木貫太郎侍従長が殺された事により、皇室重視のはずの皇統派が昭和天皇の逆鱗に触れたのと似た様なものかと個人的には思います。
萬一人をみれば確かに理不尽な目に遭った様に見えますが、過去の流れからすると、主人の物部守屋が好き勝手し(とは言っても職掌的な自制もあり、蘇我氏の様に皇室にまで手を掛けるということは無かったですが)、敏達天皇の寵臣であり、推古天皇や蘇我馬子とも良好の仲であったと思われる三輪君逆まで殺したりしたからかと。(個人的には丁未の変で物部氏に対し、大伴氏をはじめとする諸豪族がそっぽを向き皆蘇我氏に味方した理由がこの三輪君逆殺害が大きかったのかと思います。)
昭和天皇に「朕自ら近衛騎士団を率いて平定する」とまで言われてしまった二・二六事件で散っていった青年将校にせよ、天皇の御楯を自認していた捕鳥部萬にしても、ある一面からみてその人にとって「正義」であっても、周りから見れば「独善」「偽善」あるいは「悪」であったり見方が異なり、一人一人の感じ方が違うのは当然のことでもあるのかなと思ったりします。
なお、万の話自体は創作とも言われています。格闘技の経験もあるので分かるのですが、どんなに強くても一人で数百人と渡り合うなんて技術が発達した現代でも絶対無理です(極真空手で百人組手なんて荒行もありますが、百人相手と言っても一人ずつ相手ですし、顔面や金的を打てないなど、ちゃんとルールもあるので)
寧ろ通説では奈良時代以降と言われている御霊信仰の萌芽的な意味合いをこの話の頃まで遡ることを意味するのではないかと思います。
以下、三輪君逆について
https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16816700428668567453
以下、捕鳥部萬について
https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16816700428868875663
*追記
三輪山の祭祀に関してなら三輪(大神)氏の研究が必須なので、不躾ながら、梅原猛あたりの歴史学からすれば素人と変わらない人の本(氏に関しては仏教学者の石井公成氏が手厳しく批判されていましたが)を読むよりは、きちんとした歴史学の専門家の本を読んだ方が良いかと思います。
以前もご紹介したことがあるかも知れませんが、鈴木正信氏の『日本古代氏族研究叢書4 大神氏の研究』(雄山閣)が三輪山の信仰についても触れられています。
本書では、考古学的に明らかになったこととして、崇神天皇紀の内容などが実態からかけ離れていることがよくわかりますし、今は亡き王朝交代説に絡めて論じられていた事など、研究史的にも最も参考になります。
https://www.yuzankaku.co.jp/products/detail.php?product_id=8190
作者からの返信
お久しぶりです。萬にしても三輪にしても、興味深いキャラクターです。
三輪君逆については、まだまだ勉強が必要になります。三輪山は出雲と関係が深い大神神社がありますが、この三輪山と三輪君逆は関係していると考えていいのでしょうか。というか、大和王権と出雲の関係性にとても興味があります。
世間には多くの考察があるので注意が必要ですが、飛鳥時代を描くのであれば避けては通れない。
コメントを頂きありがとうございました。