応援コメント

「第30話 神武東征――なぜ飛鳥だったのか」への応援コメント


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     何回も行った事があるとは羨ましいですね~。お手数でなければ近況ノートで撮影した風景をUPして下さればと図々しいことを考えています。(マテ)

     神武東征や神武天皇の実在性に関しては諸説あって中々結論づけられない問題でもありますが、地理に詳しい地元の方の考え方は参考になります。

     古くは神武東征を完全否定する津田左右吉氏(『古事記及び日本書紀の新研究』)の考え方に対し、和辻哲郎氏(『新稿日本古代文化』)のように鏡をはじめとする古墳の副葬品の組み合わせが、すでに北部九州で成立していることを根拠に、後の大和を中心とする国家をつくる勢力が西方からやって来たという記憶が、この説話を産み出したであろうとする仮説を提起し、史実性を認める見解などありますが、天皇家発祥の地を南九州とする説話と別文化域の北九州からの流れが自分の中ではどうしても結びつかず、最近になって西郷信綱氏『古事記研究』(未来社)を読んでようやく、この問題は歴史学や考古学だけでは理解出来ないということを知りましたが。(宜しければ以下を参照にして下さればと思います)

    https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16817330657747570713

     それはとにかく、弥生時代の人口が60万人とすると、魏志倭人伝の七万戸とありますが、橋本増吉氏(『東洋史上より観たる日本上古史研究 第1 (邪馬台国論考)』)によれば、大化の当時に一戸約六人だとすると、七万戸で四十二万人になります。他にも投馬国五万戸、奴国二万戸、他国が一万ないし数千戸とありますが、一戸の人数がもう少しすくないとしても、如何に魏志の記事がアテにならないのかということになりますね……。黛弘道氏の『古代学入門』(筑摩書房)によれば大和という地名は城下郡大和郷(これは黛氏の認識違いか参考文献の誤植で、『大日本地名辞書(上巻)』で確認したところ、正確には山辺郡大和郷)という、それほど広くない地域の名前から来たものであり、律令制における大和国が成立する以前、六、七世紀には磯城郡、十市郡を主とする地域であったと推定なさっていますが、魏志で記された様な国々の戸数がこの狭い地域にあったとは思えませんしね。

    作者からの返信

    素人の僕からすると、神武東征を素直に信じていたのですが、津田史観は全く違うのですね。これは、現代において歴史史観の主流なのでしょうか?

    完全否定の立場が真だとすると、僕は拠り所を失ってしまいそうです。歴史を論じるというのは、非常に難しい。

    今後の資料として、写真はいっぱい撮っています。その中から映像的に良く撮れたものはインスタ等にアップしています。明日香村の甘樫丘の上からは、奈良盆地が一望できました。推古天皇はこの丘の上から、政治や経済の展望を思慮されたかもしれません。

    幾つかの写真をアップしておきます。
    m(_ _)m