第30話 神武東征――なぜ飛鳥だったのか

 今年の夏は暑かった。それに雨が極端に少なかった。2023年11月22日、琵琶湖の水位が極端に低下していることをメディアがニュースに取り上げました。水位低下マイナス61cm。これ以上の雨不足が続けば、取水制限が行われるかもしれないとのこと。そうなれば、京阪神で生活する僕たちは、途端に生活に困ることになります。この異常気象は、野菜や果物の生育にも影響しました。トマトや白菜の販売価格、とても高くなかったですか。僕の専門は果実の卸売りですが、今年は葡萄や柿がとても高かった。これから始まる林檎や本早生のみかんも高くなります。高いと言えば、電気やガス、それにガソリンも高い。小麦粉や卵も高くなっています。そうした物価高対策として、今年の大阪府は子育て世代に対する食糧支援がありました。具体的には、お米クーポン券の配布です。


 これまで僕は、お米の美味しさについてあまり関心がありませんでした。普通に美味しいし、マズイと思ったこともありません。美味しいお米といえばコシヒカリだろう……くらいな知識しかありません。ところが、お米クーポンと具体的に対象が絞られたので意識するようになりました。嫁さんと一緒に売り場に行くと、様々な種類のお米が販売されています。安い価格のものはほとんどがブレンド米。でも、僕としては単一米が食べたい。コシヒカリや秋田こまちの美味しさに、どれだけの違いがあるのかを感じたかったから。ただ、ブレンド米に比べると割高です。嫁さんが渋るのを他所に、コシヒカリや秋田こまちばっかりを、お米をクーポンで購入してきました。


 ――うーん。どれも美味い。


 食べ比べたら味の違いに気づくかもしれませんが、僕の舌では分かりません。そのお米クーポンも無くなってしまいました。配布、ありがとうございます。美味しく頂きました。ところで、美味しい米の生産地って、どこをイメージされますか? 僕の感覚で申し訳ないのですが、一番に新潟県が浮かびあがります。その次に秋田県。どちらも東北になります。ここで日本における、米の生産高のトップ5を見てみましょう。


 ①新潟県 ②北海道 ③秋田県 ④山形県 ⑤宮城県


 見事なまでに東北と北海道で占められています。米の生産地として東北から北は最適地ということでしょうか。いえいえ違います。イネ科の植物は弥生時代に、アジアの熱帯地域から日本に伝播してきました。本来は寒さに弱いはずです。調べてはいませんが、そこは熱いドラマに裏付けられた技術革新があったはずです。


 ――なぜ米の生産地が北に寄っているのか?


 僕の勝手な推測で申し訳ないのですが、米の生産が北の寒い地域に最適化されたわけではなく、減反政策等の影響で日本がコメを作らなくなったから、現在では東北以北に生産が集中しているのでしょう。僕は大阪北部にある高槻市で生まれたのですが、当時は辺りにまだ田んぼが沢山ありました。しかし、現在では家やビル、マンションしかありません。グーグルアースで空から大阪平野を眺めてみると、見事なまでに建造物ばっかり。びっしりと敷き詰められています。


 現在の日本の人口は、1億2000万人です。これを弥生時代まで遡ると、なんと60万人しかしませんでした。僕が住んでいた高槻市の人口は35万人なので、日本全国で高槻市の2倍くらいしか人が住んでいなかったことになります。古墳時代になり飛鳥時代に推移すると、人口が600万人に膨れ上がりました。弥生時代から比べると10倍の人口増です。その後、鎌倉幕府になり戦国時代に移っても人口はあまり変わりません。当時の技術水準から考えると、この600万人という人口は天井だったと考えられます。


 この人口増加をもう少し詳しく見ていくと、東北の人口は変動がありません。四国・九州では10倍に増加し、近畿においては20倍に膨れ上がりました。古事記によれば、神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこ)が高千穂の国から東征して、奈良盆地の南東に畝傍橿原宮(うねびかしはらのみや)を築き神武天皇として即位します。その後、奈良、大阪、それから京都に都を築いていったので、近畿におけるこの爆発的な人口増は理解できます。ただ、一つだけ疑問がありました。なぜ、最初の拠点として奈良の飛鳥の地を選んだのかということを……。


 50ccのスーパーカブに乗って、これまでに何度も飛鳥の地に行きました。とても良いところです。日本の原始風景が残されています。コスモスが揺らめき、ススキの穂が棚びいていました。心が打たれます。短歌を詠んだことはありませんが、つい詠んでしまいたくなる……そんな雅な気分になってしまいます。そんな飛鳥ですが、かなり奥地にあります。「やまと」の語源は「やまのふもと」が由来という説があります。生駒山を越えてさらに奥の山の麓です。大和朝廷は朝鮮半島と交易を行っておりましたが、交易の船が飛鳥に行く場合、大和川を遡らないといけません。仁徳天皇の御代は上町台地の先端に難波宮を築いていました。素人考えでは、交易に便利だから難波宮で良くないか? と考えたりします。


 グーグルアースで大阪や奈良をよく見下ろすのですが、大阪平野は家ばっかりです。堺市に目を向けると、ひしめき合う灰色の住宅地の中に、強大な緑色の前方後円墳が浮き上がっていました。かなりシュールな絵に見えます。それに比べると、奈良盆地は、ゆったりしています。家はそれなりに多いですが、まだ田んぼや畑が残っています。グーグルアースから見ると、区画整理された四角い田んぼが整然と並んでいました。実際、奈良盆地を50ccのスーパーカブで走ると見晴らしが良い。グルリと360度、山に囲まれている奈良盆地を感じることが出来ます。とっても長閑な気分になれます。


 グーグルアースを眺めながら、ふと気が付きました。ピンチインして日本の全景を確認します。日本列島は山が多い。3分の2が森林で、人間が生活できる平野は3分の1になります。日本で最大の平野はダントツで関東平野になります。ただ、土壌が関東ローム層なので水耕栽培には向きません。続いて、石狩平野、十勝平野、越後平野と続きます。しかし、稲作の初期では、奈良、大阪、京都、滋賀、三重を中心とした平野で発展していきました。それが近畿における人口爆発20倍の原因です。


 神武東征で近畿にやって来た神武天皇が真っ先に考えなければならないことは、経済的な基盤の構築でした。それはつまり、水田の開墾になります。近畿には、大阪平野があり生駒山の奥には奈良盆地が広がっていました。大和川を遡っていった先に飛鳥があります。


 米は畑作でも生育できますが、それでは土が痩せてしまいます。痩せた土地では連作が出来ません。対して、水耕栽培の場合は、水が山からの栄養を運んでくれます。だから、毎年、米を収穫することが出来るのです。水田を広げていく場合、川上から開墾をする必要がありました。段々畑を見たことがあると思いますが、あれは非常に理にかなった開墾方法なのです。水は上から下に流れます。川上に水田を作り、順番に水を落としていくことで、全ての水田に水が供給されていきます。仮に川下から水田を作ったとしたら、途中で水の供給路を変更する事態に見舞われてしまい、二度手間三度手間を強いられます。つまり、大和川の上流に最初に畝傍橿原宮が築かれたのは自然なことだったという推論が成りたつのです。その後、三輪山をご神体とする山岳信仰も生まれ、飛鳥周辺の地域は大和王権にとって重要な地域になっていきました。


 なるほどな~、と思います。当時の文明を考えるとき、その基盤である環境を考えるのはとても大切なことです。環境と人間は、密接に関係しあって共生しています。その事を感じれただけで、僕の中の理解度が深まりました。この間は、スーパーカブを走らせて、和歌山県に行きました。和歌山から紀ノ川が流れており、奈良の飛鳥に行くことが出来ます。その一連の流れや風景を感じたかった。山間に挟まれて流れる紀ノ川は、大きくて悠々と流れています。ただ、かなり遠かった……。一日で240kmも走ってしまいました。今度は、木津川を遡って、奈良に入ってみようと思います。体全体で、奈良や大阪を感じたいのです。

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