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「第21話 蘇我馬子考」への応援コメント


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     蘇我氏の馬匹文化については平林章仁氏の『蘇我氏の研究』(雄山閣)やその簡略バージョンで新たな知見も加えている『蘇我氏と馬養集団の謎』(祥伝社新書)でもご指摘なさっているので、関連性は深そうですね。

     稲目の名前についてまで疑問に思った事は無かったので、『日本書紀』巻十八宣化天皇元年(丙辰五三六)五月辛丑朔の出来事と絡めて考えるのは自分には無かった視点で、成程と気付かされることがありました。松岡静雄氏の『日本古語大辞典 [正] (語誌篇) 増補版』によれば、イナメは稲ムラの意であろうとのことで、これが正しい解釈であるのか分かりませんが、元興寺塔露盤銘の「巷宜、名伊那米大臣」の「巷宜」表記は「蘇我」の古い表記と言われているので、「伊那米」も「稲目」以前の表記の可能性もありますが、いずれにせよ米や稲と関連した名である事は間違いなさそうですね。仮に津田史観的な思考で突き詰めると、宣化天皇元年の記事が漢籍による潤色であることや、稲目という名がこの話にあわせた説話的な名である為、創作された人物とも解釈されそうなものですが、元興寺塔露盤銘の古い時代の表記が存在することから、流石にそれは無さそうですね。

     蘇我氏が渡来系であるという門脇禎二氏の説はこれについても平林章仁氏の前述の書で批判されていますね。(詳細は下記URLの当方エッセイをご覧ください)門脇氏は百済の木羅斤資の子である木満致を蘇我満智と名が同じであることから、蘇我満智を応神天皇紀二十五年条の木満致を干支三運(一八〇年)ずらして『三国史記』百済本記の蓋鹵王二十一年条の木劦満致にあてはめ、蘇我氏渡来人説を主張しましたが、一般的に神功・応神紀を干支二運(一二〇年)ずらして朝鮮文献と年紀が一致することから、この辺りから史実であるというのが常識ですが、干支三運ずらすとなると、仮に蘇我満智が門脇説で正しいとした場合、他の出来事まで六十年ズレるので、それ以前の近肖子王の死亡記事やら七支刀やら史実性を認められた出来事まで正しくないということになりかねず、この辺りの事情まで門脇氏が考慮していたのですかね……。

    https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16816700429382069641

    作者からの返信

    コメントをありがとうございます。

    古代の歴史的解釈については、限られた文献を元にして多くの学者が様々な見解を述べられています。僕も色々と文献を集めながら読み進めているのですが、読めば読むほど分からない、というのが正直なところです。

    また、記憶に落とし込む為にアウトプットに努めてはいるのですが、案外と直ぐに忘れてしまいます。飛鳥時代の変化を大きなうねりを俯瞰してみたいのですが、これでは俯瞰どころの騒ぎではありません。

    そうした意味では、麗玲様の――『古事記』『日本書紀』から学ぶ日本古代史学習エッセイ――は、飛鳥時代を文献を交えながら丁寧に紹介されているので、とても分かりやすい。とても参考になります。
    ありがとうございます。