第57話

 ベッドから、突然戻ってきた私を見上げる亜美の頬には涙の跡があった。その目はまだ赤い。こんなにまっすぐな目にもう嘘なんてついちゃいけない。ゆっくりと亜美に近づくと、呼吸を整える。私が本当のことを言わなければ。私がが亜美に―。

「亜美、あのね―」

「藍沢!」

 突然乱暴に病室のドアが開けられ、振り返ると想介が入ってきた。すぐにベッドに駆け寄ってくる。亜美のことをしっかりと捉えて離さないその目からは、ある種の覚悟が見て取れた。

「想介…」

 私の存在など目に入っていないかのように想介はまっすぐ亜美のことだけを見ていた。息をつく暇もなくカッと目を見開き話し始める。

「黒川ちゃん、今から言うこと落ち着いて聞いて。嘘ついててごめん、本当は京平は―」

「死んじゃったん…だよね?私が眠ってる間に」

 想介の言葉を聞き終える前に、亜美がぽつんとつぶやくように言った。全身にこもっていた力がすうっと抜けていく。―やっぱり亜美は、知っていたんだ。

 想介の動きが一瞬にして固まる。

「なにも言わないってことは、やっぱりそうなんだよね…。京平は…、もういないんだよね」

 今すぐにでも、否定してほしい。京平くんは生きている、そう、言ってほしいと亜美の目は訴えていた。でも、私たちが何も言わないとわかると、亜美の顔にどんどん絶望の色が広がっていく。

「さっきはごめんね、試すようなこと言っちゃって。やっぱりまだなんか信じられなくて、そうなんじゃないかなってどっかで思ってたけど、信じたくなくて…。

 私、あの日お見舞いになんて行かなきゃよかったんだよね…、きっと。京平、私のこと嫌いだったのに、私が無理やり会いに行っちゃったから…、私は事故に遭ったんだよね。足も動かなくなってさ…、京平のお葬式にも行けなかった。私なんて行っていい人じゃないかもしれないけどさ…」

 なんとかこの場を取り繕うように必死で話し続ける亜美の声は、今にもどこかへ吸い込まれてしまいそうなほどに震えている。そうやって、なんとか自分を保っているように見えた。

「私、バカだよね。バチが当たったのかな…。私ばっかり勝手に京平のこと…。私、おかしいよね」

 その言葉を聞いた瞬間、私の中を熱いなにかが勢いよく駆けめぐった。

 違う、そうじゃない。亜美は知らない。京平くんは―。

「おかしくない!なんにもおかしいことじゃないよ。なんにも…!」

 急にスイッチが入ったかのように、想介はおもむろに背負っていたリュックを地面におろすと、中からクリアファイルを取り出した。そこには一通の封筒が挟まっている。想介はその封筒を取り出し向きを確認すると、亜美に丁寧に渡した。

 想介がファイルから封筒を取り出した瞬間、私の視線は封筒の裏に小さく書かれた差出人の名前を捉える。

「これ…、俺たちが預かってたんだ」

「なにこれ?」

 渡された手紙を亜美がゆっくりと裏返す。そこに書かれた文字を見た瞬間、一瞬にして亜美の表情がこわばったのがわかった。すぐさま顔をあげて、想介の顔を見つめる。

「え、これって…」

「それ、京平からの手紙。俺が死んだら黒川ちゃんに渡してほしいって、京平が」

「京平が?なんで…」

 困惑している亜美に想介は必死に想いを伝えようとしていた。

「黒川ちゃん、俺…、上手く言えないけど黒川ちゃんはおかしくないよ。バチが当たったなんてそんな悲しいこと…言わないで。京平も悲しむ」

 小さい子供どもを諭すかのようにかけられた想介の言葉で、一瞬にして亜美の目に涙の色が浮かんだのが見えた。

 亜美がもう一度、受け取った封筒に目を落とす。そこには少し汚い京平くんの字で、「黒川さんへ」と大きく書いてあった。亜美の目から零れ落ちた涙が一粒、封筒の上に大きなシミを作る。

「あのね、亜美ごめんね。私たち京平くんに頼まれて、亜美が京平くんから離れていくように一緒に考えてほしいって、そう言われてた。でもそれは、京平くんが亜美のこと嫌いだったからじゃなくて、京平くんが亜美のことすっごく大事に想ってたからなんだ。

 京平くんは、自分が弱ってくところを亜美に見せたくなかったんだよ。自分が死んじゃったとき、亜美がそのときのことを思い出してつらくなると思ったから。亜美は優しいから、京平くんが死んじゃったとき自分にもっとなにかできたんじゃないかってずっと思っちゃうかもしれないって、京平くん、心配してた。

 だから京平くんは…」

「そんなの嘘だよ。だって京平、あのとき私のことなんとも思ってないって、ほんとに大切な人と一緒にいる時間大事にしたいって…そう言ってたよ。私ちゃんと聞こえてた。京平が、そう言ったんだよ…。私は京平にとっての大事な人じゃなかった…」

 悲しそうに亜美が目を伏せた。渡された手紙をテーブルの上に置くと隅の方に押しやる。その姿からは亜美の葛藤が見てとれた。

 京平くんの顔が脳裏に浮かぶ。

 亜美のことを話す京平くんの顔。大事なものを想う人の顔だった。もう京平くんはいない。誰かが、私が京平くんの想いを届けなきゃ―。

「亜美ごめんね。それも、私たちが考えて京平くんにそう言わせたの。亜美が京平くんのこと、大切に想ってたの知ってたから。そうやって言えば亜美が傷ついて京平くんのところから離れていくんじゃないかって思って。わざと亜美が京平くんのところに行くように仕向けて、わざと亜美が廊下にいるの知ってて、京平くんにそうやって言ってもらった。…私が、考えたことなの。

 京平くんはほんとはそんなこと全然思ってなかった。亜美のこと、大事に、大切に想ってた。だから、一緒にいちゃいけないって思ったんだよ…。一緒にいて、辛かったんだよ、きっと。それで、亜美が自分のこと嫌いになってくれればって思って…」

「そんな…」

「でも、ごめん。やっぱりそんなこと、私たちが決めていいことじゃなかったかもしれない。私たちがやったことは、まちがってたかもしれない。亜美がこんな風になって、京平くんのお葬式にも行けないなんて、私たちそんなこと考えてなかった…。私たちが…、亜美と京平くんの大事な時間奪っちゃった。ごめんね、ごめんなさい」

 泣いちゃだめだ、私なんかが泣いちゃだめだ。そう、わかっているはずだったのに。私の意思とは裏腹に視界がどんどん滲んできて、視線の先のつま先が輪郭を失っていく。

 私があのとき京平くんのお願いなんて聞いていなければ、断っていれば…。二人にはもっと違うその先が待っていたかもしれないのに。亜美がこんなに悲しい思いをしなくてすんだかもしれないのに。足だって、こんな風にならなくてすんだかもしれないのに。

 亜美に向かって下げた頭に、血が上ってくるのを感じる。腰をおった私の背中に温かい手が触れた。

 これは…、想介?いや違う―。

「それは…、京平が二人に頼んだことなんだよね?」

 背中に置かれた温かい手が、ゆっくりと私の背中の上を滑らかに動いていく。優しくてあったかい、亜美の手。

「二人は、京平のお願いを聞いてくれたんだよね?…私のために」

 背中に触れていた亜美の手が力強く私の体を引き寄せ、自然と亜美と抱き合う形になる。しっかりと抱き留められた私の体に、亜美のぬくもりが伝わってきた。

「じゃあ…、謝ることないよ。栞も相良も、ありがとね」

 亜美の温かい手が、今度は私の頭を優しく撫でた。直接言葉にはしなくても、もう何も言わなくていいと、亜美はそう言っているように思えた。

「私も自分のことバカだと思ってたけど…、京平は、もっとバカだね。離れたって、そんな簡単に嫌いになんてならないし、なんならもっと会いたくなるだけだし。死んじゃったら悲しいに決まってるのに…。

 そんなこともわかんなかったのかな…、京平は。ほんと…大バカだね」

 ゆっくりと、亜美の体が私の体から離されていく。私の腕をしっかりとつかんだまま、亜美が静かに私の目を見つめてくる。そして、わずかに口角を上げると、わたしの頬にそっと触れ、不器用な親指でそっと涙をぬぐった。今度は視線を想介に向ける。

「相良―」

「ごめん…、黒川ちゃん…」

 顔を真っ赤にして泣き続ける想介に、亜美が優しく笑いかける。頬にはまだ筋が残っているものの、亜美の目からはもう涙は流れていなかった。亜美は強い。

「いつまで泣いてるの。私はもう泣いてないのに。手紙もっててくれてありがとね」

 相良が言葉を出さずに何度もうなずく。

「にしても、京平は完璧だと思ったら字は汚いんだね。みてよほら」

 亜美がそう言って笑いながら私たちに封筒を見せてくる。

「ほんとだ、汚い」

 小学生が書いたともとれる、京平くんの書いた文字。その字を愛おしそうに指でなぞると、封を開けることなく亜美はそっと引き出しに封筒をしまった。

 

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