第55話

「ありがとね。またいつでも来てね」

 私の言葉に軽くうなずいた二人は、そそくさと病室から出ていってしまった。少しずつ二人の足音が遠ざかっていくにつれて、病室が徐々に静けさを取り戻していく。もともと静かすぎるこの病室は、二人がいなくなったことでより一層寂しさを増したように思えた。

 ベッドの上のテーブルには、二人がきれいに飲み干した湯呑と、私しか手を付けなかったクッキーの箱が残されている。残ったクッキーを箱から出して、ベッドの横にある引き出しにしまうと、空になった箱の口を開いてつぶした。

 先ほど二人が座っていた椅子の、すぐ横にあるごみ箱に手を伸ばす。少しベッドから離れた位置にあるごみ箱は届きそうで届かない。

「あっ!」

 ベッドの手すりにしっかりとつかまり反対側の手を思いっきり伸ばした瞬間、私の指先がかすったごみ箱はカランと音を立ててむなしく倒れた。そのままごみをまき散らかしながら、ベッドの下へ入っていく。

 ベッドから落ちてしまわないようにしっかりと両脇の手すりにつかまると、慎重に体をベッドの上に戻していく。

 なんとか元の体勢に戻りため息を漏らした私の視線の先には、三日前と同じ、無機質な天井が広がっていた。

 私が事故に遭ったのはもう十三日も前のこと、らしい。京平のお見舞いからの帰り道、居眠り運転の大型トラックにはねられたと聞いた。ぼんやりと、身体が飛ばされたような記憶がある気もするが、それ以上思い出そうとすると頭が痛くなって、結局何も思い出せない。

 目が覚めた私を待っていたのは、動かない足、失われた十日間。

 そして―、斎藤京平の死だった。

『先生―』

『お母さんの気持ちもわかりますが、今は娘さんの精神面の安定が最優先です。決して嘘をつけと言っているわけではありません。ただその―、その話にはなるべく触れないようにして下さい』

 私が目を覚ました日の夜、病室の前の廊下で先生とお母さんが話している声が聞こえた。最初は私の足のことを言っているんだと思った。

 意識が戻ってからというもの、私の足はすっかり意思をもたなくなってしまっていた。叩いてもつねっても痛くないし、重いものが乗っかていても気がつけない。これから先また歩けるようになることは難しいかもしれない、そう思うのに時間はかからなかった。

 でも―。

 お母さんも、お見舞いに来てくれた森田も、看護師も先生もみんななにかがおかしかった。私が京平のお見舞いの帰り道に事故に遭ったことは知っているはずなのに、誰も京平の話をしようとしない。私が毎日訊いていたから、話題にならなかったわけじゃない。それなのに、みんながみんな、その話題を避けているように思えた。

 京平に会いに行こう、そう思って一人で車いすに乗って病院内を探したこともあった。三か月前に京平がいた病室も訪ねた。かつて京平のネームプレートがあったスペースは、そこだけが誰の名前もなくなっていた。

 京平はもしかしたら、もしかしたら―。

 眠りにつこうとするたびに、その言葉の後に続く言葉を考えてしまっている自分が自分で恐ろしくなって体が震えた。もし私が口にしてしまったら、本当になってしまう気がして、京平がずっと遠くへ行ってしまうような気がして怖くてたまらなかった。

 信じたかった。京平は私がただ見つけられていないだけで今も病院のどこかで元気に生きている。今日も明日も明後日も。私が勝手に心配していたことを話したら、いつもの明るい笑顔を向けて、心配かけてごめんね、と、俺はまだまだ死なないから大丈夫だよ、と、そう言ってくれると信じたかった。京平がこの世からいなくなってしまったなんて考えたくもなかった。

 でも―。

 栞が私からそらした視線が、相良の取り繕うような笑顔が、そして二人が部屋を出ていってから止まらない私の涙が、すべてを物語っている気がした。京平は、京平はきっと本当に―。

 この世界からいなくなってしまったんだ。 

「京平…」

 考えたくない。京平がいない世界なんて考えたくない。

 今までずっと、見えないふりをしていた。自分の中にあるその感情に、気づかないふりをしようとしていた。でも、今ならわかる。私は京平のことが好きだった。大好きだった。

 一度も本人には言えなかったけど、京平には嫌われてしまっていたけど、それでも私は―。

 京平との記憶が洪水のように脳内に流れ込んでくる。二人で歩いた病院からの帰り道も、一緒に乗ったバスも、ファミレスで食べたパスタも、電車も公園もスワンボートも。あんなにキラキラして思えたのは、京平がいたからだ。大好きな京平が、私のいたからだ。

 なのに私は―。

 最後に会ったときの記憶が呼び起こされる。あの日、京平は私に二つ嘘をついたと言っていた。一つ目の嘘はもう知っている。でももう一つはまだ聞いていない。

「これじゃあもうわかんないじゃん…」

 ―トントン。

 唐突にドアをノックする音が静かな病室に響いた。ドアのすりガラスの向こうに人影が見える。問診に来た看護師かもしれない。

 布団を直し、頬を流れていた涙を入院着の袖で急いで拭った。入り口付近に映る私の目は少し赤くも見えるが、もうどうしようもない。深呼吸をし、なんとか呼吸を整える。

「はい、どうぞ」

 少し震えてしまった私の返事に反応して、ゆっくりと病室のドアが開いた。人影の正体が露わになる。

「え、どうしたの…」


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る