第53話
「栞!相良も来てくれたの!」
病室の扉を開けた私たちに気づいた亜美が、ベッドの上で大きく手を振っている。最後に姿を見たときとはまるで別人のようによく動くその表情に、思わず安堵する。
よかった。思ったよりも元気そうだ。その頬にはまだ大きなガーゼが貼ってあるのが痛々しい。ベッドの横には車いすが置いてある。
亜美の意識が戻ったと聞いたのは三日前、京平くんが亡くなってから一週間後のことだった。
亜美は先日、交通事故にあった。居眠りをしていた運転手がブレーキを踏むことはなく、亜美の身体は十トントラックによって跳ね飛ばされた。京平くんのお見舞いに行った、その帰り道での出来事だった。
事故に遭ってからの約十日間、亜美は病室のベッドで眠り続けた。事故にあった翌日も、京平くんが亡くなった日も、京平くんのお葬式が済んだ後も、ベッドに横たわる亜美はずっと同じ顔をしていた。話しかけても、身体に触れても、なにも変化しない、なにも知らない顔。
その顔からは想像もできなかったほど、今の亜美は私たちに会えた喜びを顔全体で表している。
「学校は?ごめんね、忙しいのにわざわざ」
数日前まで眠っていたとは思えないほどに、亜美は手と口をせわしなく動かすとわたしたちにお茶を淹れてくれた。
「そこの椅子、座っていいから。今日は冷えるよね。ありがとね、寒いのにわざわざ」
ベッドから落ちてしまいそうなほどに腕を伸ばし、車いすをどかそうとする亜美を想介が慌てて制止する。もう死んでしまうのではないかと思っていたあの姿と、今、わたしの前で忙しく動く亜美はどうも同じ人だとは思えなかった。
「二人ともどうかした?」
唐突にそう尋ねてきた亜美はどこかたちを心配しているように見えた。
「え、なにが?」
「なんか二人ともしゃべらないから。なんかあった?私が寝てる間にもきっと、学校ではいっぱい面白いことあったんだよね?いいなぁ。起きたら十日も日にちが進んじゃっててさ…。ほんと、びっくりだよね」
そう言う亜美の横顔に一瞬暗い影が落ちたように見えた。次の瞬間、またすぐにいつもの亜美に戻る。
「ねえねえ、なんか学校で面白いこととかあった?」
「あ、森ちゃんが結婚するらしいよ。しかもお相手は俺らの知ってる人」
「うそ⁉誰と⁉」
「絶対驚くよ。世界史の、西森先生」
ええーっ!とベッドの上で亜美が大きく上半身をのけぞらせた。森田先生が結婚すると言ったのはもう、一週間も前の話だ。学校での私たちの間では、もうその話題はひとしきり盛り上がりを終えている。亜美が十日の間に取り残されてしまったことを改めて感じる。
「えー、ぜんっぜん気づかなかった!あ、でも言われてみれば納得はするかもな。そっかあの二人が…。でもおめでたいね。なんか私も嬉しいわ。昨日会ったとき森田なんも言ってなかったのに。明日会うときにおめでとうって言わなきゃね」
なんてことのない会話だった。親友が意識を取り戻して、それを幼馴染と一緒に喜んで。それだけのはずだった。私たちの背後から忍び寄る黒い影に、私は気づいていなかった。
「そういえばさ、」
「うん?」
「京平はどうしてる?」
その言葉を聞いた瞬間、想介の顔が一瞬こわばったのがわかった。亜美は手元に視線をやったまま、自分の分のお茶を淹れている。想介はすぐにまたいつもの顔に戻った。
亜美はおそらくなにも知らない。自分が眠っている間に京平くんが亡くなってしまったことも、京平くんはもう骨になってしまったことも、もう二度と京平くんに会えないことも。あの日が京平くんと亜美が言葉を交わした、最後の日になってしまったことも。
「あのね、亜美―」
「京平は、相変わらず勉強頑張ってるよ。高校は卒業できなかったけど、大学行くのは諦めてないんだって。絶対合格してやるって言ってて」
一瞬自分の耳を疑った。私の横の椅子に腰かける想介は、いつもとなんら変わりない様子で話し続ける。
「そっか、よかった。京平のことだからそんなところかなとは思ってたけど。やっぱすごいね、京平は。私も負けないように頑張んなきゃ。次はいつ会えそうかな?」
「俺ら今来たばっかじゃん。また明後日くらいにも来ようと思ってたけど」
「違うよ。それはそれで嬉しいし、ありがとうだけど、私が言ってるのは京平のこと。早く京平のお見舞いに行きたいんだよね。せっかく同じ病院にいるのに、お母さんも先生もダメって言うし、京平が元気なら来てもらおうかなとか思っちゃって。それはさすがにダメかな?」
「いや、まずは黒川ちゃんが元気になんなきゃでしょ」
「私はずっと元気だよ。でもこんなときに事故に遭うなんて本当に最悪」
これ、いただいてもいいかな?と、亜美が私たちが持ってきたクッキーに手を伸ばした。想介が亜美を食いしん坊だとからかい、亜美は恥ずかしがりながらも嬉しそうにクッキーを口に運ぶ。
なにかが、おかしかった。この場において私だけが違う世界にいるような。
なにも知らない亜美と、本当のことを言わない想介。
突然吐き気に襲われ、二人に気づかれないように口を押えた。視界にじわりと涙がにじむ。
「あの、私たちそろそろ行こうかな」
やっとの思いで絞り出した声に亜美は鋭く反応してきた。
「もう帰っちゃうの?もう少しゆっくりしていけばいいのに」
「ううん、あんまり長居すると看護師さんに怒られちゃうから。また明後日にでも来るつもりだし。リハビリ頑張って」
自分でもこわばっているとわかる頬をなんとか動かし、亜美に向けて笑顔を作った。そんな私に、亜美も笑顔を向けてくる。
「じゃあ二人が次来るときには入口まで迎えに行けるように頑張るね」
「それは黒川ちゃん、さすがに言うことがでかすぎなんじゃない?」
「亜美は一回やるって決めたら本気だもんね。頑張って」
亜美がせっかく淹れてくれたお茶を無駄にしないように一気に飲み干すと、椅子をもとに戻し、身支度を終えた。少し寂しそうにじっと私たちのことを見てくる亜美の視線を感じる。
「じゃあね、亜美。またすぐ来るから」
そう言って亜美に背を向けた瞬間、上着の裾をふいにつかまれた。
「どうしたの?」
「あのさ…もし、もしできたらでいいんだけどさ…」
視線を床に向けたまま、怒られる前の子どものように亜美は何かを言おうとしていた。直接言葉にされなくても、私にはそれが何だかわかった気がした。でも、私は訊けない。
「黒川ちゃん、どうしたの?」
先に病室の出口へ向かっていた想介も足を止めた。
亜美がゆっくりと顔を上げる。
そして―。
「次来るときはさ…、私を京平のところに連れてってくれないかな?」
その瞬間、心臓が凍ったような気がした。私を見つめてくる亜美の目は、あまりにもまっすぐだった。耐えられなかった私は、思わず亜美から視線をそらした。
「黒川ちゃんが京平に会いたがってるって、京平に伝えておくね」
「ありがとう。できたらでいいから」
「うん、じゃあ。俺ら行くね」
「うん。またいつでも来てね」
先に歩き出した想介の背中を追いかけるように病室を出る。私たちを見てくる亜美の視線を感じながらも、私は最後まで振り返ることはできなかった。
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