第52話
右手をそっとにぎりしめる。私の指と指の隙間に京平くんの骨ばった指が入ってくることは、もう二度とない。
私の手を握り返してきた京平くんの左手の中指には大きなペンだこがあった。いつも自分の夢に向かって本気で勉強していた京平くん。あんなに頑張っていたのに。死んでしまったら、その夢も叶わない。
京平くんの手も、声も、匂いも、絶対に忘れないと思っていた。絶対に忘れるはずがないと思っていた。でも、私が思い出そうとすればするほど記憶の中の京平くんはどんどん遠ざかっていくように感じる。
いつか私の右手の記憶はどんどん薄れていって、誰かの手によって上書きされてしまう日が来るのだろうか。
ピンポーン、ピンポーン。
静かな家の中に、無機質なインターホンの音が響いた。
時計の針は十時を指している。
椅子に掛けてあった上着を手に取り、急いで部屋から降りると階段を駆け下りる。スニーカーに足を突っ込んで玄関のドアを開けると、目を腫らした想介が立っていた。その髪と体は何にも妨げられることなく降り注いだ雨によって濡れてしまっている。部屋にいるときは雨が降っていることに全然気がつかなかった。
「想介…」
思わず出てしまった声に、想介は何も言わずに瞬きをして応じる。
「ちょっと待って。今傘貸すから」
「うん」
シュークロークのなかに掛けられたお父さんの傘を渡す。昔から礼儀正しかったはずの想介は、それを無言で受け取った。
ドアに鍵をかけ、傘を開く。私のその動作を確認すると、想介は何も言うことなく歩き始めた。今にも泣き出しそうなその背中に私もついていく。
雨が静かに降る土曜のこの時間。静かな住宅地には雨と私たちの足音だけが静かに響いている。
十一月の下旬、雪はまだ降っていないとはいえ昼間にも関わらずあたりはすっかり冷え込んでいた。傘を持っていない右手を口元にやり、握ったこぶしに自分の息を吹き込む。ほんの一瞬だが、暖かい空気が手のひらを伝わっていくのがわかった。
狭い路地を抜けて少し開けた通りに出ると、私たちが来るのを知っていたかのようにバスが私たちの前に停まった。私の前を歩いていた想介が足を止める。それを、先に乗れという意味だととった私はバスの後方の二人掛けの席に座った。バスには私たちの他にお年寄りが三人乗っているだけだった。
整理券を取った想介は傘を閉じ、バスの後方に座る私の姿を認めると、私が座る席の一つ前の席に腰かけた。想介は振り返らない。
無気力に座席の背もたれに寄りかかった想介のうなじを見つめる。もしこれが想介ではなくて、京平くんだったら。京平くんが今の想介と同じ立場だったら。京平くんは絶対私を一人で座らせたりなんてしないだろう。ただ黙って、そばに座っていてくれるだろう。
そのとき、何かを思い出したかのように想介が背負っていたリュックをガサゴソとやり始めた。中から何か取り出すと、袋を破って振り向くことなく私に渡してくる。
「これ、やるよ」
差し出されたのはカイロだった。
「傘、ありがとう」
それだけ言うと、私の返事を聞くことなく想介はまた元の姿勢に戻った。
プシューッ。
もう誰も乗ってこないことを確認したバスの扉が閉まる。
私たちを乗せたバスは静かに動き出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます