第51話
どれくらい時間が経っただろう。五分程度と言われればそんな気もするし、三十分と言われればそうだったようにも思える。ずっと顔を覆っていた両手を外すと、もうあたりはすっかり暗くなっていた。
京平くんは、と思い横を見るとそこには最後に見たときと何も変わらない京平くんの姿があった。
少しずつ冷静さを取り戻してきた私に、一本のペットボトルが差し出される。
「これ、よければどうぞ。あ、俺が口付けたやつじゃないから安心して。いっぱい泣くと、体から水分出ていっちゃうって聞いたことある。多分今、藍沢さんも俺も、相当水分不足だと思うからさ、ぜひぜひ」
俺も飲もーっ、と京平くんはさっきわたしがあげたお茶を勢いよく飲み始めた。私たちの間に流れていた空気を押し流すかのような飲みっぷりに、私もつられてフタを開けようとする。
まだ一度も開けていないペットボトルのフタは、かたくとじられていることに加え、夏でも常に乾燥している私の手ではなかなかあけられない。
「貸してみ」
京平くんが出した左手にペットボトルを渡す。難なく開けられたペットボトルが再び私のもとへ返ってきた。
「ありがと」
喉に勢いよく飛び込んできたお茶は思いのほか冷たかった。私が泣いている間に、京平くんが買ってきてくれたんだろう。全然気が付かなかった。
頭が冷静さを取り戻すと、いっきに自分がとった行動が恥ずかしくなってくる。私は京平くんを泣かせた。そして自分自身も大声で泣いてしまった。京平くんは今何を思っているだろう。
「なんか気まずいね」
私の心の声を聞いていたかのように、京平くんはぽつんとそう言った。顔を向けた先にあったその顔に、もう泣いた跡は残っていない。私と目が合うと、京平くんはにかっと笑った。
「聞こえなかった?な、ん、か、気まずいね!」
さっきまで泣いていたのが嘘のように、京平くんは完全にいつもの京平くんに戻っている、ように見えた。でも、今の私にはわかる。そんな京平くんの態度も、私を気遣ってのものだということが。
「聞こえてるよ、うるさいなぁ。なんでそんなに元気なの」
そう言いながらも、私自身も口角が上がってしまっているのがわかる。
気持ちが聞けて嬉しかった。ずっとすれ違いをしていたことを知って悲しかった。大好きな人の前で大泣きしてしまって、ほんとは恥ずかしくて逃げてしまいたい。
心の中を覗けばいろんな気持ちが渦巻いているが今はそれを出すべきじゃないことくらい、私だってわかる。
「あ、ちょっとこっち見て」
「ん?」
その瞬間、突然京平くんの右手が私の顔に優しく触れた。少しひんやりとした親指で頬をなぞられる。両目でしっかりと私の姿を捉えたまま、京平くんの顔がゆっくりと近づいてくる。すべての瞬間がスローモーションのように感じられる。
「はい、取れた。ってかほっぺ熱いね、大丈夫?」
「へ?」
予想外の発言に目を開けると、京平くんは指についた何かを払っているところだった。その状況にすべてを察する。
「まつげついてたから。しかも二本も。もったいないねー」
一瞬勘違いをしてしまった自分自身に、一気に恥ずかしさがこみあげてくる。
「あ、ありがとう」
「いえいえ」
そういう京平くんはあまりにもあっさりしているように見えた。この人の考えていることは本当によくわからない。さっきの会話は、涙は、全部演技だったのかと思ってしまう。
好きな人の顔に触れたら、普通、普通でいられるはずがないのに。
「あ!」
急に何かを思いついたように京平くんが素っ頓狂な声を上げた。
「なに?」
ムフフと京平くんがなぜかおかしそうに笑う。
「なに一人で笑ってるの?気持ち悪い」
いつの間にか私は京平くんにこんなことまで言えるようになってしまっていた。好き、という気持ちをここまではっきりとお互いに確かめ合うと、かえって正直でいられるのかもしれない。
「いやぁ、俺初めて藍沢さんに触ったなって思って」
「え?」
「ほら、俺たち中学生の時とか出かけるにしても手とかつないだことなかったじゃない、一回も。俺は本当はぐっとこらえてたんだけどさ、なんてったって相良クンがいたもんで。一回くらい、手とかつないどけばよかったかもね」
ははっと京平くんは楽しそうに笑った。
この人は本当に、何を考えているかわからない。
聞いているこっちが恥ずかしくなってしまうようなことを、この人はさらっと言ってしまう。それでどれだけ周りの人を振り回してきたことか。
だったら私だって―。
「えっ⁉」
ベンチに無造作に置かれていた京平くんの左手をとると、私の太ももの上に載せた。そこに私の右手を重ねて、きつく指と指を咬み合わせる。
「私だって、そうしたかったし」
京平くんの視線を感じたが、そんなことは今の私にとってはどうでもよかった。
大きくて、少し骨ばった京平くんの左手はひんやりしていて、でもなぜか温かく感じた。
ずっとそうしていたかった。
何も言わずにただ私の手を握り返してきたあの感触は、今でも私の手に染みついたままだ。
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