第49話
「あのこれ、どっちがいい?」
「お茶。…ありがとう」
私を見上げる京平くんの目は、うさぎのように真っ赤になっている。男の人がこんなに泣くところを私は初めて見た。京平くんが泣いているところも。
数分前まで私はあんなに泣いていたはずなのに、京平くんに対してあんなに怒っていたはずなのに、さっき京平くんの涙を見た途端その感情は波のようにスウッと引いてしまった。今はただ、この状況をどうすればいいのかひたすらに困惑しているだけだ。
私から受け取った麦茶を京平くんは勢いよく飲んでいる。その姿はたくさん怒られて泣いたあとの幼稚園児を連想させた。
私が下を向いている間に突然泣き出した京平くんに驚き、とりあえずベンチに座らせてみたものの、私はどうしたらいいのか。彼の涙の理由も、こんな状況をどうすればいいのかも私はわからない。
「あの、大丈夫?」
感情が読めない状態の京平くんに声をかけるのは、思った以上に勇気が必要だった。ここで突然怒鳴られたら、飛びかかられたら。そんな猛獣のようなことを普段の京平くんならするはずがないのだが、今私の前に座る京平くんは私の知らない京平くんだった。
「ごめん…」
少し落ち着いた、と言っても下を向いた京平くんの目からはハラハラと涙が流れたままだ。小さな子どものように肩が震えている。
私の心の中に、罪悪感の波がどっと流れ込んできた。
「あ、ううん、いや、なんかその、私も感情を爆発させすぎちゃったっていうか、私が勝手に想ってただけなのにちょっとそれを押し付けすぎちゃったっていうか。ごめん、私まさか京平くんが泣いちゃうとは思わなくて。言い過ぎた、ごめん」
私の言葉に、声を出すことなく京平くんは首を何度も振った。私が被害者のはずなのに、京平くんが何も言ってくれないせいでまた私ばかりが一方的に話している。
「あの、今こんなこと言うのおかしいってわかってるんだけど、でも私京平くんには協力できないから。亜美のこととか、そういうの。何もしてあげられないし、する気もないから。それだけはごめん、ちゃんと言っておこうと思って」
そう言いながら、自分は一体何を言っているんだろうと思った。京平くんに対して何を伝えたいのか、私はなにがしたいのか。自分で自分がどんどんわからなくなっていく。
またしても、京平くんは何も言わない。今度は静かにうなずいただけだった。
「あの、私もう行くね。ここにお水も置いとくから、よかったら飲んで。なんか、いろいろごめんね。じゃあね」
「待って」
京平くんに背を向けた瞬間、右腕を掴まれた。振り返ると、泣きながら京平くんが私の顔を見上げている。
「…何?」
「俺、藍沢さんに、ちゃんと言わなきゃいけないことがある。ずっと言えてなかったけど、言わなきゃいけなかったことがある」
涙で詰まった京平くんの言葉に、一気に心拍数が上がった気がした。自分が動揺してしまっているのがわかった。
「いいよ、そんなの。もう会わないんだし。腕離して」
もう会わない。自分で言った言葉が自分の心に重くのしかかってくる。私たちの間での「もう会わない」という言葉は、本当にもう会わないことを指す。
本当は知りたかった。京平くんが今、私に伝えようとしていることはなんなのか。
京平くんは私の言葉に激しく首を横に振った。
「離したら藍沢さん、行っちゃうでしょ?だから離さない。お願い。俺の話聞いてほしい。もう会わないから、会えないから。だから聞いてほしい」
離さない、聞いてほしい。必死でそう訴えながらも私の腕を掴む京平くんの力は決して強くはなかった。
私が今彼の手を振り払ってしまったら、私は京平くんの聞かせようとした話を知ることは絶対にないだろう。ずっと大好きだった人が、私に今届けようとしている想いを。
私はそれでいいのだろうか―。
「…話、聞くだけだからね」
こんなに泣かれてしまったら。こんなに必死にお願いされたら。
結局私はまだ、京平くんのことが好きなままだった。
京平くんの座るベンチの隣に腰かける。少し紫がかった夏の空を、カラスが数羽横切っていくのが見えた。
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