第30話
約束の土曜日が来た。
昨晩、私はベッドに入ってからもなかなか寝つくことができなかった。目を閉じるたびに、三か月前の記憶が何度も頭に蘇ってきた。
ついにこの日が来たのだ。
ずっと見て見ぬふりをしておきながら、この三か月間私の心に居座り続けたわだかまりとようやく今、向き合おうとしている。
相良に京平に会いたいと言ってからは、京平の話を色々聞いてはいたものの、今京平がどうなっているのか全く想像できなかった。
それに、京平は私のことが嫌いなのだ。
嫌いだと思われていると知っていながら、私は二人の間にあった会話を一切知らなかったていで京平に会いに行こうとしている。
私がこれからやろうとしていることは間違っていないだろうか。何度も何度も、そんな不安に襲われた。
久しぶりに会う京平に不自然がられないように、相良と二人で何度も何度も打ち合わせを重ねた。
私が京平の様子について尋ねるたびに、相良は悲しそうな顔をして何度も何度も謝った。
「もっと早くこうすればよかったのに、俺が気が利かなかったから。ほんとにごめん」
「相良が謝ることじゃないよ。私のほうこそ…って言ってもしょうがないよね。でも、ありがとうね。ちゃんと全部伝えるから」
二度と戻ることのない三か月に想いを馳せながら、私は眠りについた。
このあたりの地域はまだ雪が降っていないとはいえ、十一月を迎えるとそれなりに冷え込む。
でも今日は、久しぶりに太陽がはっきりと顔を出していて、ぽかぽかと暖かい。
病院前に設置されている時計は十時を過ぎている。しかし、相良も京平も入口から出てくる様子はなかった。
緊張のあまり喉が渇き、少し離れたとこにある自販機へ向かう。
最後に病院に来た時に相良がおごってくれたものと同じ水を見つけた。私が最後に京平の声を聞いたあの日。
小銭入れから百五十円を出し、自販機に投入する。高校の校舎内に設置された自販機とは違って、水だけでもかなり高い。相良はあのとき黙って奢ってくれた。
ペットボトルのキャップを開けて口をつける。冷たい水が渇いた体の中を湿らせていく。
京平に会って、最初にかける言葉はあらかじめ決めてあった。
「久しぶり。ずっと会いに来れなくてごめんね」
たったこれだけのセリフを、私は昨日から何度も何度も口の中で唱えた。私の言葉に対して、京平はなんて言葉を返すだろう。
あれほど毎日思い出そうと努めていたにも関わらず、私のなかで京平は少しずつ、記憶のなかの人になりつつある。
私が長いこと京平に会いに来れなかった理由は、塾に入ることになってしまって放課後に時間をとるのが難しくなったからだ、ということにしておいた。このことに関してはすでに相良とは打ち合わせ済みで、京平が質問をしてきたら相良が答えるように話をしてある。
京平には、今日私が来ることは知らせていない。事前に言って気をつかわせるのが嫌だったからだ。
何も知らない京平は三か月ぶりに現れた私になんと言うだろうか―。
「…黒川さん?」
久しぶりに聞く、でも何度も聞いた温かみのある京平の声が聞こえた。
振り返るとそこには京平と、その後ろに立つ相良がいた。
「京平…」
京平が車いすに乗っているとは思わなかった。
相良と何度も話し合ったはずなのに、いざその時を迎えると言葉が出てこない。
京平の鼻にはチューブが通っていて、車いすには複雑そうな装置が付いていた。
顔はやつれ、頬はこけて目は落ちくぼんでいる。はだけた入院着の胸元からは、脂肪を失った京平の平たい胸がのぞいていた。
目の前にいるのは間違いなく斎藤京平でありながら、私の知っている京平ではなかった。
たった三か月の間に、私の知っている京平はいなくなってしまっていた。
「黒川ちゃん、入口にいてねって言ったのに。探したよ」
私の様子を見た相良がすかさずフォローを入れてくる。
京平を見ていることができず、相良に視線をやった。
「ごめん、喉渇いちゃって。飲み物買おうと思って」
京平の視線を感じる。
「久しぶりだね。わざわざ来てくれたんだ、ありがとね」
私の突然の訪問に戸惑う様子もなく、京平が話しかけてきた。私のことが嫌いな京平は、今更現れた私に何を思っているのだろう。
久しぶりに京平と会えた喜びと、変わりきってしまった京平の姿に対するショックが交差して上手く笑えない。
儚い微笑みが私に向けられているのが辛かった。
「京平、ずっと来れてなくてごめんね」
京平は私の言葉に、ゆっくりと首を振った。
「受験生だもん。忙しいのはしょうがないよ。それでも会いに来てくれて嬉しいよ。ありがとう」
鼻のチューブのせいか、京平の声はどこかから空気が抜けているようなシューシューという音を伴っていた。
気持ち悪い、とは思わない。でも、どんなときでも元気だった京平と、今目の前に座っている京平の姿を簡単に結びつけることはできなかった。
私が知らない間に、この人はこんな風になってしまったんだ。
「京平」
名前を呼ぶだけで、続く言葉は出てこなかった。
あと何回この名前を呼ぶことができるのか。
そんなことを一瞬考えてしまった自分が恐ろしくなった。そんな私の胸中を察してか、
「京平、黒川ちゃんと一緒にいつもの道行こうか」
相良が車いすに座った京平に目線を合わせ、尋ねた。
その様子はとても自然で、こうやって二人がずっと時間を越えてきたことを感じさせる。
相良の言葉に、京平は嬉しそうにうなずいた。相良が車いすを押して歩き出す。私もその横をついて歩くことにした。
「ねえ、いつもの道って?」
「あっちのほうを少し進むと、河川敷に出るんだ。晴れた日はよく俺と京平でそこを散歩してる。最近は寒い日が続いてたから前よりはしょっちゅういけなくなっちゃったけど、それでも週に一回くらいは行ってるよね」
「そうだね」
京平と当たり前のようにそんなことを言っている相良だが、私はそんなこと全く知らなかった。
相良が目指している大学は、日本でもトップレベルの最難関と言っていいような大学だ。僅かな時間も惜しんで勉強している相良が、京平のためにそこまで時間を割いていたなんて。相良が京平を支えることにどれほどの覚悟をしていたのかがうかがえる。
私は同じことができただろうか。
今の相良の京平に接する態度は、三か月前とも、病気を知らされる前とも、何ら変わりなかった。
「久しぶりに会えたんだし、京平、黒川ちゃんに何か言いたいこととかないの?」
相良が茶化すように京平に話しかけた。
車いすの後ろを歩く私には、京平がどんな顔をしているのかは見えない。
「みんなは元気?」
風に乗って、前方から京平の声が聞こえた。
京平は今、何を考えているのだろう。私には全くわからない。
「みんな元気だよ。受験に向かってすっごく頑張ってる」
「そっか」
言った後、すぐに言わなければよかったと思った。
京平だって、もともとはそっち側の人間、いや、その最先頭にいた人間なのだ。久しぶりに話せたというのに、私は気の利いた言葉一つも返せない。
その場の空気を変えようとしたのか、相良が声をかけてきた。
「ねえ黒川さん、車いす押してみる?」
「いいよいいよ。俺重いから」
相良の突然の提案に驚いたのか、京平が慌てて首を振る。
京平が乗り気でないのは明らかだったが、私はさっき会った時からずっとそのつもりだった。京平が乗っている車いすを押すことは、今の私に残された、唯一の京平とつながることができる手段に思えたから。
「やるよ。京平、私押すからなんか不都合があったらすぐに言って」
「ごめん、ありがとう」
相良がどいて、私が車いすの持ち手を握った。
最初は少し力が必要だったが、ゆっくり押していくと、くるくるとタイヤが回っていく。
京平は軽かった。
この数か月の間に体重も落ちてしまったのだろう。
私が知らない間に、どんどん京平の命が消えかかっていったことに恐怖を感じる。
「黒川さん、ありがとね。重くない?」
「うん、大丈夫」
久しぶりだということと、気まずさもあって会話は弾まなかった。
これが最後かもしれないと思っても、京平になんて話しかければいいのかわからない。
京平に謝るつもりで今日来ることを決めたはずなのに、いっこうに自分の中でその意志を固めることができなかった。
何も言えないまま、時間だけが過ぎていった。
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