第29話

 あの日から、私が廊下で京平の話を聞いていたことを知っていた相良とも気まずくなった。

 私は、私と京平と相良は三人で一つのチームみたいなものだと思っていた。京平の病気という、大きな秘密を共有した固い絆で結ばれたチーム。

 でも、そう思っていたのも私だけだったんだ。

 私は二人の中に割り込んでいただけだったのに、勝手に勘違いして。勝手にどんどん京平のことを、大事に思って。勝手に相良のことを親友みたいに思い始めて。勝手に、二人に何かを期待してしまっていた。

 本当にバカみたいだ。

 私が勝手に病院から去ってしまった後、相良は私に謝罪のLINEを送ってきた。

 相良も考えたことは私と一緒だったようだ。

『心の底から信じてもいい人』

 その言葉は、相良の中でも引っかかっていたらしい。

 京平は、私がついた嘘に気づいているのではないか。以前相良は私にそう指摘したことがあった。

 相良はあの日、京平に自分からは私の嘘についての話はしていなかった。

 もちろん、私が京平に嘘をついた理由も。

 相良の以前の指摘には、これといった根拠があるわけではなかった。だから、相良が私の嘘の理由について京平に打ち明けられなかったのは仕方がないことだった。

 もしかしたら、京平は本当に私の嘘に気がついていないのかもしれないから。

 あの日、京平の話を聞いていた相良が何を言っていたとしても、私と京平がいつかこうなってしまうことはきっと前から決まっていた。そう、思いたかった。

 私と京平は結局、お互いにとって何にもなれなかった。私たちを結びつけていたのは実際のところ、絆なんかよりもずっと脆い、嘘だけだったから。

 誰かのためになる嘘なんてものは、きっと最初からなかった。嘘をついて、誰かを救おうなんて考えたらいけなかったのに。

 朝の相良の姿が脳裏に浮かんだ。

『京平、もうだめかもしれなくて』

 ある程度覚悟はしていたつもりだった。

 学校を辞める辞めないに関わらず、京平の入院は決まっていたことだった。あのとき辞めていなかったとしても、京平はどのみち学校を続けることは難しかっただろう。

 今日より明日、明日より明後日。私が会いに行かなかった3ヶ月の間にも、京平に残された時間はどんどん少なくなっていった。

 京平の命の灯火が消えるのがいつかは、誰にもわからない。明日かもしれないし、まだまだ先のことかもしれない。

 いずれにせよ、これから私がなにかしたところで京平を助けることができないのはもう決まっていることだった。

 むしろ私がまたなにかしたら、かえって京平は迷惑に思うかもしれない。

 京平のことはもう忘れよう。忘れてしまって、受験勉強に集中しよう。

 でも―

『黒川さんは優しいね』

『母さんに呼ばれたのかなって思ったんだ』

『俺、絶対に受かるから!』

『おはよう、久しぶりだね』

 忘れようと思えば思うほど、今も隣にいるかのように頭の中で京平の声が再生される。一度私の頭に染みついた京平の声は、そんな簡単に消えていってはくれない。

 この三か月間、会えない寂しさを紛らわすために私は何度も京平との記憶を辿った。

 パスタのソースを口の周りにつけた顔も、悲しみを必死でこらえようとする顔も、授業中に意味もなく振り返っては私に注意されていたときの顔も。何度も、何度も思い出した。

 京平にとってそれは何の意味ももたない時間だったとしても、私にとっては大切だったから。心にずっと、留めておきたかったから。

 頭では忘れるべきだとわかっていてもまた、それを頑なに拒んでいる自分の存在を無視することは不可能だった。

 もし、もう一度だけ京平に会うことができるなら―

 電車が静かに自宅の最寄り駅に止まった。

 ドアが開くと同時に吐き出された人々が、まっすぐ改札に吸い込まれていく。

 たくさんの人の後ろ姿。いないと、いるはずがないとわかっていても、この3ヶ月間人混みを見るたびに私は京平の姿を探した。

 会いたかったのだ、私はずっと。この三か月間ずっと。

 自分から避けておきながら、私はやっぱり京平に会いたかった。

 もう三か月前の私たちには戻れないかもしれない。京平も三か月の間に変わってしまっただろう。そして、私も。

 でも、それでも―

 改札を出た私は、家に向かって走り出していた。今すぐにでも、やらなければいけないことを見つけたからだ。

 早く、一刻も早くやらなければ、私はきっとためらってしまうだろう。

 この気持ちが冷めないうちに、やらなければ。


 家の玄関の扉を開けると、妹が出迎えてくるより早く自分の部屋に入る。

 カバンからスマホを出すと、迷うことなくLINEのアイコンをタップした。送信先は相良。

「朝のことはごめん。相良のことは本当に怒ってないよ。ずっと話そうとしてくれてたのに、相良から逃げてた。それも、本当にごめん。

 あと、今さらわがままなのは十分承知なんだけど、やっぱり私京平に会いに行きたい。

 これで最後にするから。もう会わないし、京平に嫌な思いをさせることもないから。

 だから、お願い。やっぱり京平に会わせてほしい。流石に二人きりでは会えないから、相良も一緒に来てほしい。

 相良には、ほんとにたくさん迷惑をかけてごめん。よろしくおねがいします。」

 思いついた文章を、すべてそのまま文字にして起こした。

 少々長い気もするが、相良ならきっと私の気持ちをわかってくれるだろう。3ヶ月前までの私たちの間では、こんなやりとりは当たり前だった。

 迷ってしまう前に送信ボタンを押す。

 私が送ったメッセージは今、相良のスマホに届いただろう。

 どっと疲れが出てきて、ベッドにダイブし仰向けになる。

 天井についた茶色い染みが、今日はなぜかいつもより大きく見えた。

 もう、本当にこれで終わりだ。

 たとえ京平に嫌われてしまっていたとしても、私はやっぱり京平のことが好きだった。そんな簡単に忘れることなんてできなかった。

 私にできることはなかったとしても、少しでも楽しい思いをしてほしかった。

 もしこれで最後に会うことができるなら、嘘をついたことをちゃんと謝って、そして感謝を伝えよう。

 短い時間でも、一緒に楽しい思い出を作ってくれたこと。

 ただのクラスメイトでしかない私にも、ずっと優しく接してくれたこと。

 そして何よりも、初めて、誰かのことを大切に想うことの素晴らしさを教えてくれたこと。

 相変わらず、相良からの返信は早かった。

「わかった。今週の土曜日の十時。病院の入り口で待ってて。」

 言いたいことだけが簡潔にまとめられた短いメール。

 そこに相良の優しさのすべてが現れている気がした。


 

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