第28話

 図書館の椅子に腰を掛ける。

 教科書とプリントを準備して問題にとりかかろうとすると、スマホが鳴った。

 こんなときに誰。もしかして相良か。

 あとで確認しようかと思ったが、メールであればさっさと返事をしておきたい。カバンの奥底に入っていたスマホを取り出して開いた。

 メールの送信主は、栞だった。

「おはよう。なんか風邪ひいちゃったみたいで、今日学校休むわ。

 昼休みに委員会の集まりがあるから私の代わりに行っておいてほしい。

 あと、できればノートも送ってほしい。よろしく。」

 あっちからお願いしている割に、かなり上から目線に感じられるのが栞の特徴だった。

 栞は人よりも少しばかり不器用なだけで芯が強い、まっすぐな人だ。ただ、こういう態度をとるから誤解されやすい性格でもあった。

 あの日から、栞は私にとって唯一の友達だった。

 私を切り捨てようとなんてしない、私の友達でい続けてくれる、特別な存在。

「おはよう。風邪、早く治るといいね。お大事に。

 委員会の集まりはちゃんと行ってくるから、安心して、ゆっくり休んでね。」

 メッセージを送信すると、私はカバンにスマホをしまい、世界史の問題を解き始めた。


 放課後の清掃を終えると、そそくさと玄関に向かう。

 栞がいない今日は、誰かを待つ必要もない。

 相良に嘘をついたことは悪いが、私は金銭的な事情から塾には通っていなかった。 だからこそ、本気で受験勉強に取り組まなければならないのだ。

 塾組はどんな手を打ってくるかはわからない。 でも、お金のことなんかでそいつらには絶対に負けたくなかった。

 だから今の私に勉強以外のことなんて考えている余裕はない。

 ―京平のことも。

 それなのに、駅までの道でも、電車に乗ってからも頭から京平のことが離れなかった。

 さっきからずっと、単語帳の同じページを目で追っている。頭になんて、一切入ってこない。

『俺と黒川さん、もう会わないほうがいいと思うんだ』

 頭の中で、京平の声がした。私が壁一枚を隔てた廊下で立ち聞きしているとは全く気付いてない京平の声が。

『なんて言えば上手く伝わるかわからないけど、俺にはお前がいてくれれば十分なんだ。って言っても意味分かんないよね』

『俺、もともと人と関わるのあんまり得意な方じゃなくて。相手のこと傷つけてないかとか、ほんとは俺なんかと一緒にいたくないんじゃないかとか、そういうの必要以上にしちゃって。病気になってからはなおさら』

『あでも、お前に関してはそういうことを思ったことはないよ。お前とはほんとにずっと一緒にいるし。でも逆に言えば、それはお前だけで』

 京平が慎重に言葉を選んでいるのが顔を見なくても伝わってきた。そして、これから京平がなにを言おうとしていたのかも。

『クラスのみんなとか黒川さんのことが嫌いだっていうわけじゃない。それはわかってほしい。

 ただ、今の俺には正直もうしんどいんだ。自分のことでいっぱいいっぱいになってて、周りが見えてないんじゃないかって思う。黒川さんと一緒にいるときですらも、俺にはもう―、苦しいんだよ』

『たぶんそれは、黒川さんにもなんとなく伝わってるような気がするんだ。俺がそうやって思ってること。だから俺は、今回の入院が決まったときに決めたんだ。俺に残された時間はそんなにたくさんあるわけじゃないから、残りの人生は俺がほんとに一緒にいたい人、大切な人のために使おうって。父さんとか、お前とか、心の底から信じてもいい人のために』

 あのときの私には、それで十分だった。

 京平が次の言葉を続ける前に、私は病院の廊下を歩きだした。

 京平は、何も悪くなかった。

 いくら心を許していると言っても、京平は相良の前でだって、絶対に誰かのことを悪く言ったりはしないだろう。

 どこまでが京平の本音だったのか。

『心の底から信じてもいい人』

 その言葉が意味するものは何なのか。三ヶ月経った今も、私にはまだわからないままだ。


 一年前の病院からの帰り道、私は彼に嘘をついた。

 もとはと言えば、京平の勘違いから始まった嘘だ。でもその勘違いの発端となってしまったのは、間違いなくあのときの私の不用意な質問だろう。

 余命宣告を受けたばかりの京平に、私は何ができるのか。わずかな時間の中で、私は必死に考えた。

 その答えが、嘘をつくことだった。

 今思えばあのときの私が出した答えは、随分と浅はかなものだったかもしれない。病気の設定もかなり強引にこじつけた。

 でも、それほどまでに私は京平の役に立ちたいと強く思った。

 それは秘密を知ってしまった責任を感じたからじゃない。

 理由なんてなかった。ただ、京平の残りの人生は笑っていてほしいと、そのために私ができることがあるなら何でもしたいと、心の底からそう思った。

 でももし私がついた嘘は京平に気づかれていたとしたら―。

 仮にそうだとしても、京平はなんで私が嘘をついたかなんて、きっと考えないだろう。

 人間関係に疲れた京平は、嘘つきの私と一緒にいるのが嫌になった。私の嘘に気がついて、私のことを信じられなくなったから、だから、私から離れることを選んだ。

 いっそのことそうであってほしいと何度も思った。

 私は病気の京平に嘘をついた悪者で、そんなやつとは自分の残りの人生を一緒に過ごしたくなかったから、と。

 でも、もしそうでなかったとしたら―。

 京平が、私の嘘に関係なくあの発言をしていたとしたら―。

『残りの人生はほんとに一緒にいたい人、大切な人のために使おうって』

 京平にとっての「一緒にいたい人、大切な人」の中に、私は含まれていなかった。

 私はずっと、京平のただのクラスメイトでしかなかった。

 京平にとってそれは当然のことなのかもしれない。

 偶然病院の帰り道で一緒になって、変な嘘をつかれて、何でもするとか言ってきて。京平の目に私は、どう映っていただろう。

 私は、ただのクラスメイトでしかなかったのだから、高みを望んではいけなかったのに。

 私が勝手に変なことを言って、京平に勝手に思いを寄せて。

 でもそれはすべて私が勝手にやったことだから、京平は私のことを同じように思ってないのなんて当たり前で。

 私が、私なんかが京平に何かしてあげられると思ったのがバカだった。私は京平の特別な存在になんてなれなかった。

 私が京平と過ごした時間は、私が京平のことを想っていた時間は、京平にとってはなんでもないものだった。

 ただのクラスメイトでしかない私は、勝手に思い上がって、勝手に自己満足をしていた。それだけだった。

 それどころか、京平が本当に人間関係に疲れて学校を辞めるのだとしたら京平にとって一番負担になっていた存在はきっと、相良の次に一緒にいた時間が長かった私だろう。

 私が、私の存在が、もしかしたら一番京平のことを苦しめていたのかもしれない。

 京平が大好きだった学校を辞める原因を作ってしまったのは、いずれにせよこの私だ。

 私は、最低の人間だ。

 

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