第27話

 学校が開錠されると同時に玄関を通り、まっすぐ図書室に向かう。この時期の図書室は多くの三年生で混みあうからだ。私がいつも座る時計の横の席は、人気があって早くいかないと他の生徒に取られてしまう。早めに学校に着いただけあって、今日は図書室に一番乗りだった。

 椅子に上着をかけてカバンを開くと、世界史の資料集が入っていなかった。いらないかと一瞬思ったが、やはり資料集なしでは先生のプリントには立ち向かえないと思いなおし、教室に取りに行くことにした。

 朝の七時過ぎの教室棟で、他の生徒と廊下ですれ違うことはほぼない。棟の端にある自教室にたどり着くまでの間も、誰にも会わなかった。通り過ぎた教室のどこにも、生徒の姿はない。

 それでも私は、窓から差し込んだ朝日が廊下に漏れ出す自教室が近づくにつれ、ある種の期待を抱かずにはいられなかった。

 ―いるわけがないのに。

 教室に入り、なんとなく自分の席に座る。

 机の中に資料集が入っているのはわかっているが、今は出す気にもならない。

 教室の窓から見える朝日は、目覚めたばかりの朝の街を温かい光で包み込んでいた。

 それは、いつか私が京平と一緒に見た夕日によく似た光景だった。

 

 京平が学校を辞めてから、いつの間にか三か月が経とうとしていた。

 クラスのムードメーカーで、誰よりも勉強を頑張っていた彼の退学を聞いたクラスメイトはみな、驚き、さみしがっていた。―最初のうちは。

 彼と一緒にいたところをよく見られていた私と相良は、クラスのみんなからの質問攻めにあった。

 京平はなぜ学校を辞めたのか。

 今はどうしているのか。

 何か知っていることはないのか。

 でも、私も相良も何も答えなかった。

 何か訊かれれば知らないと答え、自分たちからは絶対に彼の話はしなかった。

 一か月も経つと、みんなの関心は京平からそれていった。そして今となってはクラスの誰も、京平の話をすることはなくなった。

 結果論から言えば、あの日、私と相良は京平の退学を止めることはできなかった。

京平の意思は固く、あの日私たちの後に京平を訪ねた森田は退学届けを受理した。

 私はあの日以来、一度も京平に会っていない。

 相良は今でも頻繁に京平に会いに行っているのかもしれないが、もはやそれは私とっては何の関係もないことだった。京平にとって私はなんでもない存在、いや、それ以下の存在だったから。

 勝手に思いあがっていた私が悪かったのだ。京平は何も、何も悪くない。私がー。

「黒川ちゃん?」

 突然呼ばれて振り返ると、教室の入り口に相良が立っていた。静まり返った校舎を歩く相良の足音は響いていたに違いないが、全く気が付かなかった。それほどまでに、京平のことを考えてしまっていた自分に嫌気がさす。

「おはよう。こんなに早く来てるの知らなかった」

「いつもは図書室にいるから」

「そうなんだ」

 それ以上の言葉を交わすこともなく、相良はまっすぐ自分の机に向かっていった。以前だったらもっと弾んでいたであろう私たちの会話も、もう続くことはない。

 あの日以来、私を取り巻く状況は一転した。

 私の日常から京平がいなくなったことだけじゃない。私と相良の関係も、すっかり変わってしまった。

 机の中から資料集を取り出し、立ち上がる。

 二人の間をさりげなく、でも確かに流れている重たい空気から一刻も早く逃れたかった。

 なるべく相良の気にとまらないように、教室の入口へと向かう。

 相良の横を通り過ぎた直後、鋭い視線を感じた。気のせいだと自分に言い聞かせ、そのまま足を止めることなく少し早足で教室を出る。後ろから追いかけてくる足音が聞こえた。

「黒川ちゃん」

 振り返った先には相良がいる。

「今日の放課後、ちょっと話せないかな」

 相良が何の話をしようとしているのかは、何も聞かなくてもわかった。だからこそ聞きたくない。

「悪いけど、塾あるから無理。ごめんね」

「じゃあ明日は?」

「明日も」

「明後日は?」

「明後日も」

「じゃあ、」

 すがるような顔で相良が私を見てきた。ここまでしっかりと相良の顔を見たのは久しぶりだった。ラリーが続いた会話も。

 相良があの日私を病院に連れて行ったことに対して、ずっと罪悪感を抱いているのは見え見えだった。それがますます私を苛立たせる。

 私はつらくても人に優しくできるような、できた人間とは違う。

「あのさ、相良。私、今はもう受験のことしか頭にないんだ。ほかのことに時間割く余裕もないし。

 それに、もう何も気にしてないから。いろいろ気遣わせちゃってごめんね」

 そんなの嘘だったし、きっと相良にもばれているだろうとは思ったが、今の私にはこれ以上のことは言えなかった。これ以上口を開いてしまったら、自分を抑えきれない気がした。

 相良は表情を変えることなく、絞り出すように言った。

「昨日、京平のお父さんから連絡があった。京平が、今度こそ危ないかもしれないって」

 相良がさっきからしつこく話そうとしてくる時点でなんとなく察してはいた。それでも湧き上がってくる悲しみと不安が表に現れないように必死でこらえる。

「そっか。心配だね」

 私の言葉に、相良は意表をつかれたようにハッとした顔を見せた。

「それだけ?悲しくないの?黒川ちゃんは京平のことが心配じゃ―」

「心配だよ。でもさ、そんな日が来るのは前からわかってたことだし、私が今何かしてどうにかなるようなことでもないから」

 相良に背を向けて歩き出す。私の一言が相良を傷つけるのに十分だったことくらい、容易に想像できた。

 今の相良は、あの日私が家に帰って鏡越しに見た私と、同じ目をしていたから。

「ねえ黒川ちゃん待ってよ!」

「なに」

 表に出ないように気をつけても苛立ちが声に出てしまう。相良は何も悪くないのに。

「ごめん。ごめんなさい」

 振り返ると相良は私に向かって深く、頭を下げていた。ほとんど誰も通らないとはいえ、さすがにそんなことをされては気が引ける。

「やめてよ、相良。誰かに見られたら勘違いされる」

「でも、ほんとにごめん。俺は京平との約束も破ったし、黒川ちゃんのことも傷つけた」

「だからそれはもういいって。相良が謝ることじゃないよ。もういいから」

 歩き出した私の左腕が強い力で掴まれた。

「よくないよ!黒川ちゃんは、このまま京平が死んじゃっても平気なの?京平に会いたいって思わないの?」

 まっすぐな相良の言葉に苛立ってくる。そんな風に言えるのは相良だからなのに。私の気持ちなんて、わかるはずないのに。

「なんでそんな意地悪なこと言うの?平気なわけないでしょ、会いたいよ!

 でも、行けないんだよ!私は京平に嫌われてるの!京平は、私なんかに会いたくないんだよ!」

 私の言葉で相良がハッとしたような表情を見せる。

 本当はこんなこと言いたくなかった。相良に感情をぶつけるのは、お門違いだとわかっているのに。

「ごめん、言い過ぎた。

でも、私がこれから京平のところに行くことは絶対にないよ。京平の最期のときには相良がそばにいてあげて。京平のこと、よろしくね」

 背を向けて歩き出した私を、相良が追いかけてくることは今度こそなかった。今のやり取りで相良は私の言葉を否定することができなかった。それこそが真実だったからだ。

 私は、京平に嫌われていた。

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