第26話
病院は綺麗で、清潔感がある。
でも、不自然なまでの綺麗さが、清潔感が、そこにいる人たちの特別さを浮き出させている。
京平はずっと、こんなところにいたんだ。
病室の前の壁にはプレートがあって、そこには斎藤京平と書かれたものももちろんあった。あたりまえの事実のはずなのに、それがなぜか無性に悲しかった。
「黒川ちゃんが来てることは内緒にしとくよ。サプライズってことで喜ばせたいから。じゃ、ちょっと待っててね」
京平に聞かれないように私に小声で言うと、相良は病室に入っていった。
私じゃなくたって、京平はお見舞いに来てくれた人を全力でもてなそうとするだろう。誰が来たって京平は、明るく出迎えてくれる人だ。
そう。私じゃなくても。
「斎藤さーん、失礼しまーす」
「わっ!ええっ!」
シャーッとカーテンが開く音と、驚いたような京平の声が聞こえた。
「マジでびっくりしたんだけど。心臓に悪いって。てかなんでお前ここにいんの?学校あるでしょ?」
入口から入ってすぐのところにベッドがあるようで、京平と相良の声は廊下にいてもよく聞こえた。
病室の中から聞こえてくる京平の声に、思わず口元が緩む。京平は思っていたよりも元気そうだった。
相良の突然の来訪に驚きつつも、喜びを隠しきれていないのが顔を見なくてもわかる。
「え、なに?どうしたの?」
「ねえ、お前学校辞めるんだって?」
驚く京平とは対照的に落ち着いた相良の声が、病室から聞こえた。心配と、不安と、ある種の覚悟がこもった相良の声が。
京平は何も言わない。
「森ちゃんから聞いた。勝手にごめん。部屋の番号も、森ちゃんから。お前のことが、心配だったから」
京平は黙ったままだった。
京平の様子が何もわからないが、二人の間に重い空気が流れているのは伝わってきた。
「お前が言いたくないなら言わなくてもいいけど、俺はお前がなんで急にそんなこと言いだしたのか知りたい。
森ちゃんも言ってたけど、お前めちゃくちゃ勉強頑張ってたじゃん。学校来れなくても、それでも一生懸命頑張ってたじゃん。
違ったら謝るけど、お前、ほんとは学校辞めたいなんて思ってないんでしょ?俺は、もしお前が困ってるんだとしたら、力になりたいの。
何の役にも立てないかもしれないけど、困ってることがあるなら教えてほしい。俺がお前にできることは全部したいって、そう思ってるから」
相良の、京平を説得する真剣な表情が目に浮かんだ。
私も、今すぐにでもそこに行きたかった。
長い間一緒にいた二人の間に、私が入り込む余地はないのかもしれない。そうわかっていても、私も京平の特別な存在になりたかった。なって、京平を近い存在で支えたかった。
「そこ、座って」
しばらくの沈黙の後、京平が口を開いた。続いて、かたいものと床がこすれるような音。相良が椅子に腰かけたのだろう。
「相良」
「うん」
ただの返事なのに、相良の口調に緊張感が伴っているのがわかった。私も次に続く言葉に身構える。
しかし、京平は何も言わない。
「京平、別に俺はね」
「わかってるよ。ちゃんと言うから。こっち来て」
「なに?」
「いいから。もっとこっち」
「なになに?おい!」
「相良ありがとう!お前はほんとにいいやつ!いいやついいやつ。もう、なんか、大好きー!愛してるー!」
病室の中は見えないから、二人の様子がどうなっているのかはわからない。
京平がふざけた声が廊下に響いてきた。
「なんだよ急に!ちょっ、痛いし!離して!」
「ひどいなー、言わないだけで俺はずっと思ってたよ。マジでお前はいいやつ。俺、人生で言ったことないもん。
『俺、お前のためならなんでもするから!』だっけ?かーっ、しびれるね!そこらの女なんかもうイチコロでしょ。
しかもなんか言いなれてるっぽかったし。もしかしてお前ー?」
京平が早口でまくし立てる。
相良があきれたようにため息をついた。
「京平、はぐらかさないで。お前が早口でなんか言うときって大体無理してるときなの気づいてた?
俺はほんとにお前のことが心配なの。だから来たんだよ。ちゃんと京平が話してくれるまで俺、今日帰るつもりないからね」
少しの沈黙の後、カサカサと布団をめくりあげる音がした。
続いて、引き出しを開けるような音。
「やっぱ相良くんはナメたらだめですねー。なんか飲む?」
相良は断ったようで、京平は再び引き出しをしめた音がした。
「ねえ、そんなに怖い顔しないで。ちゃんと全部話すからさ。今日五時くらいから森ちゃんが来ることになってるから、お前にはその前に帰ってもらわないと。ってもう知ってるのかそれも」
「うん」
あーあ、と京平が困ったように笑うのが聞こえた。
「俺、森ちゃんに秘密にするように言ったんだけどなー。特に相良と黒川さんには絶対に言わないでくださいって。
もう大人信じられなくなりそうだよ」
突然京平の口から私の名前が出てきて驚いた。
一瞬私がいることがばれたのかと思ったが、京平からしたら特に大きな意味はなさそうだった。
「森ちゃん、俺と黒川ちゃんには絶対に言おうって思ったって言ってたよ」
京平がまた困ったように笑うのが聞こえた。
「そっかそっか、あれかな、フリみたいに思っちゃったのかな。結構本気だったのに」
「京平、俺に隠しごとなんてひどいよ。俺、もう隠し事しないでって、前に言わなかったっけ?」
「いや、まぁね。それは確かに言われた気がするわ。じゃあそこは謝るよ。ごめん」
「そんな素直に謝られても」
「おまえが謝れって言ったのに」
「それは言ってないよ」
「え、そうだっけ?」
そこの会話だけ聞けば、二人はごくごく普通の、男子高校生だった。そのなんてことない場面の一片にも、暗い影が落ちていることに虚しさを感じる。
「ねえ、そろそろ本題に」
真剣そうな相良の声が聞こえた。声が緊張感を伴っているのがわかる。
「お前ってほんとそういうとこ手強いよな」
観念したような京平の声が聞こえた。
「ちゃんと全部話してよ」
「わかってる。ただ、一つだけ絶対に守ってほしいことがある」
「なに?」
しばらく間があって、京平が静かに言った。
「俺がこれからお前に話すこと、絶対に黒川さんには言わないでほしいんだ」
心臓がどきんと跳ね上がった。どんどん強く胸の内側から私の体を叩いてくる。体がかあっと熱くなった気がした。
京平が私に知られたくないこと。それは何だろう。
知りたいようで、知りたくないような。でも、知ってはいけないような。
頭の中で色んな考えがぐるぐると巡る。
どうしよう、相良はなんと言うだろう。
「…て?」
はっきり聞こえなかっだが、相良が何か言った。おそらく、どうして、と。
相良の動揺が伝わってきた。
きっと、頭のなかではどうやってこの状況を打開するべきか必死で考えているはずだ。
私が廊下にいるという事実を京平は知らない。ここで相良が私を帰そうと席を外せば、京平には勘づかれてしまうかもしれない。
でも、ここで話さなかったらおそらく京平はこの話を二度としてくれないだろう。
少しの間のあと、放たれた言葉にますます私の心臓が激しく胸を打った。
「黒川さんが、傷つくから」
聞き間違いではない。間違いなく京平はそう言った。
「待って、どういうこと?なんでお前が学校を辞める理由を聞くと、黒川ちゃんが傷つくの」
「それはお前が約束守るって誓ってくれたら話すよ。そうじゃないなら俺はお前に話すことはない」
「そんなこと急に言われても」
「どうする?やっぱ今日はやめとく?」
珍しく、京平の口調は挑発的だった。京平にとってもこれは大きなことなのかもしれない。
私が聞くべきではないとわかっている気持ちと同時に、なぜか私が聞かなければいけないと思う気持ちがあった。
どうして私が傷つくのかは全く予想できないが、私たちが京平の力になることができるならそんなのかまわない。
相良も同じ思いだったようだ。
「いや、俺は今日京平の話を聞くために来たんだ。聞くよ。約束は守る」
言った瞬間破っているような約束をよくもそこまで堂々としたなと、感心するほど相良は堂々としていた。 帰るときに絶対気まずくなるのはわかったが、もうそれでもいい。
「わかった」
京平が覚悟を決めたように言ったのが聞こえた。
京平から発せられる言葉を聞き逃さないよう、全神経を集中させて聞き耳を立てる。
「実は俺さ―」
続けて放たれた、私に聞かれているとも知らない京平の言葉。次の瞬間、私の心の中を冷たい何かが駆け巡った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます