第20話

 京平が図書館で倒れてから一週間が経とうとしていた。

 

 あのときの私は本当に必死だった。

 意識が朦朧とする京平に声をかけ続け、救急車を呼んだ。

 救急車に同乗することはできなかったため、図書館の人に事情を話して京平の自転車を置かせてもらった。

 救急車を待っている間、一度だけ京平が私の声に反応して、私が握っていた手を握り返してきた。

 暗闇の中で京平の口が動くのが見えたが、何を言っているのか聞き取れない。その口元に耳を近づけたときだった。

『黒川さん、ごめんね。ごめん、ごめんなさい』

 ほとんどが息とも取れるような、消え入りそうな声で京平はそう言った。

 京平の顔に視線を動かしたときには、もう、その目は閉じてしまっていた。

 

 あの日の光景は、今でも私の網膜に焼き付いてときどきふとした瞬間に思い出す。たぶん私は、一生忘れることはないだろう。


 京平は、以前に一度だけ私に弱さを見せてきたことがあった。余命宣告を受けたあの日、京平は私に、死にたくないと言ってきた。

 でも、京平の弱さを見たのはあれが最初で最後だ。

 京平は、人に自分の弱さを見せようとはしない。京平の病気を知っている、数少ない人間である私にでさえも。

 結局私は、京平に何もしてあげられない。

 私が何かすることで京平の気を晴らすことができたとしても、それは京平の寿命を延ばすことではないのだ。

 私が知らないところでも京平の命が間違いなく短くなっていっていることに、あの日私は初めて気づかされた気がした。


 あの日から一週間、私がどれだけ連絡しても、京平からは何の返信もなかった。

 相良にも事情を話して連絡をしてもらったが、結果は同じだった。

 京平がどこにいるのか、何をしているのか何もわからない。わからないから、どうすることもできない。

 もどかしい毎日が続いた。

 そして今朝、スマホを開くとメールが届いていた。

 送信主は、京平だった。

「黒川さん、おひさしぶり。

 この間は、心配と迷惑をかけてごめん。

 あれからすぐに入院が決まって、たくさん検査してたから、なかなか連絡にも返事ができなくて、ほんとにほんとにごめんなさい。

 来週からは、また学校に行けることが決まったから。

 多分大丈夫だとは思うけど、みんなにはこのことは内緒でお願いします。

 俺は、盲腸で入院してたって言うつもりだから、黒川さんも、もし誰かになんか聞かれたらそこに合わせてほしい。

 じゃあ、また。これからもよろしく」

 必要なことだけが書かれた、京平からのメール。

 それでも―。

「よかった。ほんとによかった」

 言葉になって、涙になって出てくるくらい、嬉しかった。京平が生きていてくれたことが、心の底から嬉しかった。

 

 その喜びは、時間が経った今も顔にも現れていたようだ。

「朝からずっと気になってたんだけどさ、今日の亜美、なんかいつもより機嫌いいよね。なんかあった?」

 毎日一緒にお弁当を食べている栞の目をごまかすのはなかなか難しい。

 栞に京平の病気のことは伝えていないために、今朝の出来事を説明することはできない。

 怪訝そうに見つめてくる栞から慌てて目をそらした。

「ううん、別に。今日のお弁当おいしいなって思っただけだよ」

「あぁ、そう」

 そのとき、図書館で見た京平あての栞からのメッセージが脳裏に浮かんだ。

「そういえばさ、」

 思った時には口が動いていた。

「栞と京平って中学校同じだったよね?」

「そうだけど、なに急に」

 心なしか栞の声が不機嫌そうに聞こえた。

『いや、この間京平と図書館に行ったときに京平のスマホを見ちゃったんだけど。栞から京平あてのメッセージ届いてるの見ちゃってさ。二人が連絡取り合うような仲だって知らなかったし、しかもゆるさないとか書いてあったから。どういう関係なのかなって思って』

 もし私が今口に出してそう言ったとしても、絶対栞は私に本当のことなんて教えてくれないだろう。

 それ以前に人のスマホを勝手に見たなんて、堂々と言っていいことではない。

 なに、と言われてもなにもない、広げようのない質問だった。

「いや、京平最近学校きてないからさ。なにか知ってるかなって思って」

 しらじらしいと思いつつ、とっさに嘘をついた。京平が栞に私のことを何も言っていないことを祈りながら。

 幸い、京平は栞に何も言っていないようだった。

「確かに京平くんは中学一緒だったけど、それだけだよ。大きい学校だったから、クラスも一緒になったことないし。

 だから、特に仲いいわけでもないし、京平くんが休んでる理由は知らない。

 っていうか亜美さ、いつも京平くんと一緒に帰ってたよね。亜美こそ、何も知らないの?」

 明らかに栞は私のことを怪しんでいた。

 自分の不自然な質問が墓穴を掘ってしまったことに今更気がつく。

「いやー、私もわかんないな」

 適当にはぐらかそうとしたが、栞から向けられた視線は鋭かった。栞に見つめられると、そんなわけがないのに、すべてを見透かされているような気持ちになる。

「ねぇ亜美さ、私に何か隠してることあるでしょ。それも京平くんのことで」

 机越しに栞の姿勢が前のめりになった。

 アーモンド型のきれいな目は、私をしっかりと捉えて離そうとしない。

「栞に隠しごとなんてしないよ。毎日こうやって喋ってるじゃん」

 目をそらすとさらに追い詰められる気がして、負けじと栞を見つめ返した。自分の口から放たれたばかりの嘘が、もうすでにバレているような気がしてならない。

「前に京平くんと亜美が同時に休んだことあったよね。それと何か関係があるんじゃない。

 亜美は、京平くんとどういう関係なの。なんで私に何も教えてくれないの」

 栞の口調は普段から割と高圧的だが、今日の栞は一段と怖い。

「ごめん、私、栞を怒らせるようなことしちゃったかな?」

 一瞬にして、栞の表情が変わった。

「違うの。ただ」

 そういったっきり、栞は口をつぐんでしまった。その目は何かを言いたげにも見える。

「栞、なにか言いたいことでも」

「ううん、なんでもないの。ごめんね。ごちそうさま。ちょっとトイレ行ってくるから」

 私の言葉を遮ってそう言うと、栞はさっさとお弁当箱を片付け、教室から出て行ってしまった。

 私はなにか言ってはならないことを言ってしまったのだろうか。

 いつもは落ち着いている栞の、初めて見る顔だった。

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