第10話
放課後の学校からは色んな音が聞こえる。
吹奏楽部の練習、テニス部の掛け声、体育館からはバッシュが床とこすれる音が。
そういう音には三年間の青春が詰まっていて、どの音もこころなしかいきいきして聞こえる。
家に帰ってから、数学の課題をやろうとカバンを開くと、プリントを入れていたファイルがなかった。
思い当たる場所はあった。教室の机の中だ。
今日の最後の授業は体育で、教室に戻ってから着替えて、椅子をあげて掃除場へ直行と、とにかくバタバタしていた。
おそらくあのときに机から出し忘れてしまったのだ。
明日でもいいかと一瞬思ったが、私は明日の数学でその課題の解説をクラス全体に向けてしなければならない。
前回の解説は、準備不足で散々みんなの前でダメ出しをされた。もうあんな思いはしたくない。
意を決した私は、電車に乗って学校ヘ戻った。
放課後のこんな時間に学校にいるのは初めてのことだった。もう五時を過ぎているというのに、まだ空は明るい。
自分とは無関係な音が、こんなにも放課後の学校を彩っていることに驚く。
いつもと違うことをしていると、なにも悪いことなんてしていないのに、なぜかドキドキする。誰にも会わずにすむように、コソコソと校舎に入った。
教室棟に、人の姿はない。
少し早足で、教室棟の一番端にある教室を向かった。
放課後の教室には贅沢に夕日がいっぱい差し込んでいて、カレンダーの表紙みたいなロマンチックな光景が出来上がっていた。
「すっごい、めっちゃきれい」
思わずスマホで写真を撮る。
「なに撮ってるの?」
「だっ!」
突然聞こえた声に驚いて振り返ると、京平が自分の席に座っていた。
さっきまで寝ていたのか、顔にはあとがついている。
「びっくりした。心臓が…」
「ごめんごめん。でも俺さっきからずっとここにいたよ」
特に悪びれる様子もなく京平は笑っている。
「嘘でしょ」
「ほんとに」
私と京平の席は、一番廊下側で廊下から見ると確かに死角だった。変なところを見られてしまった。しかも、よりによって京平に。
「京平はなにしてたの?」
「俺?なんか、寝てたみたいね」
「みたいねって。そんな、他人事みたいに」
京平がポリポリと顔を掻いた。体育館の方から、ピーッとタイマーの音が聞こえる。
「ねぇ、そういえば京平部活は?男バスやってるっぽかったけど」
一瞬京平の顔が暗くなった、気がした。
「ああ、部活ね。知りたい?」
「えっと」
少しニヤつきながら、私を試すように見てくる。
なんだろう、この感じ。訊いてほしいのか、訊いてほしくないのか。
「知りたい、かも」
そっか、と意外とあっさり京平はうなずいた。
「俺、今日で辞めてきたんだ。部活全体でも挨拶して」
昨日の夕飯を訊かれたくらい、京平の反応は淡々としていた。
「え、なんで。なんか嫌なことでもあった?」
私の言葉に京平が再びニヤつく。
「やだな、黒川さん。察してよ、知ってるの黒川さんだけでしょ」
「ああ!そっか、ごめん」
完全にうっかりしていた。
この秘密は、私と京平を唯一つなぎとめている、いわば絆のようなものだ。私からこの絆を奪ってしまえば、私と京平はただのクラスメイトでしかなくなってしまうというのに。
「俺だって辞めたくなかったよ。自分で言うのもなんだけどさ、俺、結構バスケうまいもん」
「そうだよね、ごめんね」
帰宅部で部活に疎い私でも、京平がバスケがうまいことは知っていた。京平が朝早くに一人でシュート練習していたところを、何度か見かけたことがある。
目には見えなくても、京平の病気は確実に京平から日常を少しずつ奪っている。
あっけらかんとはしていても、京平にとってはつらい決断だっただろう。なにか、私ができることは―。
「あ!あのさ京平、どこか行きたいところとかある?あ、私と一緒でよければの話だけど」
言ってすぐ、違う気がした。別に京平は私と好きで一緒にいたわけではない。
「ん、ありがとう。でも今はそういう気分じゃないかな、ごめんね」
京平に気をつかわせてしまった。二人の間に気まずい空気感が漂う。結局私はいつもこうだ。
「てか、黒川さんはなにしに来たの?帰宅部だよね?」
それを察した京平が助け舟を出してくれるのも。
「うん。教室にプリント忘れちゃって。数学のやつ」
「ああ、黒川さん明日解説担当だもんね。わざわざ家から取りに来たの?」
「うん」
「それはえらいね!え、黒川さんって家結構遠かったよね?」
前に二人で電車に乗ったとき、私の最寄り駅の話をしたことがあった。京平は、その話を覚えてくれていた。
「遠いって言っても電車で四駅くらいだけどね。しかも、今日は早帰りだったし。」
それでもさー、と言いながら京平が座ったまま体を伸ばした。yシャツがズボンから少し出て、まっ平らなお腹がのぞいた。慌てて視線を逸らすも、京平はそんな私に気づく様子もない。
「それでも戻ってくるなんてえらいよ。俺なら絶対明日の朝やるわ」
「それはさ、京平が数学得意だからできるんだよ。私なら朝だけじゃ絶対終わんないもん」
「そうなの?じゃあ早く家帰ってやらなきゃじゃん」
「あ、そうだね」
私がカバンにプリントをしまっている間、京平は黙ってじっと窓の外の夕日を見つめていた。
「じゃあ京平、私帰るね」
「うん、また明日。頑張ってね」
「ありがとう。じゃあ」
ばいばーい、と京平は私に手を振ってくれた。私も小さく振り返す。
教室を出て廊下を歩いていると、色んな考えが頭に浮かんできた。
誰もいない教室で、京平は何をしていたんだろう。先生と話をしたあと、すぐに帰らなかったのはなんでなんだろう。
おせっかいだとはわかっていても、京平のことが頭から離れない。
今も、教室に戻れば京平はいる。
トイレの前にある手洗い場の鏡に、自分の姿が映った。
気の利いた言葉はかけられないかもしれない。でも、後悔はしたくなかった。
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