第9話
「京平、昨日の数学の課題解けた?俺全然わかんなかったんだけど見してくれない?」
「いいよ。アイスおごってね」
「またー!?俺今月だけでもう三回くらいお前にアイスおごってるんですけど!」
「あ、嫌なら別にいいですよ。課題自分で頑張ってくださーい」
「それは困る。すいませんでしたっ!」
私の視線の先では、クラスのムードメーカーの斎藤京平とその親友の相良想介がお決まりの会話を繰り広げている。いつもの教室の、いつもの光景。
あの日から、いつの間にか一ヶ月以上が経とうとしていた。
京平と私の、二人だけの秘密。内容が内容だが、京平は私を信頼して色んなことを話してくれた。
それは、あの日たまたま私があの場にいたからというだけのことかもしれない。私じゃなくても京平は、同じように接していたかもしれない。
それでも私は、京平が私に弱さを見せてくれたことが嬉しかった。京平のためならなんでもしてあげたいと心の底から思った。
それなのに―。
私と京平の間には、この一ヶ月の間、なにも起こらなかった。本当になにも。
京平はあの日、私に今度は私のリクエストを聞くと言ってくれた。その言葉を、社交辞令だとは思いたくなかった。だから私はあの日から数日間、京平からの連絡を待つことにした。
そしてある日気づいた。
京平と私は、お互いの連絡先を知らない。
誰かに連絡先を聞いたりすることができないわけではない。ただ、そんな行動をわざわざ起こすべきなのか。そもそも、連絡が来ないことがすべてではないかと思い始めた自分がいる。
先週の席替えで私の前の席になった京平は、プリントをまわすときに必ず後ろを振り向いてくる。
「はい、どーぞ」
「ありがとう」
なんでいちいちそんなことをするのかは、前に聞いたことがあった。京平がプリントを渡したときに、誤って後ろの席の子が手を切ってしまったことがあったらしい。
私からすればそれは後ろの席の子の過失だが、心優しい京平は自分のせいだと思ったようだ。
後ろの席の子に怪我をさせないように、京平は後ろを振り返るようになった。京平の優しい人柄は、そんなところにまでにじみ出ている。京平は、この人はほんとうに―。
「みんなごめん!次のプリント、教務室に置いてきちゃった。今すぐ取りに行ってくるから近くの人と問題出し合いっこして待ってて!」
先生の言葉で我に返る。
今日は私の隣の席の子は休みだ。そして、京平の隣の席の子も。となると―。
「黒川さーん、じゃあ俺から問題出しますよ」
目の前には、当然のように今日も元気いっぱいの京平の顔があった。この間のことなんて、本当になにもなかったみたいに。
「はい、どうぞ。お手柔らかに」
私の言葉に京平は一瞬ニヤついた。
「そういうこと言われると、難しいやつ出したくなっちゃうよね」
教科書をパラパラめくりながら、私への問題を探している。
「あ、これとかいいんじゃないですか?」
いい問題を見つけたようで、京平は顔をあげて私を見てきた。
「では、いきます。宗教改革を起こしたルターの著書は?これ言えたらすごいわ」
出された問題に驚いて顔を上げると、京平が私を試すように見ている。
「待ってそれ、教科書に載ってないよね?」
「うん、でも俺の教科書にはメモってある。さあ、わかるかな?」
「そんな…、えーっと、待ってね。あ、『キリスト者の自由』か。合ってる?」
私はこれを知っていたのは、前に偶然資料集で見かけたことがあったからだ。でも、京平がそれをあたりまえのように知っていたとは。
「正解。さすが黒川さん。すごいね、こんなのも答えられちゃうんだ」
京平は誰に対しても、相手が恥ずかしくなるくらい褒めてくれる。
「いや、でも京平だって知ってたじゃん」
「そっか、じゃあ俺もすごいんだわ」
その言葉を聞いた瞬間、脳内であの日の京平の声が再生された。
『そっか、じゃあ俺も優しいんだわ。』
あの日から、私の中で京平はずっと特別だった。京平がしてくれた話のほとんどは、今もはっきり覚えている。何度も、何度も思い出したから。でもそれはきっと、私だけ。
私ばかりがあの日の思い出にこだわって、私ばかりが京平のことを一方的に想い続けている。こんなふうに毎日が平凡に過ぎていっても、京平の人生はどんどん短くなっていって、私ばかりがそのことを勝手に気にしている。
「黒川さん、次は黒川さんが問題出してよ」
私の心のうちなんてなんにも知らないで、京平がせがんでくる。その、子犬みたいな目をキラキラさせて。
うんと難しいやつを出してやろうと思い、教科書をめくった。
これにしよう。
「では問題です。イギリスで宗教改革が起こったきっかけはなんでしょう?ちなみにこれ、教科書にはさらっとしか書いてないよ」
悔しがる顔を期待して、京平の顔を見る。
京平は、あごに手をあててじっと考え込んでいた。
「わかんない?いいよ、もっと簡単なやつ出そうか?」
私の言葉に京平は首を振った。
「いや、国王ヘンリ8世が離婚問題を巡って教皇と争ったのは知ってる。その、国王が別れたあとの新しい奥さんの名前が何だったけなーって思って。黒川さん、わかる?」
「え」
「ヘンリ8世のもともとの奥さんの侍女でさ、ほら、なんだっけ?なんて名前だったっけ?」
私が必死で覚えようとした知識も、京平の口からはするすると出てくる。
「えっと、アン・なんとかみたいなんじゃなかったっけ?」
「アン?あーっと、あ!アン・ブーリンか!ブーリンブーリン。そうだそうだ」
私の発言でブーリンをひねり出した京平は、すごく満足したようで、満面の笑みを浮かべている。反対に、私は戸惑っていた。
どうしてそんなことまで知ってるの。
「すごいよ、黒川さん!これ相当マニアックだもん。黒川さん、めっちゃ勉強してるでしょ?」
京平がまた私のことを褒めてくる。皮肉とかなしに、素で。
「京平だって、そんなことまで知ってるなんて相当勉強したんでしょ?」
私の言葉に、京平は嬉しそうに言った。
「うん。実はね、俺めっちゃ勉強頑張ってるんだ。特に世界史は」
「なんで?」
質問されたことが嬉しかったのか、京平の顔が明るくなる。
「俺、将来検察官になりたいんだよね。で、そのために絶対行きたい大学があんの。でもそこの世界史の問題がなんかわかんないけどめっちゃ難しくて。だから今のうちから頑張ろうと思って。俺、絶対受かりたいからさ。いや、絶対受かるから」
「そっか、すごいね」
京平の熱に圧倒される。
「ごめん、お待たせしましたー!今からプリント配りまーす!」
教務室から戻ってきた先生の大きな声が教室を鎮めた。
「じゃあ黒川さん、応援よろしくね」
茶目っ気たっぷりに言うと、京平は前を向いた。
京平が前を向いても、その笑顔は今もそこにあるみたいにはっきり目に焼きついたままだ。
なんだろう、この気持ちは。
私は特にやりたいことなんてないけど、とりあえず勉強を頑張ってきた。自分の意志でなにか選ぶだけの勇気がなくて、やっていたら褒めてもらえる勉強だけをただただ頑張ってきた。
なんとなくの言い訳が勉強しかなかった私と、いつ死んじゃうかもわからないのに夢に向かって頑張る京平。今頑張ったところで京平にとってそれは、なんの役にも立たないことかもしれないのに。
「はい、黒川さんどーぞ」
「ありがとう」
後ろを振り返った京平と目があった。幼稚園児みたいな屈託のない笑顔を向けてくる。その笑顔が誰かの心の中に、ずっと居座り続けるとも知らないで。
「なに!ほら、前向いて!」
「はーい」
白いうなじを見つめながら、またあの日のことを思い出してしまっている私がいた。
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