第8話
「ねえ、黒川さん」
イモムシにまたがったまま京平が私のことを呼んできた。
「なに?」
「黒川さんが今なに考えてたかあててあげよう?」
なぜか突然京平が得意そうな顔をして言った。
「え、なんで急に」
「なんか今の俺と黒川さん、おんなじこと考えてる気がしたから」
まっすぐな目で京平が見つめてくる。
これは、もしや―
「えっと、それはどういう意味かな?」
なるべく自然に聞こえるように気をつけたが、変に顔が笑ってしまっているのが自分でもわかる。
「いや別に、そのままの意味だけど」
京平は表情を変えることなく言った。この人の考えていることは、少なくとも私には全く読めない。
「いいよ、言ってみて」
ドクドクと胸を内側から叩いてくる心臓を無視して、私は京平のことを見つめた。
「じゃあ、言うよ」
「お、おう、言ってみろ!」
事前に宣言されたことで、変に構えてしまった。突然の私の男口調になにそれ、と京平が苦笑する。
「なんか緊張しちゃって」
「なんでよ」
「いいから早く言って」
京平はすうっと息を吸うと、静かに言った。
「あぁ、死にたくない」
「え?」
「あぁ、死にたくないなーって黒川さん、そう思わなかった?」
体に一気に冷水を浴びせられたみたいな、そんな衝撃が走った。京平の目には、うっすら涙が浮かんでいるように見える。
「京平…、大丈夫?」
とっさに私の喉をついて出てきた言葉はこれだけだった。これしか言えなかった。
「今思ったんだけどさ、このイモムシの遊び方とか、正直言ってどうでもいいじゃん」
京平の目から、スーッと涙が流れた。泣いていることを隠すかのように、無理やりつくった笑顔で話を続ける。
「でもさ、これから俺たち長くないんだって思ったら、なんかそんなことすらもどうでもよくないっていうか。他の、普通の人たちが、当たり前に過ごせるような時間も、もう俺らにはないんだなって思ったら、なんか、死にたくないなって思っちゃった。なんで俺らなんだろうね。俺たち、なにか悪いことでもしたのかな」
嗚咽こそ漏らさないものの、京平の声は頼りなくて、震えていた。Yシャツの袖を伸ばして、涙を拭う。拭っても拭っても、京平の涙は流れ続ける。
下を向いて話していた京平が突然顔を上げた。私と目が合う。目が合っても私は、なにも言えなかった。私は京平に、なんの言葉もかけてあげられない。
私がなにも言わないとわかると、一種の諦めのような表情を見せた京平は力なく笑った。
「ああ、なんかごめん。そんなこと言われてもね、黒川さんも困っちゃうよね。さっきからごめん、変なことばっか言って。でももう俺どうすればいいかほんとにわかんないよーっ!」
あ゛ーっと叫んで京平がイモムシの上に寝そべった。落ちるかと思い駆け寄るも、器用に足で体を固定した京平は空を仰いだ。
「なんか今日の俺、めっちゃかっこ悪いね」
「そんなことないよ」
「ほんとのこと言って」
「ごめん、かっこよくはないかも」
「毒舌」
「京平がほんとのこと言えって言うから」
京平が私の方へ顔を合わせてきた。いつも見おろされる側の私が、初めて京平に見上げられている。京平のまつげは、涙で濡れてキラキラ光って見えた。
京平はじっと私の顔を見つめたまま、なにも言わない。
「大丈夫?」
「強いね」
「なにが?」
「黒川さん。俺とおんなじはずなのに、いつもの調子となんにも変わらない」
京平のまっすぐな目に見つめられていると、自分がひどく悪いことをしているように思えた。
京平の言っていることは正しい。私がいつもと変わらない調子でいられるのは、私がいつもと変わらないからだ。これから先、京平にとってはどうでもよくなくなっていく時間も、私にとっては何も変わらない、どうでもいい時間でしかない。
そんな私の心のうちなど知る由もない京平は、再び空を仰いだ。
「俺、病院で余命宣告されたときさ、母さんに呼ばれたのかなって思ったんだよね」
京平の視線の先には、真っ白な雲が悲しいほどきれいな空に広がっている。
「母さんきっと寂しかったと思うんだよね。たった一人でリビングに倒れてさ。いつもなら俺一緒にいてあげられたのに」
「それは―」
「だから俺、喜ぶべきなのかもね。ずっと会えないと思ってた母さんにこんなにすぐ会えるんだもん。母さんもきっと嬉しいよ。俺だって、そう。俺だって」
京平はそうやって自分に言い聞かせることで、残酷な運命を受け入れようとしている。
見ていてすごく、苦しい。
「父さんも多分、俺がいないほうが本当は楽だと思う。あの人、仕事が一番って感じだし。それに―」
京平が言葉に詰まった。何かを考えているように見える。
大きく吸った息を、吐き出すように京平は言った。
「母さんが死んじゃったとき、父さん絶対俺のこと恨んだと思うから」
そう言うと、京平はじっと遠くの雲を見つめた。
なにか京平を安心させられる言葉をかけてあげたかった。それは違うよ、と京平に言ってあげたかった。
お母さんが亡くなって、二人家族になってしまった京平と、京平のお父さん。たった一人の家族の死を、京平のお父さんが望んでるわけがない。
でも―
「そろそろ帰るか。ごめんね、こんなところまでつきあわせちゃって」
「ううん」
結局私は、京平になにも言えなかった。
公園を出て京平と二人、肩を並べて歩く。
傍から見れば私たちはカップルにも見えるだろうが、実際はそんな関係じゃない。
今は隣にいても、あと数年もすれば京平は私の手の届かないところに行ってしまう。
その前に私は京平に何ができるだろう。
「黒川さん」
ふいに名前を呼ばれ隣を歩く京平を見ると、彼はまっすぐ前を見つめている。
「なに?」
「ありがとう」
「なに急に」
言葉を選んでいるのか、京平はなかなか次の言葉を発しようとはしない。
「…めちゃくちゃ不安なときに、そばにいてくれる人がいてほんとによかった」
「うん」
その瞬間、私の心の中を熱いなにかが駆け巡った。やっぱり私はこの人のためになにかしなければ。私がこの人のためにできることはなんでもしたい。
さっきの駅が見えてきた。言葉を交わすことなく二人で階段を登っていく。私の足音と京平の足音だけが響いている。
改札を通って出たホームには、私と京平の二人しかいない。
「あ、あのさ京平」
思っていたよりも大きな声が出た。少し裏返ってしまったが気にしない。
「なに?」
びっくりした顔で京平が私を見た。ホームに差し込んだ日の光に照らされた京平の顔は、やっぱりきれいでドキドキする。
「あの、私がもし京平のためになにかできることがあったら、遠慮なく言って。京平が不安なときはいくらでも話を聞くし、一人じゃ行けない場所があったら一緒に行くよ、約束する。あ、私なんかでよければの話だけど」
私の言葉に京平は嬉しそうな顔を見せた。
「なんか照れるわ。でも嬉しい、ありがとう。今日は黒川さんにつき合ってもらっちゃったから、今度は俺が黒川さんのリクエスト聞くね」
そう言って笑う京平の笑顔がまぶしかった。
電車がホームに入ってきた。二人で隣同士の席に腰を降ろす。
電車に揺られながら、他愛もない会話が続く。ことあるごとに京平は私のことを笑わせてきた。私が笑って、京平も笑う。こんな時間がずっと続けばいいのに。
「京平、ありがとね」
「いやいや、こちらこそ」
「私、今日だけでなんか京平とめっちゃ仲良くなれた気がする」
「それはそうかもね。色々言っちゃったし、かっこ悪いところもたくさん見られちゃったし。黒川さんがこんな感じの人だとは思わなかった」
「どういうことよ。私のこと、どんな人だと思ってたの」
「えー、なんかー」
電車がゆっくりと減速していく。ここで降りるつもりなのか、京平が駅のホームに視線をやった。
「京平、ここで降りるの?」
「うん、ごめんね。誘ったの俺なのに」
プシューと音を立てて、電車が止まった。
「黒川さん、今日はありがとね」
「いえいえ、こちらこそ」
「今日のことは、これでお願いします。」
そう言って京平は人差し指を唇にあてた。
「じゃあ、私の話もこれで。早く行きな。電車動いちゃうよ」
「そうだね、ありがとう。じゃあ」
「うん、じゃあまた明日学校で」
京平が降りるとすぐに、電車のドアが閉まった。私のほうを振り返ることはないまま、京平は人混みに混ざって改札へと歩いていく。
私は勝手に京平に、なにかを期待してしまっていたのかもしれない。彼に、私という存在を見てほしかったのかもしれない。でも、結局私が勝手に思い上がっていただけだ。
電車が動き出す。
その瞬間、京平が私の方を振り返った。小さく、でも確かに、手を振ってくれた。
私も振り返そう、そう思ったときには京平は再び私に背を向けて歩き出していた。
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