第3話
午前中のなんとも言えない時間帯、病院前に止まるバスの本数は少ない。駅に向かって少し歩こうかという私の言葉に京平はうなずいた。
私たち二人の間には、先ほどとはまた変わった重い空気が流れている。
私は、自分で自分が情けなかった。もし私がこの道を一人で歩いていて、視力が悪くなくて女の人の存在に気が付いたとしても、きっと私は京平のようには動くことはできなかっただろう。さっきだって、本音を言えば逃げ出してしまいたかった。
あんなに目の前で人が苦しんでいたのに、京平に言われるまで私はなにもできなかった。私は―
「ねえ、黒川さんってなんか動物飼ってる?」
唐突に京平が話しかけてきた。重い空気が流れていると思っていたのは、どうやら私だけだったようだ。
「え、飼ってないけど…なんで?」
「なんか俺んちの犬に似た匂いがするから」
「なにそれ、臭いってこと?」
「いや、ごめんそんなつもりじゃ…、てか俺んちの犬臭くないからね!」
京平の慌てた言い方がおかしくて、思わず声を立てて笑ってしまう。
その瞬間、京平が小さく「よかった」と言ったのが聞こえた。
ハッとして京平のことを見るも、京平はいつも通りの様子でまた話を続ける。きっと無意識に出た言葉なんだろう。やっぱり京平は、こういう人だ。
「ねえ京平ってさ、」
「なに?」
「人と話すとき何考えてんの?」
「俺?なにも考えてないけど、なに急に」
「いや、なんか京平ってすごいなって思って」
「俺が?やだー、なーんか照れちゃうわ」
私がなにを訊いても、なにを答えられても京平のほうが一枚上手な感じがする。それは京平の計算なのか、それとも天性のものなのか。私にはわからない。
「なんで京平私のこと誘ったの?」
「誘ったって言い方はおかしくない?行き先一緒なんだから普通一緒に行くでしょ」
そう言うとすぐに、京平はにかに気がついたように私のことを見てきた。
「あ、もしかして嫌だった?」
「違う、そんなことはないんだけどさ。あ、バス来たよ乗ろう」
私たちの後ろから走ってきたバスが停まった。京平に譲ってもらって私が先に乗る。
昼間のバスにはお年寄りが三人乗っているだけだった。一瞬迷うも、バスの後ろ側の二人掛けの席に座る。当然のように平は隣に座ってきた。意識すまいと思っても、京平の制服から漂う柔軟剤のいい匂いが鼻腔をついてくる。
私がさっき変な質問をしてしまったせいか、京平はなにも喋らない。バスが駅に着くまではまだ二十分近くある。この空気をどうすればよいのか。迷った末、私は京平のことを褒めることにした。
「さっき京平さ、めっちゃ冷静だったよね」
「さっき?あぁ、あの妊婦さんの?」
「そう。私こわくて固まっちゃったのに京平すぐに駆け寄ってさ、すごいと思った。ああいうことって、なかなかできることじゃないよね。ずっと落ち着いてたし」
「そう?俺正直パニックだったよ」
「嘘だ」
「いやほんとほんと!だってあそこで赤ちゃん生まれちゃうかもしれないし、俺のせいでもっと大変なことになっちゃうかもしれなかったし」
「そうなの?」
「そうだよ。俺、血とかめちゃくちゃ苦手だし。医療系のドラマとかも絶対見れないもん。でも、他に人いなかったから」
あの場で私が見ていた京平は、落ち着いていてパニックなんて微塵も感じられなかった。でも、そうだったんだ…。
「京平、かっこいいね」
自分でも驚くほどまっすぐに口から出てきた言葉は、京平にしっかり届いたようで、一瞬京平の頬がほんのりと色づいたような気がした。なぜか急に恥ずかしさがこみあげてきて、自分のまで体が熱くなってくる。
ふふっと笑った京平を見ると、もう京平はいつも通りに戻っていた。わかりやすく、どや顔をして見せる。
「そっか。また俺のファンが増えちゃったかー」
私が気まずい思いをしないように、おどけてみせているのが見え見えだった。その温かさに、思わず私の頬も緩む。
私がなにを言っても、京平は優しい。その京平の優しさを、試してみたくなった。
「あのさ、」
「ん?」
「もしもだよ?もしも、私が病気であと少ししか生きられないとしたら京平はどうする?」
怪訝そうな顔をして京平が私のことを見てくる。二人がけの席では少し体をこちらに向けただけでも顔が近くなる。まっすぐな目に見つめられると、自分がとんでもなく悪いことをしてしまったように思えた。
でも、その答えを知りたがっている私を無視できなかった。
「それは今日黒川さんが病院にいたことと、なにか関係があるの?」
珍しく真剣な面持ちで、ゆっくりと言葉を紡ぐように京平が尋ねてくる。
「いや、ほんとにもしもの話。一個のネタみたいな。ほら、まだ駅まで時間あるしさ」
不自然にならないよう気をつけながら、京平の様子を伺った。
「ネタねー」
どこかほっとしたように呟いた京平は顔を前に向けると、真剣に考え始める。
「えー、でも俺は普通に過ごすかな。今までと同じように黒川さんにおはよって言って、今までと同じように話しかけるよ」
「そっか、なるほど」
自分でもなんでそんなことを聞いたのかよくわからないが、京平の答えに納得した。私と京平はただのクラスメイトでしかないのだから、その答えが一番正解だろう。
「あ、でも、え?そのこと知ってるのクラスで俺だけみたいな感じ?」
「あーそうだね。じゃあそういう設定で」
「なるほどねー」
そう言うとまた京平は考え始めた。こんなくだらない質問にも真剣に答えようとしてくれることに感心する。
「やっぱ俺は黒川さんがやってほしいこと訊いて、それに協力するんじゃないかな?」
「ほんとに?」
「うん。だって俺だけ知ってるんでしょ?なんか不思議な状況だけど、多分それって俺に教えたくて教えたというかはバレちゃったみたいな感じじゃん。だったらなんかこう、お詫びっていうか償い的な?」
「償いって」
笑いながら思った。そうか。京平は私の言うことを聞いてくれるのか。
一瞬悪い考えが頭をよぎったが、流石にそれはよくない。
「黒川さんは?」
「へ?」
「黒川さんは、俺が病気であと少ししか生きられないって言ったらどうするの?」
京平が訊いてきた。まっすぐどこか遠くを見ながら。その声は小さくて、どこか頼りなく聞こえた。
「私はねー」
京平がそうやって訊いてくるのもわかる。私が変な質問をしたせいで、会話をつなげようと頑張ってくれているのだ。
自分は質問したくせに、同じことを聞かれると正直戸惑う。ここで変なことを言ったらますます気まずくなるのは目に見えているし、だからといって薄情だと思われてしまうのも嫌だ。
「私も、京平に協力しようかな」
京平の答えをそのまま拝借した。
「そっか、優しいね」
「京平だってさっきおんなじこと言ってたよ」
「じゃあ俺も優しいんだわ」
「そうだね」
また会話が途切れた。今日の私は何度も同じ過ちを繰り返している。
もうすぐバスが駅に着く。このまま墓穴を掘り続けるのはやめて、もう大人しくしよう。私は窓の外の景色を眺めた。ベンチに座るおじいさんが見える。
「黒川さん」
「んー?」
ふいに呼ばれて京平の顔を見た。子犬を連想させる二重まぶたの愛くるしい目は、まっすぐ遠くを見ている。
「俺も黒川さんに優しくするからさ、黒川さんも俺に優しくしてくれないかな?」
私の視線を感じているはずだが、京平はこっちを見てはこない。顔が強張っている。
「なに京平?どうしたの?」
少しの沈黙の後、掠れた声で絞り出すように京平は言った。
「俺、たぶんそんな長く生きられないからさ」
その言葉を聞いた瞬間、周りの音が一瞬私から遠ざかったように感じた。
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