第5話
炉神と私の逢瀬の場所であった村外の丘。その頂上の
「一体何をしに来たのです?」
双子の片方が身も蓋もない事を言う。
「あの板に用件は書きましたよ。まさか読んでいないんですか?」
そう言うと、口を開いた方は歯ぎしりをして、睨みつけてきた。私には見た目で区別がつかないが、感情的になりやすい彼女は妹で、チョウというらしい。
私は村長から預かった板に、双子と落ち合いたいと書いたのだ。
「炉神さまはどちらへおられるのです?」
双子のもう片方へ質問した。
「あなたの感知できないところにいます」
チョウに比べ、冷静で感情を見せることの少ない彼女は姉のマナ。彼女たちの名前と特徴は炉神から聞いていた。
「儀式はどうなるのです?」
「それは……」
双子は顔を見合わせた。神がいなければ当然ながら儀式は続行できない。その判断は炉神自身が下すことだった。双子は今後の方針については聞いていないのかもしれない。
「貴方がたは、炉神さまに何と申し付けられているのですか?」
双子がハッとするような表情をしてから、再び顔を見合わせる。
「貴方をお守りしろ、と」チョウが言う。
「いったい何からです?」
「炉神からです」とマナ。
「何ですって?」
マナは難しい顔をしている。
「炉神はそういう状態にあるのです。今は儀式の最終段階です。この儀式に入った神は贄を食すために獣性をあらわにします。どんな穏やかな神でも関係ない。今は文字通り、獣のような状態なのです」
儀式にはそんな仕組みがあったのか。炉神が贄を喰らうことを拒んだとしても進行するわけだ。よく出来ている。
「それでしたら、私は神を受け入れるだけです。何故、貴方がたに私を守るように言いつけたのです?」
「炉神は貴方を食すことを拒んでいるのです」とチョウ。
「そんな……。それじゃ儀式は台無しじゃないですか」
「その通り。私たちも継続してほしいという思いはあるのですが、神はかたくなでして。今、貴方の前に出れば、何をするか分からないと申しておりました。だから消えたのです。そうしていても、獣欲に抗えずに、最後は貴方に襲い掛かり、食い殺してしまうかもしれないと。だから、私たちに貴方を守るようにと言ったのです」
「このまま現れないつもりですか?」
双子は再び顔を見合わせる。しばしの逡巡の後、同時にこくりと頷いた。
「おそらく」
「このままでいたら、彼はどうなるんです?」
「消滅します」とマナ。
「消滅?!」
「この儀式は贄を犠牲とする事が前提です。贄を食すための体を顕現させ、最終的に食らい、また元の体に戻る。贄を食さなければ、それは叶いません」
「人の体で居続けることは出来ないんですか?」
「出来ません。今、人の体を保っているのは、儀式中の例外的なものです。神は本来観念的なもの。人の身には留まれないのです」
「……」
分かっていて炉神は自滅するつもりなのか。
「分かりました」
私の言葉に双子は少し落ち着いたように見えた。
「彼に会わせて下さい」
双子は三度顔を見合わせた。
「貴方は話を聞いていましたか?」とチョウ。
「勿論聞いていましたよ」
私は微笑んだ。
「私と炉神さまはもう夫婦なのです。夫が勝手に決めたことに、妻である私が従うつもりはありません。彼に会わせて下さい」
「ご自分が何を仰ってるのか分かっているのですか?」
「勿論ですよ」
「炉神は貴方を犠牲にしたくないから……」
「そんなことは知りません」
「何を言っているのです?」
「私はその時が来たら受け入れると言ったんです。それなのに勝手に行動されたら堪りません。貴方がたこそどうなんです? どうでもいい小娘よりも炉神さまを助けたいんじゃないですか?」
「それは……」
「私は大切なもののためなら行動することに躊躇いません。貴方たちは何を選ぶのですか? 私ですか? 炉神さまでなくていいのですか?」
二人は押し黙り、また顔を見合わせた。そのまましばらく時が流れた。
やがて二人は前を向き、私に向き直った。それまで萎縮していたようなものから一転、何かの覚悟が瓜二つの顔に宿っていた。そして──
「マナ! チョウ! よせ!」という叫びとともに、虚空から大男が出現していた。今までずっとそこにいたのに、隠れていたらしい。
穏やかな優男である炉神とは似ても似つかぬ、毛むくじゃらの体、ぼさぼさの頭髪、血走った目。だが、私には男が炉神であることがひと目で分かった。
「炉神さま!」
気付けば、体が勝手に駆け出していた。
私の姿を認めた炉神は驚愕していた。
怯えた、という方が正しいのかもしれない。無理もなかった。贄が目の前にいるのだ。
「よせ! ミチ! 今の私に近付くな!」
大男は逃げようとしていた。そうはいかない。私は速度を早めて、彼の懐に飛び込んだ。
「駄目だ!」という炉神の叫びは途中で潰えた。私が彼の股間を蹴り上げたからだ。
彼は絶句しながら私を凝視していた。私が彼に抱き着くとでも思っていたのだろう。防御の姿勢は全く取れず、私の蹴りは面白いように急所を直撃していた。
走り込んだ勢いまで上乗せされているから、ダメージは相当なものだ。
だが私はそれで終わらせるつもりはなく、悶絶している炉神の股間をさらに二度、三度と蹴り上げた。
言葉にならない呻きをあげている神の脇腹に、今度は左の拳を叩きつけた。肝臓へのダメージで、体がくの字に曲がる。さらに私は踏み込み、ガードがお留守になっている顔面に右のオーバーハンドを叩き込んだ。神は一瞬動きを止めた後、前のめりに倒れた。神すらKOする即死コンビだった。
神の家を住まいとしてから私がやっていたこと。神に喰われそうになったら、逆に叩きのめす。そのための鍛錬だった。
「炉神さま!」
双子が大男に駆け寄ろうとするのを、私は手を挙げて牽制する。
「何をやっているんです、この娘! お前なんか神に捧げる前に私が食ってやりますよ!」とチョウ。
「同意です」とマナ。
私は微笑んだ。
「貴方がたの気持ちも分かりますが、夫婦の再会の場面に水を差さないでもらえますか」
双子を睨みつけながらそう言うと、私は倒れている大男の胸倉を掴んで、引き起こした。
「どうして約束を破ったんです?」
「……約、束?」
「忘れたなんて言わせませんよ。貴方の贄としてずっと側にいさせてくれって、そう言ったじゃないですか」
「すまん、ミチ。私はそれが出来ない体になってしまった」
「そんなこと関係ありません。約束は約束です。守ってもらわなきゃ困ります」
「そんなことで?」という声が聞こえた。私は激昂して声の主であるチョウを睨みつけた。
「そんなことですって?! 炉神さまと残された時間を精一杯過ごすこと、それが私の幸せだったんです。それがある日突然奪われました。こんな理不尽なことってありますか? 私の幸せを奪うなんて、そんな権利、神様にだってありませんよ!」
「すまなかった、ミチ。私が悪かった。殴られても仕方ないな」
「分かってくれればいいんです」
私たちは抱き合った。私たちの様子を見て落ち着いたのか、双子は姿を消した。二人きりにしてくれるらしい。
「今は大丈夫なのですか? 私を食べたいという欲の方は?」
大男は苦笑いした。毛だらけの顔に浮かぶ皮肉そうな微笑み。姿形は変わっても、炉神は変わらない。
「ミチに殴られたせいか、そんな気分は吹き飛んだようだ。それとも妻の方が獣に近いと分かったので、摂取することをこの身が諦めたのかもしれない」
私はファイティングポーズをとった。神は観念したように、両手を顔の高さに挙げ、首を振った。
「それでこの先どうするのです? 本当に自滅されるおつもりですか?」
「君と離れている間、私も色々考えた。やはりそれが最適解だと思う」
「ですが、私を助けるために貴方が消滅するとしても、それは私を助ける事にはならないのです」
村長の家に出向いた時、私は用件を済ませても、すぐには消えなかった。
私の訪れる前、村長は誰かと会話を交わしているようだった。私は帰ったとみせかけて、足音を忍ばせて村長の家に戻り、聞き耳を立てた。そこで交わされた会話から知ったのは以下の情報だった。
神が姿を消し、儀式が中断したらどうするのか。その場合は人の手で生け贄を殺し、神に捧げる形になるという。儀式にとって最も重要視されるのは贄が神に捧げられたという結果なのだ。贄は神によって直接食される事が望ましいが、手段や過程はあまり考慮されないらしい。
勿論、村長らはそれを楽しく話していたわけではなく、会話には重い空気が漂っていた。
「成る程な。私のような心変わりを起こす神がいても、対応できるということだ。よく出来ている」
「関心している場合じゃありません。それでもこのまま消えるつもりなのですか?」
「そうだ。これは決定事項だ」
「だからそんな事をしても変わらないと……」
「ミチ、話は最後まで聞いてくれ。さっきの話だがな、解決法が実はあるんだ」
「解決法?」
「そもそも神に贄を捧げるという、この形態、システムが問題なんだ」
神は一体何を言っているのか。
「だが、古くから行われてきた伝統で、それに対する信仰は強固だ。簡単には変えられない」
話の筋道が分からない。
「だから、私はこの神に贄を捧げるシステムを変更しようと思う」
「そんなことが出来るのですか?」
「前に話しただろう。受肉した私の体は願望器のようなものだと」
確かに聞いた。私を生け贄にせずに済むかもしれない、と神が言った時のことだ。
儀式の月、炉神は生け贄に認識され、やがて人の形を取る。そして贄を喰らうことで、共同体に恵みをもたらし、その体は偏在する御魂に戻っていく。
儀式にはどうあっても贄という犠牲が必要なのだ。
「君の代わりに私の身を捧げれば、それが出来る。それでもなお、贄としての身代わりは必要だが」
「そうまでして、人間の世界に介入しなくとも」
「いいや、これこそ私の悲願なんだ。前にも言っただろう? 人の役に立ちたかったと。ならばこのシステムを変更するべきだ。君だけじゃない。贄として、人を神に捧げる風習は終わりにする」
私は彼の目を見つめた。そこには揺らぐことのない決意の光があるように感じた。どうあっても、私たちは共に居続けることは出来ないようだ。炉神が姿を消した時の、身を引き裂かれるような痛みが再びこみ上げてきた。
「私は貴方に食べられたかった。それが貴方と一緒にいる、唯一の方法だと思っていました」
「本当にすまない。ミチには寂しい想いをさせる。だが、君の存在があったから決断出来たことだ。君には多くを教えられ、多くを与えられた。その成果を今こそ活かしたい」
炉神は優しく微笑む。
「私も自分のなりたい自分を選ぶよ。私はミチを、そして人間を救いたい。私の憧れた、プロメテウスのように」
神がひしと、私を抱き締めた。気付けば獣の身ではなく、いつもの温厚な優男の姿になっていた。
「マナ、チョウ、用意はいいか?」
いつの間にか、そばに双子が現れていた。
「まさか私たちが神を下ろすことになるなんて。何たる皮肉でしょう」
「君たちもすまない。短い付き合いだったが、今までありがとう」
「本当に勝手な神様ですね」
神は最後に私の方を振り返った。
「さらばだ、妻よ」
三人の体が上空へと上がっていく。ある地点で停止すると、双子に変化が起きた。それぞれ大きな
私は目を伏せてしまった。サクサクという音が聞こえてきたので、手を当てて耳も塞ぐ。しばらくそうしていたが、今度は眩い光が到来して、思わず目を開けてしまった。
上空を見上げると、
一体何が起こったのか、私には分からなかった。
「儀式はこれで終わりです」
振り向くと、後ろに双子の姿があった。二人ともどこか暗い顔をしている。
「どういうことです?」
「炉神は自身を犠牲にして、儀式の形態を変えたのです」とチョウ。
「言葉で説明するのは難しい。村に戻ってみなさい」とマナ。
双子の言う通り、私は村に戻った。双子も私についてきた。話がまだあるのかもしれない。
家に戻ろうとして、私は驚いた。神と贄のための住まいはなくなっていた。代わりにそこには社があった。その祭壇には解体した鹿と、魚が捧げられていた。神が言っていた、人の代わりの生け贄らしい。
「どういうことです?」
私は衝撃のあまり、言葉を繰り返してしまう。
「炉神は自身が生け贄となり、現実を改変したのです」とマナ。
「現実を?」
まさしく神の如き力だった。
「待って。では、私は贄ではなくなったということ?」
「その通り」
「でも……そしたら、炉神さまと過ごした今までの日々も、なかったっていうこと……?」
「安心して下さい。炉神は現実を改変しましたが、本当に変えたのは人々の意識です。人を神に捧げるという、風習から決別させたのです」
「そんな事が可能なんですか?」
「炉神自身、情報思念体のようなものです。ですから自身を細切れにし、人々の意識に分け入り、今ある風習を古き悪しきものとしたのです」
「ですが、おかしいです。私は炉神さまの事を覚えています」
双子は顔を見合わせた。
「そうでしょう。炉神は貴方に自分を忘れて欲しくなかった。彼の細切れが入ってしまえば意識が変わり、彼を忘れてしまうでしょうから」とチョウ。
「そんな……」
何という皮肉。誰よりも彼との共存を望む私だけが、それを果たせないとは。涙が溢れ、嗚咽がこみ上げた。双子は私を優しく抱いてくれた。
「落ち込んでばかりもいられないですよ。彼の残したもの、それを守る義務が貴方にはあるのですから」
チョウが言いながら、私のお腹に目をやった。
「貴方がたはこれからどうするのですか?」
双子は困った顔をする。
「どうするもこうするも炉神自身、存在しなくても良くなってしまいましたからね。主を失ってしまいました。どうしましょう」
チョウはそこで、ハッとした顔を見せた。
「お姉様、ここだけの話ですが、いいですか? 未来の文化に漫画というものがあります。その中では英雄が死ぬと、その相棒だったり、部下だったりがその名を襲名するんだそうですよ」
「成る程ね」
双子は私に向き合って、宣言した。
「今日からは、私たちが炉神となりましょう」
「いいんですか?」
「ええ。主の残したものを見届けなきゃいけませんから」
確かに双子の指摘する通りだった。だが、今しばらくは炉神を失った悲しみに浸っていたかった。私は文字通り、半身を失ったのだ。
それから歳月が流れた。
私は炉神に救われ、自分の身代わりに動物を捧げることになったことに罪の意識を感じ、仏門に帰依した。尼となったのだ。
尼として活動するのは中々に大変だ。都ならともかく、こんな田舎で僧尼としての拠点を見つけるのは厳しかった。
だが、私を支えるものは確かにある。今日は久しぶりにそれを確かめる日だった。
村の家に戻ると、老婆が出迎えてくれた。
「お帰り」
返事の主は二人だった。老婆と幼児の声。
「ただいま」
老婆の後ろから男児が現れ、私に駆け寄って来る。彼は私の息子。そして、炉神の子。神の子だ。
尼となった後の一番の心配は息子のことだった。だが、出家して夫婦の縁が切れることはあっても、親子の縁が切れることはないと知った。私は尼として活動しながら、息子を育てていた。
私が尼として活動する間、老婆には息子の面倒を見てもらっていた。息子にとっては祖母のような存在だろう。
少し話をした後に、老婆は帰っていった。
「またあの人たちだよ」
息子の指差す方向を見た。
かつて神の家だった祭壇。その脇に炉神となった双子がいた。こちらに手を振っている。
後から知ったことだが、神霊的なものを見るには素質が必要だという。私と炉神の子供にはハイブリッドな才能が受け継がれているのだろう。
「あの人たちが、僕の叔母さんって本当なの?」
「本当よ」
子供は不思議だ。やたらと質問をするが、本質的な事には質問する前から気付いているように見える。
「じゃあお父さんもあんな感じだったんだよね」
「そうよ」
私は苦笑してしまう。これは親子の間で何度も交わしている会話だった。息子はこの話が好きなのだ。何度でも話してやろうじゃないか。
「とても不思議な人でね。お母さんを救ってくれたの。でもお父さんは私だけじゃなく、色んな人のことも救ってくれたの」
「誰だっけ? 遠い国の神様みたいに、だよね」
「そう、プロメテウス。彼はなりたかったと言っていた。プロメテウスのように」
息子は誇らしい顔をしている。私も誇らしかった。
炉神は消えた。だが、この世に残したものもある。その彼の忘れ形見とともに私は生きていく。
尼として生きていくのは大変だ。でもきっと大丈夫。ここには私たち親子を見守る神がいて、世界の何処かにも、わたしたちを見守ってくれる神様がいるから。
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