匂いの記憶 (冬の匂い)

帆尊歩

第1話  冬の匂い


玄関を開けると、圧倒的な冷気があたしを包む。

雪が降りつもり始めていた。

冬の匂いがする。

この匂いは十五年前に嗅いだ匂いだ。

十五年前、七歳の私とパパを置いてママがこの家を出て行った。

「じゃあ、パパと仲良くするのよ」とまるでちょっと旅行にでも行くような感じで、ママはスーツケースを持って玄関のドアを開けた。

そのとき私の鼻についたのが、今と同じ冬の匂いだった。

あまりに普通の感じだったので、私は何気なくママに聞いた。

「ママはいつ帰って来るの」

「ママはねもう帰って来ないの。じゃあね」と言って、ママは何の躊躇もなく家を出て行った。

私は雪の降りしきる外にむかって、

「ママ、ママ、帰って来て」と叫んでいた。

あるいは雪の中裸足で出て行って、ママの足に縋り付いていたら、ママは考え直してくれたのかもしれない。

でもその時の私はそこまでしなかった。

どこかでどうせ帰って来ると、たかをくくっていたところもある。


ママは男を作って、パパと私を捨てた。

それからパパと二人きりの生活。

パパは私を一生懸命育ててくれた。

足らないことも多かったけれど、そんな物もパパが私を愛してくれているという事実だけで十分補填できていた。

ただ一つを除いて。

パパはあんな仕打ちを受けてもママのことを愛していた。

パパが私の目を盗んで、ママが出て言ったことで泣いている姿を何度も目撃した。

パパのプライドのため、私はそれを見て見ぬ振りをしていた。

でもあんな女のためにパパが泣くことが許せなかった。

パパを苦しませるママのことも許せないけれど、あんな女のために泣くパパも許せなかった。


ママが痴情のもつれで、殺されたことを知ったのは昨日のことだ。

離婚も成立していたし、あれから一度も会っていないから全然分からなかったけれど、ママが殺されたと言うことはニュースで知った。

パパはそれなりにショックを受けていたようだけど、私はいい気味だというくらいだった。


玄関の外に出て冬の匂いをかぐ。

大嫌いなママの事を思い出そうというのに、思い出すのはママとの楽しい思い出ばかり。

楽しいといっても、公園に行ったとか、買い物に行ったとかそんな事。

ママはスーパーで カートを押している。

その横で私は小さな子供用のカゴを持って、やっと買って貰った、たった一つのお菓子がカゴに入っている事が嬉しくて仕方がなかった。

たまにママの足にまとわりつく、機嫌の良いときは優しくしてくれるけれど、機嫌の悪いときは足蹴にされる。

だから私はママの機嫌を伺うような子供になった。

あまりにも忌まわしい過去だ。

公園で滑り台ですべる。

他の子供はママから手を振られたり、スマホで写真を撮られたりして居る。

私の番になって、さあ滑ろうとしてママを探す、ママは一心不乱にスマホを見ている、私は、

「ママ」と大声でママを呼ぶ。

ママはめんどくさそうに一瞬だけ顔を上げると、まるで誰かに挨拶するように手を上げて、またスマホに目を落とした。

それでもその頃の私にとって、ママがこっちを向いてくれただけで満足だった。

なんて忌まわしい記憶だ。

あんな程度のことをありがたがっていた。

死んだなんていい気味だ、絶対に泣いてなんてやるものか。

涙すら流してやらない。

その時誰かが私の肩を抱いた。

「ママが出て行ったときも、こんな雪の日だったな」

「えっ、うん、そうだね」

「良いんだよ、泣いても。別にママのことを許さなくてもいい。昔知っていた女性が事件に巻き込まれて亡くなった。ただそれだけのことに涙したって、ママを許した事にはならないよ」

私はパパに抱きついて声を出して泣いた。

あんな女のために自分が泣いていることが腹立たしくもあり、自分を許せなかったけれど、パパに抱きついて、パパの温かさを感じながら、私はいつまでも泣いていた。

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匂いの記憶 (冬の匂い) 帆尊歩 @hosonayumu

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