第102話 浪人
「!」
かすれた悲鳴をあげた弥吉は、思わず二歩、三歩と前へ逃げると、そこで振り返った。
振り返った弥吉が見たのは、通路からゆっくりと出てくるゲンノウであった。
「ゲンノウのおじさん……」
「……弥吉か。
なぜ、ここにいる?
表の閂を外したのは、お前なのか?」
ゲンノウがそう問いかけた。
声の調子は以前のままだが、行燈の明かりが、ゲンノウの顔に揺れる影を作り、その表情が分からない。
怒り、表情を硬くしているようにも、小さな笑みを浮かべているようにも見える。
「お、おいら、御山に怪物が出たと聞いたんだよ……」
弥吉は、これまでのことをゲンノウに話した。
磐梯山に得体の知れぬ怪物が棲みつき、ふもとの村人、特に子供をさらい始めたこと。
それを知った父親が、弥吉に対して山に入ることを禁じたこと。
山狩りに向かった兵が怪物に遭遇し、鉄砲を撃ったが、それでも効かなかったこと。
山にいるゲンノウが心配になったこと。
そして……
「ゲンノウのおじさんなら、もしかしてランガクの力を使って、怪物を退治してくれるんじゃないかと思ったんだよ」
「蘭学の力で怪物退治か……。
くすぐられる話だのう」
含み笑いをしながら言ったゲンノウは、寝台の近くに敷いてあった板の上に座った。
正確には、数枚の板を敷き詰め、その上にむしろを敷いた一角があり、そこに座ったのだ。
寝台に腰掛ける男は、そのゲンノウを視線で追いながら「げんのげんのげんの……」と小さくつぶやいている。
「おいら、今朝、暗いうちから家を出て、ここにやって来たんだ。
あっちの小屋にゲンノウのおじさんがいなかったから、もしかして、こっちの洞窟にいるんじゃないかと思って……」
弥吉は、ゲンノウと男を等分に見ながら説明をした。
「それで、この洞窟へ、勝手に入り込んだと言うわけか……」
むしろの上に座ったゲンノウは、端に置いてあった薬研を引き寄せた。
薬研とは、船形をした小さな石臼で、ここに薬草などの薬材などを入れる。
その後、両側に軸のついた薬研車という円盤状の道具で、入れた薬材を挽き、粉末状の散薬にしたり、丸薬を作ったりするのである。
ゲンノウは懐から小袋を出すと、摘んできたらしい野草を薬研に入れ始めた。
並べられていた幾つかの小瓶からも、干したキノコや赤黒い肉のようなものを摘まみ出し、これも薬研に入れた。
薬研車を使い、ゴリゴリと薬材を挽き始める。
「……父は、ここに来ることを許したのか?」
薬研車を転がしながら聞いた。
視線は弥吉に向けず、手元の薬研に落としている。
「言えば止められるから、黙って来たよ」
「……誰か、お前がここに来たことを知っている者はいるのか?」
「いないよ」
「……そうか」
頷いたゲンノウは、薬研の底から挽いた薬材を取り出した。
摘んできたばかりの薬草から汁が出て、ほどよい粘りがある。
ゲンノウは、それを手の平の上で転がし丸薬にした。
「ねえ、ゲンノウのおじさん。
この人は誰なの?」
弥吉が問うと、ようやくゲンノウは顔をこちらに向け、ニヤリと笑った。
「三日前に町まで降りて、そこで雇うてきた浪人よ」
「お侍さんなんだね。
……雇ったって、もしかして、おいらが水汲みに来なかったから」
弥吉が言うと、ゲンノウは「わはははは」と楽しそうに笑った。
「水汲みに浪人を雇うなど、聞いたことはないわ」
「じゃあ……」
「弥吉がさっき言ったであろう。
蘭学で怪物を退治するために雇ったのさ」
ゲンノウが立ち上がった。
寝台に腰を掛けたままの浪人の正面に移動する。
「口を開けよ」
ゲンノウが命じると、浪人が大きく口を開いた。
開いた男の口の中に、ゲンノウは、今作ったばかりの丸薬を放り込んだ。
「飲め」
ゲンノウが命じると、男は口を閉じた。喉がごくりと動き、丸薬を嚥下する。
「ねえ、ゲンノウのおじさん。
この浪人さんは強いのかい……?」
弥吉は不安になって問う。
「どうであろうな。
たとえ強いとしても、刀で怪物を切り伏せることは出来まい。
だが、この男が弱くても別に構わぬ。
強くすればよいのさ」
答えたゲンノウは、壁際にある大きく奇妙な木箱を探り、側面に掛けていた二本の棒の内、一本手に取った。
すりこぎのようにも見えたが、そこまで長い棒では無い。
棒の中央を握れば、棒の先端と尻の部分が、拳の両端から少しはみ出るていどの長さである。
そして、その棒の先端からは針が飛び出していた。
三寸(約9cm)近い長さを持った鋭い針である。
さらに棒の尻には、長い紐が垂れていた。
その紐は、普通の紐には無い硬さがあるように見えた。だらりと垂れずに、緩やかな弧を作って垂れさがっているのだ。
紐の端は、大きく奇妙な木箱に繋がっていた。
「これは、芯に細い金属を巻き込んだ紐だ」
ゲンノウは弥吉に説明すると、再び浪人に近寄った。
「頭を下げよ」
ゲンノウがそう命令すると、浪人は上半身を前に折った姿勢になり、そこから頭を下げた。
ゲンノウの目の前に、浪人の後頭部が差し出されたような形になった。
それを見る弥吉の心拍があがってきた。
何か恐ろしいことが始まる予感がひしひしとする。
ゲンノウは両手に針の付いた棒を持ち、一体、浪人に何をするつもりなのか。
あの浪人は、それを承諾しているのか。
「ゲ、ゲンノウのおじさん……」
弥吉はかすれた声を何とか出した。
「何を……、何をする、つもりなんだい?」
「だから、さっきから何度も言っておろう。
蘭学で、怪物を退治するのさ」
そう答えたゲンノウは、左手で浪人の後頭部のあたりを探った。
頭と首の境い目あたりを念入りに探る。
「……ここか」
目当ての場所を見つけたのか、ゲンノウは満足そうにつぶやいた。
そして、右手の棒を近づける。
禍々しい針の先端が、浪人の後頭部に触れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます