第101話 弥吉


 弥吉は思わず息を止めて、後ろに下がった。

 「なんだ、この匂い……」

 このときになって、ようやくおかしなことに気づいた。

 怪訝な顔になり、右手に握ったままになっている太い棒を見る。

 洞窟を閉じる扉の閂を閉じていた横棒である。


 さっき、この横棒を抜き、外から閂を外したのだ。

 外に閂があること自体はおかしくない。

 番犬を洞窟内に閉じ込めていたのなら、外側から閂を掛ける必要があるからだ。

 しかし、自分は、この洞窟の中にゲンノウがいると思って、閂を外し、扉を開けたのだ。

 洞窟の中に入った人間が、外から閂を掛けることはできない。

 となると、外から閂を掛けたのは誰かと言うことになる。


 う、う、あああ………。

 あううう……。


 洞窟の奥からは、まだ呻き声が途切れ途切れに聞こえる。

 あの声の主はゲンノウなのだろうか。

 だとすれば、誰かが洞窟にゲンノウを閉じ込めたことになる。

 声の主がゲンノウ以外の者ならば、ゲンノウが誰かを洞窟に閉じ込めていることになる。

 

 「……誰なんだい?

 ゲンノウのおじさんじゃないのかい?」

 弥吉は鼻で呼吸するのを止め、もう一度洞窟に近づくと、中に呼び掛けた。


 う、は、う、うう……。

 い、ああ……。


 呻き声が反応するが、意味のある声では無い。

 そのとき弥吉は、洞窟の奥が明るいことに気づいた。

 ぼんやりと明るい。

 洞窟の奥の壁が光を反射しているのだ。

 どうやら、洞窟は少し奥で右に折れ、右に折れた先に光源があるようであった。


 太陽の光では無い。

 収穫前の稲穂のような色が、岩壁に揺れている。

 灯明か行燈の明かりのようであった。


 「……入るよ」

 弥吉は覚悟を決め、洞窟の中に声を掛けた。

 頭を少し下げ、閂の横棒を構えて洞窟の中をゆっくりと進む。

 口で浅く呼吸を繰り返すが、それでも嫌な匂いが濃密に漂っていることが分かる。

 

 弥吉は立ち止った。

 やはり洞窟の奥は右に折れていた。その方向から淡い稲穂色の明かりが差し込んでくる。

 そして、呻き声も届いてくる。


 あ、ううう……。

 い、あああ、ああ……。

  

 声は弱々しい。

 ……だいじょうぶだ。先に進め。

 弥吉は自分を励ます。

 ……ゲンノウさんなら、すぐに助けなきゃなんねえんだ。

 ……いけ。ほら。

 ……でも、ゲンノウさんじゃなかったら。

 弥吉はその先を想像せず、横棒を握りしめると、足を踏み出し、洞窟の角を曲がった。


 「……あ、うわ!」

 弥吉は思わず声をあげた。

 そこは弥吉が想像していた以上に、広い空間があった。

 いびつな形をしていたが、十二、三畳の広さはある。

 幾つかの行燈と灯明皿に灯された炎の明かりが、不規則な方向に延びる不気味な影を造り出していた。

 明りが充分とは言えないため、広間の奥や高くなった天井部分には闇が満ちている。

 しかし、さらに、どこか外部に通じているのか、わずかな風の流れが感じられた。

 

 その異様な空間の中央辺りに寝台が置かれ、そこに一人の男が腰かけていた。

 弥吉が声をあげたのは、その男に気づいたからであった。

 ゲンノウではない。

 擦り切れた丈が短めの袴をはき、腰には大刀を差している。

 月代は伸びた髪に覆われているが、髷は結っている。

 仕官先を探している浪人のようであった。


 「お、おじさんは誰?

 お侍さんなのかい?」

 弥吉は広間に一歩入った場所で足を止め、男に近寄らずに声を掛けた。


 「お、おおお……。

 あ、あ……」


 男が弥吉の声に反応し、顔をゆっくりと巡らせた。

 男は三十代中頃の歳に見えた。

 やや痩せ気味だが、病的と言うほどではない。

 ただ、反応がおかしかった。

 弥吉の方に顔を向けたが、こちらを見て、認識しているといった変化は見られなかった。


 「ゲンノウのおじさんの知り合いかい?」

 弥吉がたずねた。

 これで話が通じなければ、帰ろうと決める。


 この洞窟は禍々しい。

 寝台に腰掛ける男の様子が異常であるばかりではなく、寝台の周囲に積まれている木箱からは、なにかの汁が染み出している。

 そう言った木箱が、壁際にもいくつか置かれているのだ。

 腐臭は、その木箱から漂ってくるようであった。

 ここは長居をしていい場所では無い。


 「う、あ……。ん。

 ん、な、うううう」

 男は呻くだけで、やはり意思の疎通は出来なかった。


 弥吉が洞窟を出ようとした時、男の口から、呻き以外の言葉が漏れた。


 「あ、ああ、く……。

 げ、げげげ、げん、げんのう……」


 「ゲンノウって言ったのかい!?

 おじさんは、ゲンノウさんを知っているのかい?」

 弥吉が驚いたとき、さらに驚くことが起こった。


 「おい」

 弥吉の真後ろから声がしたのだ。

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