第100話 洞窟へ


   ◇◆◇◆◇◆◇


 弥吉は静かに家を出ると、立て付けの悪い引き戸を慎重に閉めた。

 真っ暗な家の中では、母が妹のトミに添い寝をし、父が大きなイビキをかいている。

 

 よし……。

 おいらが外に出たことは気づかれていない。

 閉めた引き戸の向こうから聞こえてくるイビキの調子が、まったく変わらないことを確認した弥吉は、磐梯山の方に顔を向けた。

 濃い藍色の空に、真っ黒な山の形が溶け込んでいる。

 弥吉は、その真っ黒な山に向かってあぜ道を駆け出した。

 仔犬のように、どんどんと走っていく。

 夜が明けるのには、まだ時間があった。


   ◇◆◇◆◇◆◇


 山に入ると暗さが増した。

 走る速度を落とした弥吉は、前方を透かし見るようにし、通いなれた道の様子を透かし見た影に重ね合わせながら進んだ。


 時折、イタチかキツネの走る音が、そばの斜面から聞こえてくる。

 恐ろしいが、足を止めない。

 噂の怪物なら、もっと大きな音を立てるはずだ……。

 弥吉はそう考えることで、怖気づきそうになる自分を押さえこんでいた。


 そして、ついに弥吉は、ゲンノウの洞窟小屋へとたどり着いた。

 見上げると、空の明るさが増し始めている。

 周囲の木々も黒い影ではなく、近づいて見ると、幹の表皮が確認できるほどには明るくなっていた。


 弥吉は洞窟小屋に近づくと、出入り口を閉ざしているムシロに向かって声を掛けた。

 「おじさん。

 おいらだよ。弥吉だよ」

 しかし、返事はない。

 「ゲンノウさん」

 もう一度呼ぶが、やはり返事は無かった。


 弥吉はムシロをそっと持ち上げると、中を覗き込んだ。

 暗い。明かりは無いため、ほぼ真っ暗である。

 しかし、洞窟内は狭いために、持ち上げたムシロの隙間から入る、ほんのわずかな外の明かりで、その様子を確認することはできた。

 石を積んだ囲炉裏や、食料や水を蓄えている甕、その向こうにある寝床は、以前のままであった。だが、ゲンノウの姿は無い。

 

 こんな時間にいないなんて……。

 ムシロを降ろし、外に突っ立った弥吉は、ゲンノウの身を案じた。

 もしかして、外に出ている間に、噂となっている怪物に出遭ってしまったのかも知れない。


 いや、待てよ。

 と、弥吉はもう一つの洞穴に視線を向けた。

 組んだ木々で出入り口を塞いだ洞窟である。

 ゲンノウは、この洞窟を犬小屋と呼び、熊よけの犬を三頭飼っていると言っていた。

 

 「……こっちの穴か」

 弥吉は小さくつぶやいた。

 おそらくゲンノウは、怪物を警戒し、こちらの洞窟で番犬と共に眠っているのだ。

 

 弥吉は木で組まれた扉を調べた。

 扉は手前に開く構造になっていた。洞窟の両側に太い杭が打ち込まれ、扉は、向かって左側の杭に、蝶番状の仕組みで固定されている。

 蝶番の歴史は古く、すでに奈良時代から使用されていた。

 ただ、この扉の蝶番は金属ではなく、太い蔓と綱で輪を作り、そこに扉の枠となる木材を通した形となっていた。

 扉は向かって右の杭に、閂型の錠を使って固定されている。


 弥吉は閂の横棒を外す前に、扉に口を近づけて声を掛けた。

 「おじさん、弥吉だよ」

 さっきの洞窟小屋と同じく返事は無い。

 犬小屋と言っていたが、弥吉の声に、中で犬が反応した気配もなかった。

 

 「ゲンノウのおじさん!」

 弥吉がもう少し大きな声で呼びかけたとき、かすかに反応があった。


 あ、あああ、あ……。

 ああああ……。


 それは言葉ではなく、呻き声に聞こえた。


 「おじさん!」

 もう一度呼び掛けると、また呻き声が帰って来た。


 う、ううう、う……。

 うううう……。


 言葉にはなっていないが、弥吉の声に反応している。


 「開けるよ!」

 そう言った弥吉は、閂から横棒を外した。

 力を込めて、扉を引いた。

 扉は開き、洞窟が姿を現した。

 大人が背を屈めて入ることが出来るほどの穴である。

 

 ……!

 弥吉はその匂いに気が付いた。

 洞窟内から、腐臭が漂い出てきたのだ。 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る