第99話 天明二年


 磐梯山は標高1800メートルを超える。

 東は、赤植山、櫛ヶ峰に連なり、猪苗代湖に面した南は表磐梯、美しい五色沼を有した北面は裏磐梯と呼ばれる。


 この年、天明2年(1782年)、広大な山裾に点在する村々で、多くの人々が行方不明となった。

 特に子供の数が多い。

 山から下りて来た異様な怪物が、子供をさらっていったという目撃証言もあった。

 しかし、当初、この事件に対して、会津藩の動きは鈍かった。


 「間引きであろう」

 役人たちは、その一言で片づけてしまったのだ。


 理由はある。

 天候不順が何年も続いている上に、会津では前年(天明元年・1781年)、大雨の日が多く、洪水、山崩れによって、大きな田畑の被害が出たのだ。

 ただでさえ良くなかった食糧事情はさらに悪化し、あちこちの村で間引きが行われた。

 働き手とならなくなった老人たちが磐梯山の奥に捨てられ、幼い子もまた命を絶たれたのである。


 「年号が変わったからと言って、食糧事情が好転した訳では無い。

 食う物の無い農民どもは、前年同様、口減らしを続けておるのであろう」

 「領民は殿のものである。

 勝手に間引き続けては、お咎めがある故、行方不明としておるのか。

 哀れなことだ……」

 「他人事ではないぞ。

 こう天気が乱れては、いずれ、我々藩士も厳しくなる」

 会津藩だけではなく、福島、山形、米沢、仙台、盛岡、弘前、八戸など、東北の各藩は、食糧不足への警戒を強めていた。

 そして、この予想は的中してしまう。


 天明2年から、東北一帯は極端な暖冬に襲われ、不作が続いていた農作物は、さらに深刻な被害を受けたのだ。

 江戸四大飢饉の中で、最悪と言われる『天明の大飢饉』が始まるのである。

 後に杉田玄白は、世間に警告を発する『後見書』にて、この『天明の大飢饉』にも触れている。飢餓と疫病、逃散によって、東北は地獄の有様になったと言う。


 しかし、まだこの時点では、不作による影響はあっても、農民たちは細々と食い繋ぎ、日々を過ごしていた。

 藩主、領主は見誤っていた。

 磐梯山一帯で農民たちを脅かすものは、食糧不足ではなく、山から下りてくる得体の知れない怪獣であったのだ。


 領主に対し、各村から怪物退治の要請がひっきりなしに届き始めた。


   ◇◆◇◆◇◆◇


 弥吉は幼い妹のトミをあやしながら、囲炉裏の向こうから聞こえる父と母の会話を盗み聞いていた。

 「名主ン所の会合で、御山の怪物の話を聞いたわ」

 父の苦々しい声が届く。

 「どうなったの?」

 母が不安そうに聞く。


 「領主様が重い腰をあげ、兵を引きつれて山裾を見回ったんだと。

 そうしたら、何と初日に、あの怪物と遭遇したらしいわ。

 昼の最中のことだ。

 あの怪物は、人間をこれっぽっちも怖がっておらん」

 「……怖いわ。

 でも、兵を連れていたんなら、退治してくれたのよね」


 「領主様は兵たちに鉄砲を撃たせ、何発かは命中したのだが、怪物は慌てもせず、山の中へ戻っていったと言うことだ」

 「それじゃあ、まだ怪物は、御山に潜んでいるの」


 「名主は、殿様が山狩りの用意をしとるから、もうしばらくの辛抱だと言っておったが……。

 上手く仕留めることが出来れば良いが、鉄砲の玉も効かんとなるとなあ」

 父が溜息をつく。


 弥吉は両親に背を向け、トミの小さな手に自分の指を握らせながら、ゲンノウのことを思い出していた。

 ゲンノウさんは、大丈夫なんだろうか。

 まさか、怪物に殺されたりは……。

 ……いや、ランガクシャなら、怪物を退治する方法を知っているかも。

 

 あの不思議な人物。ゲンノウの身を案じる気持ちがある。

 が、それと同じぐらいに、ゲンノウなら、怪物を何とかしてくれるのではないかという期待もある。


 怪物を追い払うことが出来れば、父も母も村の人々も喜ぶだろう。

 安心して田畑で働くことが出来る。

 山の幸を採りに行くことも出来る。

 

 おらは、山には詳しい。

 怪物に追いかけられても、木に登って、沢を飛び越えて、逃げ切る自信はある。

 行くか……。

 父ちゃんに叱られるけど、上手くいけば、大丈夫だ……。

 山菜か沢ガニを取りに行ったと言えば……。

 夜が明ける前に、そっと出て……。

 やれる。

 村のみんなのためだ。

 

 弥吉はゲンノウに会いに行くと決めた。

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