第92話 鞭
「佐竹様。
その鞭で、私の肩を強く叩いてくだされ」
後藤は改めてそう言った。
鞭とは佐竹が手にしていた、二尺(約60cm)に少し足りない藤巻きの馬鞭である。
「な、なぜだ?」
驚いた顔で佐竹が問う。
「この場をおさめるためです。
私を打ち据えた後、藩士たちに向かい、解散を命じてください。
そして、人魚の骸は、すべて奉行所が処理をすると」
「し、しかし……」
佐竹はためらった。
本人の申し出とは言え、意味なく部下を打ち据えることは出来ない。
「このままでは騒ぎが大きくなりますぞ。
そうなれば、御奉行にも迷惑が掛かります」
「……分かった」
鋭くなった後藤の声に押され、佐竹は腹を決めた顔つきになった。
そして、鞭を振り上げ、後藤の左肩にビシリと叩きつけた。
後藤は、呻き声をあげて片膝をつく。
そして佐竹は、藩士たちに顔を向けた。
表情は厳しい。
よく分かってはいないが、信頼する部下を馬鞭で叩くことになった原因のひとつは、この藩士たちにあることぐらいは察している。
その怒りが表情に現れていた。
「各々方、お役目ご苦労である!」
佐竹は大きな声で告げた。
「人魚の多くは、濠へ逃げたと聞いた。
が、そこもとらの被害は甚大であるとみえる。
このまま人魚討伐を続けられるとは思えぬ。
一度、屋敷へ戻り、江戸家老の指示を仰いではいかがか?」
与力である佐竹は、藩士たちに命令を下す立場にはない。
そのため提案と言う形で告げた。
家老とは、各藩の実務を総括する重臣のことである。
領地で職務に就く家老を国家老、江戸屋敷に詰める家老は江戸家老と言う。
「人魚の骸は、すべて奉行所へと運ぶ。
異論は無いな」
続けてそう言った佐竹は、じろりと藩士たちを見回した。
藩士たちは表情を硬くしたが、上役らしき何人かが前に出ると軽く頭を下げた。
「異論はございません。
ただ、濠に沈む藩士の遺体もございます。
出来る限りの回収を行わせていただきたい」
この言葉を聞いた佐竹の表情が変わった。
痛ましそうに眉を寄せ、深く頷いたのだ。
「それについては、奉行所からも人手を回そう。
お役目によって命を落としたのだ。
丁重に弔わなくてはならん」
「ありがとうございます」
佐竹の言葉に上役が頭を下げ、他の藩士たちの視線からも険が消えた。
「……藩士たちは退いたな」
それを見ていた景山がつぶやいた。
「後藤。お前が鞭で打たれる意味はあったのか?」
膝をついた後藤に手を貸し、景山が怪訝な顔で問う。
「当然だ。
俺たちの話のみで、佐竹様が藩士たちに解散を命じ、人魚は奉行所が回収すると告げたら、どうなっていたことか……」
後藤は説明を始めた。
「おそらく集まっている各藩の藩士たちは、同心の俺たちが自分の都合の良いように話を作り、それを鵜呑みにした与力が、居丈高に命じてきたと思うであろう」
「俺たちは、自分に都合の良い話などはせぬ」
景山が気真面目に返す。
「分かっておるわ。
あくまで藩士がどう思うかの話だ」
後藤は苦笑した。
「よいか、そうなれば、反抗する血の気の多い藩士も出てくるであろう。
外様大名の藩士から反抗されれば、佐竹様は激怒しよう。
結果、収拾がつかなくなる」
「……うむ」
その場面を想像したのか、景山が頷いた。
「しかし、佐竹様が、俺を鞭で打てばどうなるか。
藩士たちは、何かしらの処罰を同心に下したと想像するであろう。
目の前で与力が部下を罰した後、解散、奉行所による人魚の回収を告げるのだ。
これは逆らうことができるものではない」
「……そうだな。
その状況で藩士たちが騒ぐことになれば、藩主にまで累が及び、下手すれば、藩のお取り潰しもあるかも知れぬ」
頷いた景山は、後藤に呆れたような目を向けた。
「しかし、おぬし、あの瞬間で、よくそこまで考えつくものだな」
「時間があれば、もっと良い手を思いついたさ」
後藤が返す。
「どんな手だ?」
「……そうだな、佐竹様に、こう言うのだ。
『佐竹様。その鞭で、景山の肩を強く叩いてくだされ』とな」
「……」
後藤がいたずらっぽい笑みを口の端に浮かべて言うと、景山は嫌な顔をしてみせた。
「まあ、俺がしたのは、ただの小手先だ。
藩士たちがおさまったのは、やはり佐竹様の徳であろうさ」
後藤は、濠の方に視線を向けた。
他の同心たちが、手下や小者を連れて集まっていた。
佐竹の采配によって、そのうちの半数は濠から藩士の遺体を引き上げる手伝いを始め、半数は調達してきた荷車に、人魚の骸を乗せていた。
その様子を確認した後藤は、徳蔵を捜した。
……いた。
徳蔵は野次馬の最前列に立ち、こちらを見ている。
徳蔵の横には、平賀源内を見たという男がおどおどとした顔で立っている。
「……なに!
源内を見た者がいたのか」
景山から説明を受けたのであろう、後から驚く佐竹の声が聞こえた。
「おい」
後藤は近くにいた、小者を呼んだ。
「あそこの商家に行き、座敷をかりてくるのだ」
そう命じた。
与力の佐竹が現れたからには、道端で立ったまま話を聞くことはできない。
それから、徳蔵に向かって手招きをする。
徳蔵は頭をひとつ下げると、男を連れて、こちらへと近寄ってきた。
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