第91話 骸
人魚が一斉に、濠へと逃げ去った後のことである。
生き延びた何艘かの小舟が岸に戻り、藩士たちが濠端にあがった。
そこで、転がっていた人魚の屍に刀を突き立てたのである。
憎悪の刃である。
これが発端となった。
「この化け物めッ!」
「くそッ!」
他の藩士たちも刀を抜き、手近に転がる人魚の骸に斬りつけた。
徳蔵と徳蔵の連れて来た男から、平賀源内の目撃情報を詳しく聞こうとしていた景山と後藤が、これに気付いた。
「待てッ!」
「勝手な真似をするな!」
二人は慌てて藩士たちの暴挙を止めに走った。
藩士たちの怒りは分かる。
人魚の群に、何人もの同僚を殺害されたのだ。
しかし、目の前の暴挙を見過ごす訳にはいかなかった。
見た目は人魚の化け物であっても、元々は人間で、自身とは関係なく改造された可能性も出てきたのである。
研水との約束もある。
何より、まだ息があり、尋問できる人魚がいるかも知れない。
「退けッ! 人魚に近寄ってはならん!」
「人魚の骸は、すべて町奉行で引き取る」
景山と後藤が藩士たちを制止した。
「なんだと」
血の気の多い藩士が、二人を睨みつけた。
「小舟に乗り、この化け物と戦っていたのは我らだ!
陸の上で震えていた同心風情が、偉そうなことをぬかすな!」
藩士の言葉に、景山の顔つきが変わった。
「景山……」
それに気づいた後藤が止めようとしたが遅かった。
「震えていただと?
人魚を斬り捨てたのは、我ら二人だ。
小舟で戦ったと勇ましいことを口にしたようだが、濠で人魚を討った者はいるのか?」
罵倒された景山は、痛烈な言葉で返した。
藩士たちは怒りで顔を歪めた。
景山の言う通り、水上での戦果は無いに等しい。
だからこそ、景山の言葉に激怒した。
「くッ……。
こ、小舟の上で戦う不利が分からぬのかッ!」
「こちらは、何人死んだと思っているッ!」
「人魚退治を命じられたのは、我らであるぞ!」
後藤の危惧した通り、景山の反論で藩士たちは引けなくなってしまった。
藩士をなだめつつ、人魚の骸を引き取ろうと考えていたが、もはや、話し合いのできる空気ではない。
景山、後藤は、御家人とは言え、将軍に直接仕える直参である。
藩士たちは、将軍に仕える大名の家臣であり、陪臣にあたる。
しかも、外様大名の陪臣であるため、本来、面と向かって御家人と対立することは無い。
だが、多くの同僚を殺された直後であるため、殺気立っていた。
藩士たちの数が多く、後藤たちが二人と言うことも不利に働いた。
岡っ引きや手下、小者たちは多く集まって来ていたが、武士同士の争いに彼らは入って来ない。
他の野次馬と同じく、事の成り行きを遠巻きで眺めている。
「景山、抜くなよ」
後藤が囁いた。
いくら殺気立っていても、無手の同心に斬りかかってくる藩士はいまい。
しかし、こちらが抜けば、すでに抜刀している藩士たちは斬りかかって来るかも知れない。
……まだか?
後藤は、事態を収拾できる人物がやってくるのを待った。
すでに、報せは届いているはずである。
藩士の一人が挑発をするように、再び人魚の骸に刀を突き立てた。
「おのれ、反抗するか」
景山の声が低くなった。
景山の腰が沈み、左手で鯉口を切る。
……いかん!
後藤が焦ったとき、蹄の音が響いた。
「無数の人魚が出たとは真か!」
そう叫んで現れたのは、与力の佐竹であった。
後藤が走らせた市井の男が、見事伝令の役を果たしていたのだ。
「おお、討ち取ったか」
あちこちに転がった人魚の死骸を見た佐竹は、場の緊迫感に気付かぬまま、嬉しそうな声をあげる。
そして、景山、後藤の横で馬から降りた。
本来御家人は、馬に乗ることを禁じられていたが、与力だけは乗馬を許可されている。
与力が現れたことで、さすがに藩士たちは後ろに下がり、居住まいを正した。
「……ん、どうしたのだ?」
馬を降りた佐竹は、ようやく刺々しい雰囲気に気が付いたようであった。
「実は……」
後藤が手短に説明を始めた。
多くの人魚が出現し、外様大名たちの繰り出した小舟のほとんどが沈められたこと。
人魚は上陸し、野次馬に被害が出たこと。
托鉢僧の助力により、多くの人魚を討つことが出来、残る人魚たちは濠へ逃げたこと。
人魚は、人間を改造して造られていた疑惑があること。
そして、今、骸となった人魚の処置を巡り、外様大名の藩士たちともめていることを話す。
藩士たちは、佐竹の後から、険のある目でこちらを見ている。
ただ、距離があるため、後藤の言葉は聞こえていない。
後藤も、それを踏まえて、声を抑え気味にして話をしている。
「……なるほど。
藩士どもは、役に立たなかったと言うのに、権利を主張しておるのだな」
佐竹は不愉快そうな顔になると、首を回して藩士たちを睨みつけた。
……やはり、藩士たちに敵意を向けたか。
……佐竹様の性格ならば、こうなるとは予想しておったが。
……ここで「退け」と頭ごなしに命じれば、一層とこじれるのだがなあ。
後藤は困った顔になると、ひとつ小さな溜息をついて佐竹に声をかけた。
「佐竹様」
「……何だ?」
顔を戻した佐竹に、後藤はある提案をした。
あまり気の乗らない提案である。
「……今、何と申した?」
それを聞いた佐竹は、困惑した顔になる。
横に立つ景山も、後藤の突拍子もない提案を聞き、驚いた顔になった。
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